EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

日本100名城紀行 松代城

2010年09月16日 | 往年の名車 メグロ
日本100名城紀行 松代城
 
9月7日松城の宿舎を午前8時に出発午前9時の開門を待って松代城内に入城した。
今日も猛暑である。

松代城

戦国期には甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、北信豪族を庇護した越後国の長尾景虎(上杉謙信)との北信・川中島地域をめぐる川中島合戦へと発展する。千曲川河畔の海津城は川中島地域の拠点城郭として整備され、『甲陽軍鑑』に拠れば武田氏は北信

国衆である清野氏の館を接収し、武田家足軽大将の山本勘助に命じて築城され、『軍鑑』に拠れば本城には小山田虎満(備中守)、二曲輪に市川等張・原与惣左衛門が配置されたという。

海津城の築城は1559年(永禄2年)から開始され、翌年には完成している(『軍鑑』)。築城は屋代氏、香坂氏ら川中島四郡(埴科郡、高井郡、水内郡)の国衆が担ったという。
海津城は東条城・尼飾城とともに上杉氏への最前線に位置し、永禄4年9月に上杉氏が川中

島へ侵攻すると城代の春日虎綱(高坂昌信)は海津城において篭城し信玄本隊の到着を待ち、9月10日には八幡原において両軍の決戦が行われたという(第四次川中島合戦)。
また、海津城は川中島四郡における領国支配・国衆支配の拠点としても機能し、城代であ

る春日虎綱は郡代的権限を持っていたと考えられている。
武田氏滅亡後に、織田氏家臣の森長可の居城となる。長可は武田遺臣の子息や近隣の村から人質を集めたが彼らを住まわせたのがこの海津城、あるいは海津城下であったという。

本能寺の変が起こると長可は信濃を放棄して退却する事を決断し、海津城の人質を盾にして美濃へと退却し海津城も無人のまま捨て置かれた。以後は空白地帯となった信濃へと侵入した上杉氏の支配となったが、1598年(慶長3年)に上杉景勝が会津に転出の後は豊臣秀吉の蔵入地となり、城主には田丸直昌が任じられた。

甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つである。千曲川を背後に控え、本曲輪を三方から二の曲輪が囲み、甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀を有す。平城としては駿河江尻城が、平山城としては信濃岡城が海津城(松代城)と構造的に非常に似通っている。

と頂いた資料には記載してある。
松代城は、日本100名城第26番目の指定で、私は62番目の紀行である。

画像は、松代城、太鼓門と前橋
石垣も可能な限り当時のものを使用しているとある。

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日本100名城紀行 小諸城

2010年09月16日 | 往年の名車 メグロ
日本100名城紀行 小諸城
 
9月5日新潟市歴史講演会、6日新潟市江南区沢海地区の慰霊祭も無事終わり午後1時に北方文化博物館の館長様にお別れの挨拶を済ませ神田さんの見送りを受け帰路に着いた。

これからが日本100名城紀行である。
磐越道新津ICから磐越道に乗り、新潟中央JCTから北陸道経由、上越JCTで上信越道に乗り更埴JCT経由して小諸ICで降り小諸城に着いた。

小諸城見学して再び小諸ICから上信越道下り線に乗り長野IC近くの今夜の宿である松代に向った。

小諸城
天文23年(1554年)に竣工し、武田信豊が入城した。
武田氏が滅んだ後は滝川一益、ついで徳川氏が所領し、小田原攻めでの功労が認められ5万石で大名に再び列せられた仙石秀久が天正18年(1590年)に入城した。秀久は関ヶ原の戦いでは東軍についたが、その後も元和8年(1622年)に2代忠政が上田城へ転封となるまで居城した。

江戸時代には小諸藩の藩庁が置かれ、その後は松平氏、青山氏、酒井氏などが封じられたが、元禄15年(1702年)に牧野康重が移封された後は国替えは行われず、牧野氏10代康済の時に明治を迎えた。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(28番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
現在は、当時の建造物は石垣と現在の懐古園の入り口の三の門、市街地に存在する大手門のみが現存している。これら2つの門は共に国の重要文化財に指定されている。その他、天守台、石垣などが現存する。

現存する三の門は1615年に建てられたが、洪水によって崩壊し、現在のものは1765年に再建されたものである。大手門は近年まで民家として利用されていたが、平成20年(2008年)に再び門として修復、復元された。
また、種田山頭火が佐久市岩村田を訪れた際にこの歌碑に触れた文や俳句を残しおり、両文人の愛好者が訪れる名所となっている。

現在残っている城跡の元になったものは信玄の軍師であった山本勘助の縄張りだと言い伝えられているが、根拠となる史料はない。
と頂いた資料には記載してある。
小諸城は、日本100名城第28番目の指定で、私は61番目の紀行である。

画像は、小諸城大手門で、慶長17年(1612年)当時の藩主、仙石秀久が築いた。二層入母屋造りで石垣と門が一体化してない事や、一階が敵の侵入を防ぐ強固な造りに対し、二階は居館形式をとっている事など多くの特徴がある。

この門を建てる時大工は江戸から呼び、瓦は三河(愛知県)から運んだとされ、当時は瓦屋根は珍しかったため「瓦門」と呼ばれていた。明治維新後は民有となり小諸義塾の仮教室となり、また料亭として利用されたが、平成20年江戸時代の姿に復元された。青森県弘前城とともに大手門の双璧と言われている。

