EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

日本100名城紀行 岐阜城

2010年09月17日 | 往年の名車 メグロ
日本100名城紀行 岐阜城

台風9号豪雨の中、岡崎城を後に国道1号線で東名道岡崎ICから再び東名道下りに乗り一宮JCT経由して東海北陸道経由、岐阜各務原ICで降り岐阜バイパス線で岐阜公園の駐車場に午後1時38分に着いた。雨はだいぶん弱まっていたが岐阜城天守は雲の中であった。

岐阜城天守にはロープウエーで上がった。(往復1050円)
長良川は、台風9号の影響で凄い濁流で名物鵜飼も中止されていた。長良川にはダムが無いので濁流が凄いとホテルの支配人は言っていた。


岐阜城:信長・道三ゆかりの城

岐阜城は、かつて稲葉山城と称していた。
金華山頂にはじめて砦を築いたのは、鎌倉幕府の執事二階堂山城守行政と伝えられている。

戦国時代には、斎藤道三公の居城でもあったところで、特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄10年(1567年)(一説に永禄7年)8月、不世出の英傑織田信長公がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、地名も「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地としてからである。

しかし、慶長5年(1600年)8月、関ヶ原合戦の前哨戦の際、織田信長公の孫秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末落城した。翌慶長6年、岐阜城は廃城となり天守閣、櫓等は加納城に移された。

 現在の城は昭和31年7月、岐阜城再建期成同盟によって復興されたもので、鉄筋コンクリート造り、三層四階構造で延べ461.77平方メートル、棟高17.7メートルの威容を誇り、城内は史料展示室、楼上は展望台として多くの人に親しまれている。

岐阜城は現在築城されている城郭のうちでは、有数の高さ(標高329メートル)にあり、 最上階からは、眼下に鵜飼で有名な清流長良川が市内を貫流し、東には恵那山、木曽御岳山が雄大な姿を見せ、北には乗鞍、日本アルプスが連なっている。

また西には伊吹、養老、鈴鹿の山系が連なり、南には濃尾の大平野が豊かに開け、木曽の流れが悠然と伊勢湾に注いでいるさまを一望におさめることができます。かつて、ここで信長も天下を見晴らしたように壮大な眺望を楽しむことができる。
 
と頂いた資料には記載してあるが、私が訪れた時、天守は霧の中で眼下の展望など全然見えなく下山してホテルに着いた頃やっと天候が回復し329m山頂の天守も見る事が出来た。

画像は、岐阜の宿舎ホテルの支配人にお願いして屋上から640mm望遠で撮影した岐阜城天守である。


岐阜城は、日本100名城第39番目の指定で、私は67番目の紀行である。
次は、(9月9日)第49番小谷城に行った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本100名城紀行 岡崎城

2010年09月17日 | 往年の名車 メグロ
日本100名城紀行 岡崎城
 
台風9号豪雨の中、長篠城を後に国道151号線で東名道豊川ICから再び東名道下りに乗り岡崎ICで降り国道1号線で岡崎城に午前11時30分に着いた。国道1号線は相変わらず渋滞していた。此処は4年前に秋山好古揮毫石碑のある静岡市の取材時に行ったときに宿泊の為岡崎に立ち寄った。この時も渋滞していた。

岡崎城

岡崎城(おかざきじょう)は、愛知県岡崎市康生町にあった城。徳川家康の生地である。別名、龍城。

戦国時代から安土桃山時代には徳川氏の持ち城、江戸時代には岡崎藩の藩庁であった。
岡崎城の起源は15世紀前半までさかのぼる。
明(めい)大寺(だいじ)の地に西郷稠頼(さいごうよりつぐ)によって築城されたのがそのはじまりで、その後、享(きょう)禄(ろく)3年(1530)に松平清康(家康の祖父)が現在の位置に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになった。

天文11年(1542)12月26日、徳川家康は、ここ岡崎城内で誕生、家康は、6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしたが、永(えい)禄(ろく)3年(1560)の桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことを契機に自立した。

ときに、19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一という偉業への基礎を固めた。
元亀(げんき)元年(1570)、家康は本拠を遠江浜松(静岡県浜松市)に移し、嫡男信康を岡崎城主とした。

天正7年(1579)に信康が自刃したあとは、重臣の石川数正ついで本多重次を城代とし、天正18年(1590)に家康が秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉(よし)政(まさ)が城主となるが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせた。

江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統)、水野氏、松平(松井)氏、本多氏(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となった。
石高こそ5万石前後とすくなかったが、大名は岡崎城になることを誇りとしたと伝えられる。
西郷氏が築いた当初の岡崎城は、砦のようなもので、城域も現在の本丸程度であったろうと考えられるが、家康の頃までには近世の城郭としての原型ができあがった。

