EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

新潟県・「新潟市の旅・秋山好古と新潟の人びと」 3

2011年06月14日 | 新潟市の旅「秋山好古と新潟の人びと 3
6月8日、北方文化博物館宿泊施設「大呂庵」に泊り翌9日早朝博物館周辺を散策後、沢海藩城跡を北方文化博物館、佐藤統括室長さんの案内で見学「現在は阿賀野川河川敷公園」して神田氏宅を訪問、記念の写真を撮り、新潟市街地に移動、好古の副官を務め、昭和11年松山市道後公園に建立された好古騎馬像のモデルとなった山内保次が生活した北方文

化博物館新潟分館を見学、伊藤分館長さんの案内で一般公開してない離れを見聞(ここで山内保次が生活)、立派な造りで、昭和39年(1964年)6月16日13時1分に発生した新潟大地震に耐えびくともしなかったそうで、昔の大工さんはいい仕事してますねと・・皆で褒め称えた。

その後、合津八一記念館、旧斉藤家、護国神社、日本海海岸等々見学した。
どの施設を伺っても新潟市の皆さんは心穏やかで温かい気持ちで持て成しを受けた。

昼食後、新潟市一番の高層ビル「NEXT21(ネクストにじゅういち)は、新潟市中央区にある高層ビル。萬代橋や朱鷺メッセなどと並び、新潟市のランドマーク的存在となっている。最上階から越後平野を暫し眺めながら改めて広大さに驚き、四国四県で取れる米がこの平野だけで収穫出来そうな感じがした。

ここNEXT21は、新潟市役所があった場所で建物は地上21階、地下3階建てで高さは125mあり、1990年代の新潟市では一番の高さを誇っていたが、2003年に竣工した万代島ビル(朱鷺メッセ)に抜かれ市内では2番目の高さである。1階と2階とを結ぶエスカレーターは螺旋状になっているほか、エレベーターの内部がガラス張りのシースルーエレベータになっている。

夕食は、神田氏の招待で新潟名物をご馳走になり、二次会では「新潟ブルース」と「この街で」を歌い楽しい一時を過ごさせて頂いた。・・二次会の席(オーナー)がなんと土佐(高知県)出身の美人で・・すっかり越後人になっていた。


北方文化博物館新潟分館正面玄関


北方文化博物館新潟分館中庭


秋山好古の副官を務めた「山内保次」が暫く生活をした離れ・・普段は一般公開してない貴重な文化財・・内部はもとより軒下の垂木にいたるまで手の込んだ造作であった・・
昭和39年(1964年)6月16日13時1分に発生した新潟大地震に耐えびくともしなかったそうで、昔の大工さんはいい仕事してますねと・・皆で褒め称えた。


秋山好古の副官を務めた「山内保次」が暫く生活をした離れ・・普段は一般公開してない貴重な文化財・・座敷、床の間を背にして記念に一枚撮りました・・


山内保次は馬の絵を描くのが得意中の得意で、あっと言う間に書き上げたそうで、これも未公開のものを見せていただき、許可を得て写真を撮らせて頂きました


NEXT21でここからの越後平野眺望は圧巻でした・・手前の河川は信濃川


新潟県護国神社境内に建立されていた伊予大洲藩船殉難者慰霊之碑(大洲史談会参拝記念・平成12年3月13日)
後ろに沢山あるのは戊辰戦争で殉職した各藩士達の墓石で、数年前心無き者によりなぎ倒されたそうです


新潟県護国神社境内と本殿で広大な敷地の社があり、参道に沢山のいろいろな記念の石碑が建立してあった


新潟市の日本海海岸でこの日は曇りで佐渡島がほんの一瞬で見る事が出来た
この海岸で北朝鮮による拉致被害にあった「横田めぐみさん」この海岸から拉致されたのでしょうか・・元気で早く日本に帰還できる事を祈った
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新潟県・「新潟市の旅・秋山好古と新潟の人びと」2

2011年06月14日 | 新潟市の旅「秋山好古と新潟の人びと 2
新潟県・「新潟市の旅・秋山好古と新潟の人びと」2

6月9日、昨晩北方文化博物館宿泊施設「大呂庵」に泊り早朝博物館周辺を散策した。

先ず秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」を参拝、三度目の拝観、そして江戸時代から伊予松山と縁がある沢海藩主四代目の墓参をし、沢海藩城址を見学「現在は阿賀野川河川敷」公園となっている。

