松山市城南地区歴史散策12 石手川の鎌出し
慶長7年(1602年)加藤嘉明が松山城築城前に足立重信に命じて湯山川(現 石手川)の付替え工事を行った。しかし度々大雨が降ると氾濫を起こしていた。
享保6年(1721年)7月大洪水で堤防が決壊、大災害が発生しその都度住民は三ノ丸外堀土塁の上に避難するほど大混乱を呈していた。
石手川沿いには城下町があるばかりでなく伊予松山藩の穀倉地帯であったから藩庁も放置出来なく大改修を決断した。
享保8年(1723年)西条の大川文蔵を改修工事責任者に命じた。
文蔵は石手川の氾濫の原因は、土砂の流出、堆積による川底の浅い事、川幅が広すぎる。文蔵は川幅を狭くして水勢を高めることにより川底を深くしようとした。
このため足立重信が工法した「鎌出し・水勢を抑制する」を廃し、川に直線的に突き出す曲出を採用し工事を取り組み改修は完了した。
文蔵の苦心と努力によって石手川は一新、その後の大雨の時もほとんど氾濫を起こす事はなかった。
現在見られる立派な堤防を持つ石手川はこの時改修されたものである。
画像は、足立重信が石手川改修時に用いた工法「鎌出し」で、水の流れを弱めるために両岸から交互に直角に石組みしたもので、現在唯一残っている貴重な遺産である。
場所は、松山市湯渡七丁目12で、湯渡橋西、北側堤防にある。
慶長7年(1602年)加藤嘉明が松山城築城前に足立重信に命じて湯山川(現 石手川)の付替え工事を行った。しかし度々大雨が降ると氾濫を起こしていた。
享保6年(1721年)7月大洪水で堤防が決壊、大災害が発生しその都度住民は三ノ丸外堀土塁の上に避難するほど大混乱を呈していた。
石手川沿いには城下町があるばかりでなく伊予松山藩の穀倉地帯であったから藩庁も放置出来なく大改修を決断した。
享保8年(1723年)西条の大川文蔵を改修工事責任者に命じた。
文蔵は石手川の氾濫の原因は、土砂の流出、堆積による川底の浅い事、川幅が広すぎる。文蔵は川幅を狭くして水勢を高めることにより川底を深くしようとした。
このため足立重信が工法した「鎌出し・水勢を抑制する」を廃し、川に直線的に突き出す曲出を採用し工事を取り組み改修は完了した。
文蔵の苦心と努力によって石手川は一新、その後の大雨の時もほとんど氾濫を起こす事はなかった。
現在見られる立派な堤防を持つ石手川はこの時改修されたものである。
画像は、足立重信が石手川改修時に用いた工法「鎌出し」で、水の流れを弱めるために両岸から交互に直角に石組みしたもので、現在唯一残っている貴重な遺産である。
場所は、松山市湯渡七丁目12で、湯渡橋西、北側堤防にある。