田中吉政は、大規模な城郭の整備拡張を行い、文禄元年(1592)に、城の東・北・西に総延長4.7キロに及ぶ総堀をつくった。

また、元(げん)和(な)3年(1617)本多康紀のときに、三層三階地下一階で、東に井戸櫓、南に附櫓をもつ複合天守閣が建てられた。

城郭の整備にともない東海道が城下に引き入れられ、慶長14年(1609)には伝馬町ができて、岡崎は東海道有数の宿場町として繁栄するに至った。
明治維新を迎えると情勢は変わり、新しい時代には不用とされた城郭の大部分は明治6年から7年にかけて取り壊されてしまった。

このあとは、堀と石垣が昔日の面影をわずかに伝えるばかりであったが、岡崎の象徴である天守閣がないままではしのびないとする市民の思いは強く、昭和34年(1959)に、ほぼ昔どおりの外観の天守閣が復元された。
いにしえ、東海道を往来する旅人が仰ぎ見たであろうその姿を、今我々も眺めることができる。

と頂いた資料には記載してある。

岡崎城は、日本100名城第45番目の指定で、私は66番目の紀行である。
次は、第39番岐阜城に行く。

画像は、昭和34年(1959)に、ほぼ昔どおりの外観の天守閣が復元された。(鉄筋コンクリート造り)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本100名城紀行 長篠城

2010年09月17日 | 往年の名車 メグロ
日本100名城紀行 長篠城
 
9月7日は、松代、高遠、岩村城を紀行し、今夜は恵那市に泊まることにした。
岐阜県恵那市は、人口53,673人の街で、再開発されたためかどの建物も新しく図書館も真新しくそばにあるホテルを宿にした。

未だ昼食をとっておらず遅い昼食をしていると台風9号の雨が降ってきた。
明日は伺う城は、第46番長篠城、第45番岡崎城、第39番岐阜城に行ったが台風9号の中心を走破する事になった。

9月8日午前7時30分雨の中ホテルを出発、恵那ICから中央道に乗り、土岐JCT経由で東海環状線道、豊田JCT経由で東名道に乗り豊川ICで降り国道151号線で長篠城に向った。雨が一段と激しくなった。長篠城は雨中紀行である。午前10時5分に着いた。


長篠城

長篠城(ながしのじょう)は、三河設楽郡長篠(愛知県新城市長篠)にあった城(平城)。現在は国の史跡に指定され、城跡として整備されている。1575年(天正3年)5月の長篠の戦いに先立つ長篠城をめぐる激しい攻防戦で知られている。

城は1508年(永正5)設楽(したら)地方のいわゆる山家三方(やまがさんぼう)衆の1人菅沼元成(すがぬまもとなり)によって築かれた。1560年(永禄3)今川義元(よしもと)の敗死により武田氏に属したが、73年(天正1)徳川家康の攻略により家康の臣奥平信昌(おくだいらのぶまさ)が城主となり、まもなく武田勝頼(かつより)との間に攻防戦が起こった。

1575年のことで、これが長篠の戦いの前哨(ぜんしょう)戦となったのである。城の築かれた場所は寒狭(かんさ)川と三輪(みわ)川が合流して豊川(とよがわ)となるあたりで、天然の地形を利用した要害の城であった。

と頂いた資料には記載してある。


「長篠の戦い」「1575年、織田信長が3000丁の鉄砲を三列に並べ連続射撃を行い、無敵の武田騎馬軍団を打ち破った」ことは有名であり、その後信長は戦う集団(軍隊)と食料を作る(農耕集団)を作り士農の基礎を作った。

長篠城は、日本100名城第46番目の指定で、私は65番目の紀行である。
次は、第45番岡崎城に行く。

画像は、長篠城址史跡保存館に掲示してある説明版
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本100名城紀行 岩村城

2010年09月17日 | 往年の名車 メグロ
日本100名城紀行 岩村城
 
9月7日高遠城を紀行し午前11時に一般道を走り伊那ICに逆戻り再び中央自動車道に乗り、恵那ICで降り国道257号線で一路岩村城を目指午後1時30分に岩村城に着く。
このあたりから台風9号の影響か曇ってきた。

岩村城

岩村城(いわむらじょう)は岐阜県恵那市岩村町にある中世の山城跡で、江戸時代には岩村藩の藩庁であった。付近は霧が多く発生するため、別名・霧ヶ城とも呼ばれる。「女城主」悲哀の物語が残る。

本丸が諸藩の居城中最も高い海抜717mに位置していた。このため、日本三大山城の一つに数えられている。

日本三大山城:岩村城(岐阜県恵那市岩村町)717m、高取城(奈良県高取町)583m、備中松山城(岡山県高梁市)430m

本丸の外側に二の丸、西外側には出丸、二の丸の外側に三の丸が配されていた。本丸には二重櫓が2基あったが天守はなく、三の丸大手口にあった三重の到着櫓が天守と言えるものであった。

遠山景朝以後、岩村遠山氏が戦国時代に至るまでこの地を治め、遠山氏最後の城主は景任で、武田信玄によって攻められたが織田信長の援護もあり守り抜いた。
1572年(元亀3年)10月、信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃するために出陣し、同時に秋山信友に岩村城の攻略を命じた。

