3月20日、道後温泉駅前にある放生園に「当時の野球ユニホーム」姿の青年正岡子規の銅像が建立され除幕式がおこなわれました。
建立したのは、松山中央ライオンズクラブが結成50周年記念として事業費1200万円で建立し、松山市に寄贈しました。
正岡子規の野球姿像は、高さ3mで、子規が22歳、明治23年春の写真を元に再現、右手にバット、左手にボールを握り腰かけています。
銅像の左には、「まり投げて 見たき広場や 春の草」の俳句を掲示してあります。
この俳句掲示は、季節に合わせた野球に関する俳句を掲示するそうです。
今年、高校野球21世紀枠候補に選ばれ甲子園に出場する愛媛県立松山東高校野球部は県内最古の野球部で、松山東高の前身は松山中学、正岡子規の母校であります。
正岡子規によって松山に明治22年野球が伝えられ、明治25年に設立された「球技同好会」が起源で硬式野球部の設立は愛媛県内で最古であり、昭和25年に、夏の甲子園で優勝しています。
21世紀枠候補に選ばれ、その後選抜出場が正式に決定、主催者の毎日新聞によれば、「(選抜史上)過去最長のブランクを埋める82年ぶり2回目」の出場となりました。・・と紹介されております。
野球ユニホーム姿の青年正岡子規の銅像建立は、奇しくも選抜甲子園に出場する愛媛県立松山東高校の記念にもなる銅像となりました。
子規も喜んでいると思います。
対戦相手は、東京代表、二松學舎大付属高校で大会5日目第3試合です。
学校法人二松學舎の前身である、漢学塾二松學舎を創設した、三島中洲は、伊予松山藩の出身であり、漢学塾二松學舎で学んだ夏目漱石が、松山東高校の前身・愛媛縣尋常中学校(松山中学)時代に教鞭をとった、とてもご縁のある学校との対戦となります。
不思議な巡り合わせであります。
両校の健闘を祈ります。
3月20日、道後温泉駅前にある放生園に「当時の野球ユニホーム」姿の青年正岡子規の銅像が建立されました。
高さ3mで、子規が22歳、明治23年春の写真を元に再現、右手にバット、左手にボールを握り腰かけています。
明治22年、子規は松山に帰る度に野球を子供たちに教えました。
最初に教えたのは、子規門の高弟、河東碧梧桐でした。東京予備門時代には、秋山眞之や夏目漱石達と野球を楽しんでおります。
子規像の説明板、英文と日本語。
子規像の説明板。
第87回全国高等学校選抜野球大会で紹介されました、塩原金之助(夏目金之助・漱石)の卒業証書です。
塩原金之助、明治14年11月二松學舎の卒業証書。
二松學舎を卒業し東京大学予備門に進学、予備門時代に正岡子規と秋山眞之との出会いがありました。
夏目金之助と正岡子規は、東大に進学しますが、秋山眞之は東大進学を断念し、海軍兵学校に行きます。
参考事項:夏目漱石は、慶応3年1月5日江戸の牛込馬場下の夏目家5男として出生、明治元年11月塩原家に養子として入籍するが、その後夏目家に復籍します。
漱石は、明治28年松山中学の英語教師として赴任、52日間漱石の下宿先(愚陀佛庵)で子規と共に生活をしますが、この時子規の俳号であった「漱石」が気に入り、子規より漱石を譲り受けて、夏目漱石と呼ばれるようになりました。本名は、夏目金之助です。
建立したのは、松山中央ライオンズクラブが結成50周年記念として事業費1200万円で建立し、松山市に寄贈しました。
正岡子規の野球姿像は、高さ3mで、子規が22歳、明治23年春の写真を元に再現、右手にバット、左手にボールを握り腰かけています。
銅像の左には、「まり投げて 見たき広場や 春の草」の俳句を掲示してあります。
この俳句掲示は、季節に合わせた野球に関する俳句を掲示するそうです。
今年、高校野球21世紀枠候補に選ばれ甲子園に出場する愛媛県立松山東高校野球部は県内最古の野球部で、松山東高の前身は松山中学、正岡子規の母校であります。
正岡子規によって松山に明治22年野球が伝えられ、明治25年に設立された「球技同好会」が起源で硬式野球部の設立は愛媛県内で最古であり、昭和25年に、夏の甲子園で優勝しています。
21世紀枠候補に選ばれ、その後選抜出場が正式に決定、主催者の毎日新聞によれば、「(選抜史上)過去最長のブランクを埋める82年ぶり2回目」の出場となりました。・・と紹介されております。
野球ユニホーム姿の青年正岡子規の銅像建立は、奇しくも選抜甲子園に出場する愛媛県立松山東高校の記念にもなる銅像となりました。
子規も喜んでいると思います。
対戦相手は、東京代表、二松學舎大付属高校で大会5日目第3試合です。
学校法人二松學舎の前身である、漢学塾二松學舎を創設した、三島中洲は、伊予松山藩の出身であり、漢学塾二松學舎で学んだ夏目漱石が、松山東高校の前身・愛媛縣尋常中学校(松山中学)時代に教鞭をとった、とてもご縁のある学校との対戦となります。
不思議な巡り合わせであります。
両校の健闘を祈ります。
3月20日、道後温泉駅前にある放生園に「当時の野球ユニホーム」姿の青年正岡子規の銅像が建立されました。
高さ3mで、子規が22歳、明治23年春の写真を元に再現、右手にバット、左手にボールを握り腰かけています。
明治22年、子規は松山に帰る度に野球を子供たちに教えました。
最初に教えたのは、子規門の高弟、河東碧梧桐でした。東京予備門時代には、秋山眞之や夏目漱石達と野球を楽しんでおります。
子規像の説明板、英文と日本語。
子規像の説明板。
第87回全国高等学校選抜野球大会で紹介されました、塩原金之助(夏目金之助・漱石)の卒業証書です。
塩原金之助、明治14年11月二松學舎の卒業証書。
二松學舎を卒業し東京大学予備門に進学、予備門時代に正岡子規と秋山眞之との出会いがありました。
夏目金之助と正岡子規は、東大に進学しますが、秋山眞之は東大進学を断念し、海軍兵学校に行きます。
参考事項:夏目漱石は、慶応3年1月5日江戸の牛込馬場下の夏目家5男として出生、明治元年11月塩原家に養子として入籍するが、その後夏目家に復籍します。
漱石は、明治28年松山中学の英語教師として赴任、52日間漱石の下宿先(愚陀佛庵)で子規と共に生活をしますが、この時子規の俳号であった「漱石」が気に入り、子規より漱石を譲り受けて、夏目漱石と呼ばれるようになりました。本名は、夏目金之助です。