EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市城南地区歴史散策12 石手川の鎌出し

2010年08月05日 | 往年の名車 メグロ
松山市城南地区歴史散策12 石手川の鎌出し


慶長7年(1602年)加藤嘉明が松山城築城前に足立重信に命じて湯山川(現 石手川)の付替え工事を行った。しかし度々大雨が降ると氾濫を起こしていた。
享保6年(1721年)7月大洪水で堤防が決壊、大災害が発生しその都度住民は三ノ丸外堀土塁の上に避難するほど大混乱を呈していた。

石手川沿いには城下町があるばかりでなく伊予松山藩の穀倉地帯であったから藩庁も放置出来なく大改修を決断した。

享保8年(1723年)西条の大川文蔵を改修工事責任者に命じた。
文蔵は石手川の氾濫の原因は、土砂の流出、堆積による川底の浅い事、川幅が広すぎる。文蔵は川幅を狭くして水勢を高めることにより川底を深くしようとした。
このため足立重信が工法した「鎌出し・水勢を抑制する」を廃し、川に直線的に突き出す曲出を採用し工事を取り組み改修は完了した。

文蔵の苦心と努力によって石手川は一新、その後の大雨の時もほとんど氾濫を起こす事はなかった。

現在見られる立派な堤防を持つ石手川はこの時改修されたものである。
 
画像は、足立重信が石手川改修時に用いた工法「鎌出し」で、水の流れを弱めるために両岸から交互に直角に石組みしたもので、現在唯一残っている貴重な遺産である。
場所は、松山市湯渡七丁目12で、湯渡橋西、北側堤防にある。



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松山市城南地区歴史散策11 星の岡古戦場

2010年08月05日 | 往年の名車 メグロ
松山市城南地区歴史散策11 星の岡古戦場


星の岡古戦場は、鎌倉時代の末期幕府の力が弱まってきたころ、後醍醐天皇はもう一度、天皇が政治を行なう為に実権を取りもどそうと討幕を計画し王政復古の戦いを起こした。

伊予国でも幕府方と宮方に分かれて激しい戦いが行なわれた。河野一族の土居(どい)通増(みちます)と得能(とくのう)通綱(みちつな)は、宮方につき宇都宮氏は幕府方についた。 瀬戸内の宮方の取り締まりに長府に長門探題が置かれ長官職に北条(ほうじょう)時直(ときなお)がいた。

1333年2月2日幕府方の北条時直は今治市近見に上陸し宇都宮氏とともに土居氏・得能氏と戦い共に敗退し1ヶ月後、北条時直は再び幕府軍を立て直して宮方の中心である石井に攻め込んだ。 

北条時直は七千余の軍船を率いて第一軍を今出に第二軍を三津浜に上陸し伊予の反幕府軍制圧に星の岡城を占領し拠点とした。

1333年3月12日壮大な合戦が宮方の土居氏館から2Kmはなれた星の岡を中心に石井・久米・小野といいた広範で戦いがあり、伊予の宮方軍が勝利する。(東温市下林の築島神社境内に古戦の塚がある)

此れが全国に波及して同年暮れに鎌倉幕府は滅亡した。畿内では楠木正成、新田義貞が宮方軍として奮戦した。

松山市星岡町にある「星の岡山頂・薬師堂」標高75,4m横に土居氏・得能氏の功績をたたえて、明治17年5月、陸軍大学校一期生の仙波太郎(後の陸軍中将)が中心となり「星岡表忠之碑」が建立された。

なお、土居氏の館跡は、松山市土居町・土居遊園地に土居兵庫守霊廟・供養塔・五輪基・記念碑等が建立されている。

土居氏の館跡
場所:松山市土居町・土居遊園地「萬福寺西」
 星の岡古戦場「記念碑」
場所:松山市星岡一丁目1番8号「雲門寺」の山頂
 古戦の塚
場所:東温市下林甲2616番地「築島神社」

土居氏の家系によれば河野通成はこの地に住み土居を以って氏とするとある。
(通成は、通継の庶子で、通継は通信の六男である。)通成の子、土居通増は、周桑郡丹原得能の得能通綱と意気投合し後醍醐天皇を助け伊予の宮方軍勤皇の旗頭として君臨する。西条市丹原町常石山山頂に得能通綱の忠魂碑が建立されている。揮毫は秋山好古である。

※得能通綱は、河野通信の子通俊の孫である。
※参考事項:明治政府は、陸軍の将来を担う陸軍大学校を創設一期生は、明治16年4月に選抜で19名が入学、伊予松山から、秋山好古・仙波太郎の二人がいた。卒業できたのは10名で(秋山好古・仙波太郎も卒業)主席で卒業したのは東条英教(東条英機の父親)とある。

※騎兵科出身は好古のみであった。これは、将来の日本騎兵は好古がひっぱっていくということを暗示しており、事実そうなった。昭和5年11月没 72歳

仙波太郎は、福音寺の庄屋の長男で裕福な中で育ち三輪田米山に就いて漢学、習字を学んだ。維新後家運衰え独学にて勉学に励み陸軍大学校一期生として入学、卒業後陸軍の三太郎(桂太郎・宇都宮太郎)として活躍した。退役後岐阜県から衆議議員として活躍特に社会教育の基盤を作った。
趣味に文墨があり風林と号した。昭和2年2月没75歳


画像は、松山市星岡一丁目1番8号「雲門寺」の山頂に、仙波太郎が建立した星の岡古戦場記念碑「星岡表忠之碑」である。

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松山市城南地区歴史散策10 縦渕城址

2010年08月05日 | 往年の名車 メグロ
松山市城南地区歴史散策10 縦渕城址


天山の西隣に中世の城址「縦渕城址」がある。

縦淵城は、松山市東石井の北方面、小野川沿い南側の天山橋南麓にあった。
当時、城山の高さは8メートル、東西47メートル、南北86メートルの丘の上にあったが、明治21年(1888年)土佐街道(旧・国道33号線)建設の時取り崩され今はその面影もない。

 建武年間河野通盛が、道後に湯築城を築き河野氏の本拠地となるまで当城が石井領内の拠点であった。城主は、河野通有であった。

現在は、松山市東石井五丁目13番14号にある城山神社が城址で記念の石碑が建立してある。
また現在の小野川は、建武年間は縦淵川と言っていた。


河野通有

伊予国の守護職である河野氏は、承久の乱(承久3年・1221年)で没落するが河野は朝廷側につき幕府北条に破れいったん没落する。
 ただ、河野家の内一人だけ幕府側につき河野家の完全滅亡は免れた。

その人は、河野通久でその功績により、阿波国富田荘の地頭職に補任され、後に伊予国久米郡石井郷に所領替を許され家督を継ぎ縦淵城を築いた。

その後、同母弟の通継を経て、河野通有が跡を継ぎこの縦淵城から弘安の戦いのため博多に出陣し沿岸防備にあたった。
河野通有が有名なのは、鎌倉中期弘安4年(1281年)に蒙古の日本襲来事件(弘安の役)で防塁「石塁」を背にしてその前に陣を張り勝敗を決しようと勇敢な戦いをして大変な成果を上げ「河野の後築地(うしろついじ)」と称し名を馳せた。

 井出神社境内に河野通有勇姿の石造が建立されている。
 博多湾に今も残る元寇防塁「石塁」福岡市の史跡として保存されている。

註:元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代に、当時大陸を支配していた元及びそ
の属国高麗によって二度にわたり行われた日本侵略の、日本側の呼称である。
一度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、二度目を弘安の役(こうあん
のえき・1281年)という。


画像は、松山市東石井五丁目13番14号にある縦渕城址で、現在は、城山神社となっている。
境内に縦渕城址の石碑がある。
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松山市城南地区歴史散策9 天山-2

2010年08月05日 | 往年の名車 メグロ
松山市城南地区歴史散策9 天山-2


加藤嘉明は、築城に際して、徳川家康に築城の位置について、3ヶ所の候補地を上申した1番目の「天山」だ。

天山は、風土記 日本古典文学体系 岩波書店
風土記逸文・伊予の国
その中に「天山」がある。下記の通り。

 風土記は、和銅6年(713年)元明天皇が諸国に命じて地名の由来や物産、伝承を報告させたが、完全に現存するのは出雲国のものだけ。
 不完全ながら残っているものに常陸・播磨・豊後・肥前などがある。
 伊予の場合は「逸文」としてごく一部が伝わっている。

 伊予の天山は、天山香具山・・大和三山の一つ。香具山
神代紀口訣に「風土記、天上有レ山、分墜レ地。一片伊予国天山。一片大和国香具山」と記事を要記されている。

其の御影云々・・・・以下は後人の附記と認められる。
天山の姿を絵図に描いたもの(御影)天山は久米氏所管の久米郡にある故にその本居の大和の久米寺(橿原市内)に祀ったことをいうか。・・とある。

以上の事から、天山伝承を通じて香具山に親近感を持ち、昭和51年夏に松山市天山町「友の会」事務局を結成して橿原市商工観光課に香具山に関する資料と地元の様子を照会した。

それが縁となり松山市天山町の岸区長・白石事務局長と橿原市南浦町の辻本区長や福本博治・世話人の間に文通が続き、昭和52月8日には天山町の代表25名が松山名産の姫ダルマを土産に南浦町を訪れた。・・・・の記事が昭和52年5月31日(火)の讀賣新聞地方ニュース「奈良版」に掲載された。
私が、平成3年に橿原市立図書館にお願いして讀賣新聞のコピーをして頂いた。

※なお、徳島県にも神山という山があり此れも「天の香具山」「天山」「神山」は関係のある山との由

画像は、天山香具山、橿原市南浦町と伊予天山、松山市天山町との交流20周年を記念して山頂に建立した記念石碑。



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松山市城南地区歴史散策8 天山

2010年08月05日 | 往年の名車 メグロ
松山市城南地区歴史散策8 天山

慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで武勲を挙げ、伊予国半分20万石を徳川家康から拝領し、家康の許可を受けて慶長7年(1602年)1月15日、勝山に築城の工を起した。

築城に際しては、徳川家康に築城の位置について、3ヶ所の候補地を上申したところ、2番目の候補地「勝山」に許可された。

家康は2番目の候補地に築城許可する事が殆どであったそうで加藤嘉明は、築城したい場所を2番目に勝山を上申し運よく2番目の勝山に許可が下りたとの逸話がある。
1番目が、天山 2番目が勝山 3番目が御幸山であった。

画像は、伊予松山城天守最上階から撮った松山城南地区で、松山の繁華街である。
赤字の「天山」は、松山城築城時1番目の築城候補地として上申した「天山」である。もし此処に許可がおりていたら城下町の形成が変わっていた。
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