しかし、城はこの際も容易に落ちなかったが、信友は夫人を説得し妻に迎えることを条件に城は開城した。

1575年(天正3年) 長篠の戦いの後、武田勢が弱体化した期に乗じ信長は岩村城奪還を行った。長男信忠を総大将に攻城戦を行い5ヶ月にわたる戦闘の後、城は陥落した。開城の際、助命が約されていたが織田方はこれを翻し、信友夫妻ら5名が長良川河川敷で逆さ磔となり処刑された。

織田方の城となった後、河尻秀隆が城主となり城の改造を行い現在の城郭に近いものとなった。
1600年(慶長5年) 田丸氏は関ヶ原の戦いで西軍につき改易されると、松平家乗が入城した。以後明治維新まで松平氏の居城となり、明治6年に公布された廃城令により建造物は取壊された。

と頂いた資料には記載してある。

岩村城は、日本100名城第38番目の指定で、私は64番目の紀行である。
次は、第46番長篠城に行く。

画像は、太鼓櫓で太鼓櫓のいわれがある。

江戸時代後期となれば戦の無い平和な時代到来で城主が山中に住む必要が無く山麓に藩主邸を築き以後此処を政治の中心としの機能を果たす一方「太鼓櫓」を設置し城下に時を知らせたものである。

時を知らせる櫓は、庶民と藩主の絆を深める建造物であり現在岩村町が進めている遠大な故郷創生事業「作ろうまいか女城主の里事業」のモニュメントで、また「作ろうまいか女城主の里事業」は現在各地で作られている鉄筋コンクリート造りの城など偽物ではなくあくまでも「本物の城復元」を主体に、超長期計画により城全体や、城下町復元・再現する

計画である。・・と説明している・岩村町は・・何時計画が完成するのか完成の暁には再度訪問してみたいが、元気でおれば??
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本100名城紀行 高遠城

2010年09月17日 | 往年の名車 メグロ
日本100名城紀行 高遠城
 
9月7日松城の宿舎を午前8時に出発午前9時の開門を待って松代城紀行のあと長野ICから長野自動車道に乗り、岡谷JCT経由、中央自動車道に入り伊那ICで降り一路第30番、高遠城に向かった。
この日も猛暑である。

高遠城

戦国期~江戸期の城。
長野県伊那市高遠町東高遠にあり、伊那ICから車で30分程掛かる。
別称を兜(かぶと)山城ともいう。
室町期から戦国の初期にかけて諏訪氏の一族高遠氏がこの一帯を領していたが、1545年(天文14)高遠頼継(よりつぐ)のとき武田信玄に滅ぼされ、翌々47年秋山信友(のぶとも)、山本勘助らによって築かれた。

城は本丸、二の丸、三の丸のほか、法幢院(ほうどういん)・笹・南・勘助曲輪(くるわ)の各曲輪があり、自然地形を巧みに生かした甲州流の縄張りがうかがわれる。
信玄は遠江(とおとうみ)、三河に進出する拠点としてこのような大規模な城を築いたのである。

のち城主は保科正俊(ほしなまさとし)、武田勝頼(かつより)、保科盛信(もりのぶ)というように変遷し、江戸期には保科氏、鳥居氏、内藤氏が入った。
以後内藤氏8代続き明治維新をむかえる。
現在、城址(じょうし)には太鼓櫓(たいこやぐら)、城門が残り、城址公園は桜の公園として知られている。

と頂いた資料には記載してある。

東京の新宿御苑は、江戸時代に高遠藩内藤家の下屋敷のあった敷地で、戦後新宿御苑として一般公開され現在に至っている。

高遠城は、日本100名城第30番目の指定で、私は63番目の紀行である。

画像は、保科正之と生母お静の顕彰碑

慶長16年(1611年)5月7日、第2代将軍・徳川秀忠の四男として生まれる。幼名は幸松。母は秀忠の乳母の侍女で北条氏旧臣・神尾栄嘉(かんお さかよし)の娘・静(志津、後の浄光院)。

恐妻家であったとされる秀忠は静の妊娠を知り、継室・江(崇源院)に知られないよう武田信玄の次女・見性院(穴山信君正室)に預け、そこで生まれた幸松は見性院に養育された。この事実は秀忠側近の老中・土井利勝他数名のみしか知らぬことであった。

元和3年(1617年)、見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃国高遠藩主・保科正光が預かり、正光の子として養育される。
秀忠の継室・江の死後、寛永6年(1629年)18歳にして初めて父・秀忠との面会する。寛永8年(1631年)正光の跡を継ぎ高遠藩3万石の藩主となり[1]、正四位下肥後守兼左近衛中将に叙任。以後、肥後守と通称される。

兄、徳川家光没後1651年(41歳)の時江戸に招かれ20年間第4代将軍徳川家綱を助け武断政治から文治政治に転換を図り幕政と藩政の両立させながら江戸幕府265年基礎を築き上げ、高い理想と安全安心の世の中をめざした正之と大願成就を願った慈しみ深い生母お静の顕彰碑がある。

兄弟:徳川家光、徳川忠長、保科正之
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする