愛媛県松山市出身で静岡市在住の宇都宮さんからの情報で、現地取材に車で行った。
松山市から車で行ったが、静岡県に入ってから幾ら走っても静岡県で嫌になるくらい静岡県も新潟と時同様道のりは長かった。
洞慶院での取材後は、富士山を一周、御殿場から、河口湖に出て田貫湖で富士山を取り帰路についた。
さて、石碑の所在地は、静岡県静岡市葵区羽鳥にある曹洞宗・洞慶院の参道に建立されている。
平成30年12月1日現在、秋山好古揮毫の石碑は全国に52基発見されているが、二人が揮毫した石碑はこの石碑のみである。
揮毫者は、秋山好古でもう一人は豊邉新作である。
篆 書「忠魂」を秋山好古が揮毫し、題書「愛馬追悼碑」を豊邉新作が揮毫している。
建立者は、陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級、三浦金蔵氏、静岡市の出身で実家は薬局を営み金蔵氏自身も自宅で馬を飼い可愛がっていたそうだ。
当時の軍人は、皇国から与えられた機器と自分の健康管理に気を付け、いざ有事に備えて日頃の訓練をしていれば良かったが、騎兵隊員は、その上に軍馬の飼育と管理が大変な役割であった。軍馬なくて騎兵隊員は陸に上がったカッパ同然である。
よって騎兵隊員は大変馬を可愛がったと言われている。
秋山好古も東京の自宅で馬を飼っていたが、当時東京市の一部では自宅で馬を飼ってはいけない条例が施行され、好古は馬を飼ってもいい地区に移転してまで馬を可愛がったそうだ。
大正13年松山の北豫中学校長として帰郷した時、松山の自宅でも馬を飼うのではないかと心配して、内緒で東京から馬蹄さんが松山に来て様子を見たが、流石に好古も松山では馬を飼わず馬蹄さんは東京に帰ったそうだ。
三浦金蔵氏も静岡の自宅で馬を飼い大変可愛がっていたと伝えられている。その為この石碑を建立した。
石碑の題書「愛馬追悼碑」の揮毫者は、豊邉新作で秋山好古が最も信頼をした副官であった。
好古が教育総監時代、騎兵監をしていた。豊邉新作は、新潟県長岡の出身で、有名な長岡藩筆頭家老の河井継之助の従兄弟の子供で、豊邊新作の父と長岡藩家老、河井継之助は従兄弟同士である。
静岡県静岡市葵区羽鳥にある洞慶院の参道に建立されている「愛馬追悼碑」
1.碑 文 : 愛馬追悼碑・忠魂
2.所 在 地 : 静岡県静岡市葵区羽島1840番地 洞慶院・参道入口
3.揮 毫 者: 陸軍大将正三位勲一等功二級 秋山 好古・・忠魂
陸軍中将従三位勲二等功三級 豊邊 新作・・愛馬追悼碑
4.建 立 者: 陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級 三浦 金蔵
5.建立年月日: 大正 8年 4月 3日
6.石碑大きさ: 高さ 1m 65㎝ 横幅 82㎝ 厚み 13㎝
7.石碑裏面撰文: 別段の通り
建立者、陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級、三浦金蔵は、愛馬追悼碑建立に及び、直属の上官であった豊邊新作に揮毫依頼したが、私よりも、秋山好古大将に頼んでやろうと取り扱った。しかし好古は豊邉中将が揮毫するようにと言ったが、二人とも譲り合い、結局二人が揮毫する事になった。石碑上段に「忠魂」を秋山好古が揮毫、題書「愛馬追悼碑」を豊邊新作が揮毫した珍しい石碑が建立された。
また、戊辰戦争の争乱から大東亜戦争に至るまでその間、馬や犬や鳩も数多く犠牲になった。
その御霊を弔い顕彰するため「軍馬・軍犬・軍鳩之碑」が各所に建立されている。
石碑上部に篆書「忠魂」を秋山好古が揮毫。
石碑の題書を豊邊新作が揮毫した。
揮毫者は、
陸軍大将正三位勲一等功二級 秋山 好古 篆書
陸軍中将従三位勲二等功三級 豊邊 新作 題書
好古揮毫の石碑は、現在52基発見されているが、二人が揮毫しての石碑は静岡市の石碑だけである。