国指定の重要文化財に指定されている。
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新潟市 江南区沢海地区 慰霊祭「秋山好古揮毫忠魂碑」

2010年09月16日 | 往年の名車 メグロ
新潟市 江南区沢海地区 慰霊祭「秋山好古揮毫忠魂碑」

平成22年9月6日(月)新潟市江南区沢海にある北方文化博物館隣接の日枝神社境内にある秋山好古揮毫「忠魂碑」の前で慰霊祭が開催された。

慰霊祭は、日露戦争で沢海地区から出征し戦死された二人の陸軍兵士の英霊を御祀りするため忠魂碑を建立した。

この忠魂碑を秋山好古が当時、大正2年陸軍中将時代新潟県高田にあった連隊に師団長として3ヶ月間赴任していた時に横越村長からの依頼で「忠魂碑」を揮毫したものである。

それ以来毎年忠魂碑の前で慰霊祭を開催している。
昭和になってからは太平洋戦争で戦死した方々との合同慰霊祭をされている。

私が5年間の年月を掛けて調査してきた「秋山好古揮毫石碑」で昨年新潟市に発見された秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」の前で慰霊祭を開催されているのは新潟市だけで、現在秋山好古揮毫の石碑は47基発見されているがこのように忠魂碑を大切に護っているのも新潟市沢海の石碑のみである。


●慰霊祭
  開 催 日 : 9月6日午前11時
  開催場所 : 新潟市江南区沢海二丁目
          日枝神社境内・好古揮毫石碑「忠魂碑」の前・・「北方文化博物館の隣」 


画像は、秋山好古揮毫「忠魂碑」の前で行われた慰霊祭を開催した関係者

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新潟市 歴史講演 「秋山好古と横越の人々」

2010年09月16日 | 往年の名車 メグロ
新潟市 歴史講演 「秋山好古と横越の人々」

平成22年9月5日(日)に新潟市江南区北方文化博物館で開催された歴史講演会を公聴に行き、翌6日(月)に開催された慰霊祭に参列し、帰路は日本100名城を紀行しながら、途中滋賀県大津市の鐘馗を撮影し帰路に着いた事を紹介します。

9月3日(金)車で自宅を午前7時30分出発し、松山自動車道、瀬戸大橋、山陽道、中国道、名神道、北陸道を走破して午後3時40分日本100名城第37番目一乗谷城址を見学し、芦原温泉で泊まった。

翌日4日(金)加賀ICから北陸道に乗り一路新潟市に向う、途中糸魚川市の翡翠工房を見学、今では貴重となっている翡翠の勾玉を購入した。
新潟市には午後3時05分に到着、宿は新潟西ICの近くに取った。

講演会は、私が5年間の年月を掛けて調査してきた「秋山好古揮毫石碑」で昨年新潟市に発見された秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」を基調に講演された。

講演会次第は下記の通り

新潟市江南区沢海二丁目15番25号
   ●歴史講演:「演題:秋山好古と横越の人々」と坂の上の雲とその時代
    講  師:神田 勝郎 元横越コミニテイー協議会会長「郷土歴史研究家」
    開催日 :9月5日(日)午後1時30分~午後3時
    開催場所:北方文化博物館 
   ※講演会の詳細は、9月10日(金)の新聞「新潟日報 P12」を参照下さい。

●慰霊祭
   開催日: 9月6日(月)午前11時
   開催場所:新潟市江南区沢海二丁目
        日枝神社境内・好古揮毫石碑「忠魂碑」の前「北方文化博物館の隣」 


画像は、秋山好古と横越の人々題して講演をする神田 勝郎講師で130名の方々が神田氏の講話を熱心に聞いていた。

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日本100名城紀行 一乗谷城

2010年09月16日 | 往年の名車 メグロ
日本100名城紀行 一乗谷城
 
9月3日から10日まで8日間、新潟市歴史講演公聴と秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」前で行われる慰霊祭に参列し、帰路を利用して日本100名城紀行した。
紀行した城址は次の通り、以下ブログで紹介します。
一乗谷、小諸城、松代城、高遠城、岩村城、長篠城、岐阜城、小谷城、観音寺城、安土城、篠山城、竹田城址12城です。

一乗谷城

一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡で、戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。
遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。

一乗谷朝倉氏遺跡は、今から約500余年前の文明3年(1471)、戦国大名・朝倉氏が5代103年間にわたって越前の国を支配した城下町跡。
最盛期には、人口1万人を超えたといわれ、雄大な城下町と雅やかな文化の華を咲かせた。
しかし、朝倉氏は天正元年(1573)に織田信長に敗北。火を放たれ、その長い歴史の幕を閉じた。

そして、昭和42年、初めて本格的な発掘調査が行われて以来、当主の館や武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や道路に至るまで町並がほぼ完全な姿で発掘。
昭和46年には、国の「特別史跡」に指定、平成3年には朝倉氏遺跡内の4つの庭園が、国の「特別名勝」にも指定されました。

また、平成19年には、出土品が国の「重要文化財」に指定され、全国でも例の少ない3重指定されている遺跡。
平成21年6月7日に開催された「第60回全国植樹祭ふくい2009」では、式典会場になった。
と頂いた資料には記載してある。

一乗谷は、日本100名城第37番目の指定で、私は60番目の紀行である。

画像は、一乗谷朝倉氏遺跡のシンボルである唐門(豊臣秀吉による再建)
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