沢海(現在、新潟市江南区沢海)と伊予松山とは江戸時代伊予松山藩初代藩主、加藤嘉明との繋がりから、大正2年には、秋山好古が高田の第13師団長として赴任、同じ時期に愛媛県知事の伊澤知事が、新潟県知事に転任赴任現在は、松山市の歌「この街で」の作曲家、新井満氏、長い繋がりがある。

註1:沢海藩は慶長15年(1610年)新発田藩二代藩主溝口宣勝の弟、溝口善勝(沢海藩初代藩主)が新発田藩から1万2千石を分知され成立。

溝口政勝没後嗣子、政良が三代藩主となるが、嫡男政武が早世した為養子政親を四代藩主に迎える。
しかし政親の不行跡により貞享4年(1687年)沢海藩は廃絶となり領地は幕府直轄天領となる。
四代藩主溝口政親は承応(じょうおう)2年生まれ。近江(おうみ)(滋賀県)水口(みなくち)藩主加藤明友の次男で加藤 明友(かとう あきとも)は、石見吉永藩主。後に近江水口藩の初代藩主となる。加藤嘉明の孫にあたる。

註2:加藤 嘉明(かとう よしあき)は、伊予松山20万石の初代藩主である。

註3:政親の不行跡とは・無能で、百姓に対しては過酷な重税、おまけに酒に溺れては狂乱に陥る振舞いがあったため、貞享4年(1687年)8月、所領を没収されて兄の加藤明英の江戸藩邸にて謹慎を命じられた。こうして、沢海藩は廃藩となったのである。

新井満さん作詞・作曲「松山市の歌「この街で」
「この街で」
作詞:新井満 作曲:新井満&三宮麻由子 編曲:井口拓磨 
この街で生まれ この街で育ち  
この街で 出会いました あなたと この街で
この街で恋し この街で 結ばれ  
この街で お母さんに なりました この街で
あなたの すぐそばに いつもわたし
わたしの すぐそばに いつも あなた
この街でいつか おばあちゃんになりたい 
おじいちゃんに なったあなたと 歩いてゆきたい  
坂の上に広がる 青い空 
白い雲が ひとつ 浮かんでる  
あの雲を 追いかけ 夢を追いかけて よろこびも 
かなしみも あなたと この街で  
この街でいつか おばあちゃんになりたい
おじいちゃんに なったあなたと 歩いてゆきたい  
この街でいつか おじいちゃんになりたい
おばあちゃんに なったあなたと 歩いてゆきたい    
いつまでも 好きなあなたと 歩いて ゆきたい

新井さんが自費でレコーディングし、原盤を松山市に寄贈、市がまちづくりイベントのBGM等に活用し、色々なところで使われています。愛媛銀行本店支店全店でBGMとして流している。やはりはじめて出会った感動はずっと残っています。
またJR松山駅では列車が着くたびに「この街で」が流れます。

私も今回越後の旅をし出会った皆様の事は末永く脳裏に刻まれ忘れる事はないでしょう。


越後の「豪農の館」空撮で作成したポスター、現在は上部の土地を野外ステージ、駐車場、レストランが増設されている。
生前、司馬遼太郎は、私ども戦後日本人は、不便は便利に抗しがたい。それに歯止めをかけるのは、陸羯南と北方文化博物館の伊藤文吉で、戦後日本で初めて私立博物館として開設した。・・先日新潟に伺った時に伊藤文吉館長にもっと骨格のある日本を構築する必要ありと貴重なお話を伺った。

ポスター:北方文化博物館提供・・昭和58年頃の写真で、その後関越自動車道、北陸自動車道などが開通し、集落にバスが渋滞し、農耕車が出入りできなくなり、大問題となり伊藤家の裏の田 んぼを大駐車場にした経緯があり現在は少し様子が変わっている。




北方文化博物館正面、詳細は北方文化博物館のHPご覧下さい。


北方文化博物館に隣接する日枝神社境内に建立されている好古揮毫石碑「忠魂碑」毎年石碑前で慰霊祭が開催されている・・石碑撮影は難しくこの日は石碑に木漏れ日が降り注ぎ綺麗な石碑は撮れなかった。


北方文化博物館外側渡り塀・・伊予松山城二之丸御殿の敷地よりも広大さにビックリ


北方文化博物館の駐車場で、ヘリポートも完備してある。


北方文化博物館の宿泊施設「大呂庵」お風呂も桧造りの立派


北方文化博物館の宿泊施設「大呂庵」のサンルーム


北方文化博物館の米蔵で現在は美術館として活用されて、いま良寛展が開催中であった


沢海城跡:慶長15年(1610年)から貞享4年(1687年)8月溝口四代続いた沢海藩城址・・現在は阿賀野川河川敷公園となっている


沢海城の古図:北方博物館提供

沢海藩は慶長15年(1610年)新発田藩二代藩主溝口宣勝の弟、溝口善勝(沢海藩初代藩主)が新発田藩から12、000石を分知され成立し、貞享4年(1687年)沢海藩当時の沢海城の古図。現在は阿賀野川河川敷公園となっている。
※沢海藩第四代藩主、溝口政親は承応2年生まれ。近江(滋賀県)水口藩主加藤明友の次男で加藤 明友(かとう あきとも)は、後に近江水口藩の初代藩主となる。加藤嘉明(伊予松山藩初代藩主)の孫にあたる。・・この時代から伊予松山と沢海のご縁があった。


秋山好古と新潟の人びとを刊行した神田勝郎氏邸宅で神田氏と

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新潟県・「新潟市の旅・秋山好古と新潟の人びと」1

2011年06月14日 | 新潟市の旅「秋山好古と新潟の人びと 1
3月26日に三度目の新潟市訪問をいたし、秋山好古を介して新潟市横越の皆さんと秋山兄弟生誕地と今後の親交を深めて行くための準備会開催であったが、東北大地震のため延期にしていた。
先日6月8日付で神田氏が書籍「秋山好古と新潟の人びと」を刊行されそのお祝いをと、そして新たに魚沼市に発見された好古揮毫石碑「戦役記念」の取材を兼ねて新潟を訪れた。

6月8日、松山市は濃霧が発生、私が搭乗する飛行機は羽田発第一便が折り返し便で、しかし羽田発の機は、条件付飛行「松山空港の条件が悪い場合は、大阪伊丹空港、または羽田に引き返す」でした。
9時過ぎに何とか着陸出来る気象条件に回復、機は松山に到着、なんとか羽田に行く事が出来た。
東京駅でも異変あり、13時12分発のMAXとき当初の発車番線が変更、慌てて一度階下に降りて変更番線に上り無事乗車出来た。

高崎を過ぎると直ぐに大清水トンネル、1番目のトンネル通過時間4分、2番目トンネル5分、3番目トンネル10分、4番目のトンネル7分、5番目トンネル3分、6番目トンネル4分、高速走行をしての時間、長いトンネルである。トンネルを出るとそこは広大な越後平野が視野に・・殆ど田植えは終えていた。

昨年3月17日に伺った時は、川端康成の世界、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった……でした」・・が今回はすっかり初夏の季節であった。

15時14分無事新潟駅到着、神田氏が車で出迎えて頂き北方文化博物館に向かい、伊藤館長、伊藤副館長、佐藤統括室長、横越コミュニティ協議会会長、新潟市江南区横越支所長、新潟市歴史研究家、18時から北方文化博物館「大呂庵」で神田氏刊行のお祝い会と交流会が始まり、その中で「新潟好古会」の設立が決まった。
伊藤館長さんの言葉に秋山好古の生き様を現代日本を背負っている人々に好古哲学を勉強してほしいと言われた。

9日は新潟市の文化施設「北方文化博物館新潟分館」「会津八一記念館」「旧斉藤家」「護国神社」「横田めぐみさん」が拉致されて海岸・・天候が悪く佐渡島は見えなかった。

10日魚沼市の好古揮毫石碑取材、11日は千葉県鎌ヶ谷市道野辺八幡宮神社
12日大阪府富田林市の鐘馗さんを撮って来ましたので画像で紹介します。


無事羽田から松山空港に着陸、予定時間10時35分発が10分遅れで離陸、雨雲を突きぬけ上空は画像の様な快晴であった。


羽田には定刻通り11時55分に着陸、羽田上空も雲が立ち込め、かなり低空になってから東京国際空港が有視界に入り無事着陸出来た。


東京モノレールの窓越しに撮った東京タワーで、東北大地震で曲がったアンテナ、修復したそうだが未だ曲がっていた。・・これ以上修復困難との由


上越新幹線、MAXときの2階車両部分


上越新幹線、MAXときの2階座席に上る階段


上越新幹線、MAXときの1階車両部分


無事予定の旅程で目的地に到着、新潟市江南区沢海にある北方文化博物館に・・
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