石碑に揮毫した二人の氏名が表記されている。
石碑裏面で、刻印が浅く殆ど読めない。
後日、静岡市葵区教委から頂いた石碑裏面の撰文。
石碑裏面に書かれている撰文解釈。
石碑の写真を撮影しようと思い石碑にいってみると、なんと石碑の前に車が2台駐車してあり写真が撮れなく所有者を探し、車を移動してもらい撮影した。
洞慶院の境内は広く、駐車場も十分に確保してあり、梅の樹が沢山植栽されていた。花の時期には観光バスで大勢の人が訪れる梅の名所だそうだ。
曹洞宗久住山の寺院、洞慶院の本堂。
曹洞宗久住山の寺院・洞慶院の住職さん、秋山好古揮毫石碑建立についての詳細は住職の代が変わり、その経緯は分からないと言われた。
洞慶院の案内図。
秋山好古揮毫石碑所在地を案内図に表示をしますと住職は言われた。
現在の案内図には、秋山好古揮毫の石碑所在地を案内図に表示してあると思います。
秋山好古には優秀で信頼できる副官が3名いた。
3名共に越後国、新潟県出身者であった。
その3名は「豊邉新作・建川美次・山内保次」である。
(写真:秋山好古と新潟の人びとより)
先ず、豊邉新作である。
日露戦争当時豊邉新作は、秋山好古率いる騎兵第1旅団で、豊邉支隊長(大佐)として激戦地である黒溝台合戦で、ロシアの主目標だった沈旦保を、最も信頼する豊邉新作に死守させ猛攻をしのいだ勇者である。
豊邉の父と、長岡藩筆頭家老の河井継之助は従弟同士で、明治41年4月少将・騎兵実施学校長に就任している。
日清戦争終結後、予備役になるのではと思っていたところ、日露戦争が勃発、秋山騎兵第1旅団長から、重要な任務与えられその職務を全うした。豊邉は人を押しのけ、踏み台にしてまで昇進しようとはしない人柄で、秋山旅団長はそんな控えめな人柄と真面目で実直な豊邉新作を信頼していた。
建川美次は:
画像の「残影敵中横断三百里」建川斥候長の生涯の書籍となり、その後映画化された人物である。
建川美次は、明治37年暮れに日露両軍が対峙した今の中国東北部の沙河にあって、秋山第1旅団長の命令を受け、ロシア軍の動静、陣地の構築状況を調査する挺身斥侯隊を編成し、ロシア軍の敵中突破を図りながら、敵の背後を回って敵情を詳しく探り、偵察を報告している斥侯隊長である。
明治38年1月9日から2月1日までの23日間、1200kmの斥侯活動で、建川中尉を隊長とする斥侯隊は計6騎であった。
秋山第1旅団長は、予定の日程を過ぎても帰還しない建川斥侯隊は全滅したと思っていた矢先、人も馬もやつれはてた騎兵6騎が凄い情報を持って帰って来たのであった。
その後、建川美次は大東亜戦争開戦時、駐ソ連大使として昭和16年4月13日、松岡洋右とともに、スターリンやモロトフとの間「日ソ中立条約」に調印している。
(写真:秋山好古と新潟の人びとより)
23日間、1200kmの斥侯活動で、建川中尉を隊長とする斥侯隊は計6騎であった。
極寒の時期の斥侯は、大変厳しい任務で、温暖な地方で育った者には務まらない任務、よくぞ23日間耐え抜いた斥侯隊員である。
斥侯隊長を任命するのは、秋山旅団長が任命するが、斥侯隊員を選任するのは、斥侯隊長が選出し旅団長が許可する。
斥侯隊員は、日頃から斥侯隊長と気質や考え方気心の知れた上に、体力堅固で
1、 記憶録が優秀
2、 俊敏さがあり
3、 協調性必要
4、 忍耐力旺盛
5、 ロシア語が話せ理解できる
6、 基本的に偵察であるが、時には攻撃、追跡の大きな任務がる・・小心者には務まらない任務である。
(写真:秋山好古と新潟の人びとより)
山内保次は:
3人目の副官は山内保次である。
山内保次は、新潟中学・陸軍士官学校共に建川美次の1年後輩で、新潟中学時代は會津八一と同級生である。昭和になり新潟地区の司令官であった山内は昭和20年7月から同年10月まで伊藤辰治郎邸(現北方文化博物館新潟分館)で暮らしていた。
昭和11年1月11日松山市道後公園に建立された秋山好古騎馬像制作にあたり、山内保次がモデルになった。
好古騎馬像制作を受けた彫刻家、東京の「横江嘉純」は、秋山好古騎馬の姿は見たことないので制作を断ったが、秋山好古将軍銅像建設委員長・井上要の強い要望により引き受けた。
彫刻家「横江嘉純」に秋山好古の騎馬姿を披露し好古のモデルなったのが山内保次である。
秋山旅団長は、斥侯隊を建川隊と、山内隊を編成し斥侯活動に送り出す。
前記の様に、建川隊は予定を過ぎても帰還せず、全滅したかと思っていたが23日目に、馬も隊員もやせほそりて帰還した。
山内隊は、予定通りの日程で重要な情報を持って帰還し、激戦地となった黒溝台会戦で、ロシア軍の猛攻を秋山騎兵団が守り抜き日本軍の壊滅の危機を救った。
そして奉天大会戦でも秋山騎兵旅団が大きく迂回し敵後方を撹乱、ロシア軍の撤退を誘発し、日本軍を優位に立つ事が出来、日露講和条約締結に繋がる事になったのは、元を正せば、建川斥侯隊、山内斥侯隊の情報を基にした作戦が立てられた事であった。
山内保次がモデルになり制作された秋山好古の銅像。
好古大将死後高徳を慕うあまり、井上要氏が銅像建委員長となり、昭和11年1月11日、道後公園(中世の城郭跡・湯築城)内に建立された好古の騎馬像である。
作は、富山県出身東京在住の彫刻家横江嘉純である。
銅像は、昭和18年、先の大戦中に金属供出で撤去された。
昭和11年1月11日、の除幕式には、秋山将軍と縁故深き北豫中学校職員生徒600名、陸軍松山歩兵22連隊将兵500名、陸軍大臣、第1師団長、愛媛県知事、松山市長、その他来賓多数が参列し銅像建設委員長井上要氏の式辞で盛大な除幕式が行われた。
銅像の台座には、秋山好古の後輩、伊予松山出身の川島義之陸軍大臣の筆による頌功文刻まれた。
最後に遺族代表、秋山好古の長男、秋山信好氏の答辞で除幕式は終えた。
(昭和11年11月1日発行、伝記秋山好古より引用)
秋山好古騎馬像のレプリカ、現在、秋山兄弟生誕地・愛媛県立松山北高等学校・千葉県習志野市大久保・習志野騎兵連隊史跡保存会の三カ所に大切に保存されている。
画像の秋山好古騎馬像のレプリカは秋山兄弟生誕地が保存している。
昭和11年1月11日、道後公園「中世の城郭跡・湯築城」内に騎馬像が建立された。
好古大将死後高徳を慕うあまり、井上要が銅像建委員長となり寄付を募り建設、製作は、富山県出身、東京在住の彫刻家横江嘉純である。
この銅像は、先の大戦中に金属供出で鋳つぶされ幸いそのレプリカの一つが愛媛県立松山北高等学校に保存されていたので其れを参考に原作者の子孫の監修も受けて、T社のコンピュウタ―を駆使して制作図面を作成し、当時と同じ大きさに復元された。
完成は、平成17年1月18日 財団法人常盤同郷会が、秋山兄弟生誕地整備事業の記念として富山県高岡市で制作復元さし秋山兄弟生誕地に建立した。
愛媛県立松山北高等学校(旧北豫中学校)の校長室に保存されている秋山好古の騎馬レプリカ。
その上に秋山好古揮毫の扁額「荒怠相誡」が掲げてある。
「荒怠相誡」とは、(荒んだ心や怠け心を互いに戒め合う)として掲げられ、現県立松山北高等学校校訓のひとつとなっている。
千葉県習志野市大久保・習志野騎兵連隊史跡保存会にある秋山好古騎馬像のレプリカ。
行ってみたかった白糸の滝、取材の帰り観光。
静岡の石碑取材の帰りに。
前日は降雨で富士山は雲の中であったが、翌日は画像の様な素晴らしい富士が見えた。
この時期は山頂からのダイヤモンド富士を見る事は出来ないが、年間2回山頂からのダイヤモンド富士を見る事が出来る。4月24日・8月20日前後7日間だそうで、時間は午前6時頃だそうだ。
撮影場所は、田貫湖である。
画像は、5月18日、午前5時16分撮影。
5月18日、午前4時55分撮影。
5月18日、午前4時37分撮影。
田貫湖では撮影者の為に階段状に造られた撮影用のデッキが作られていた。