ラジオ爺の道楽三昧

原発放射能汚染により素人百姓・孫専科を奪われ、病で蕎麦打ちも廃業。最後に残ったアマチュア無線と男の料理の細々生存証明。

初夢

2011年01月02日 | その他
   
                     
何とも不味い夢をみてしまった。廃棄寸前のボロ中継車の中で何やら機材は最新鋭のハイビジョン機器、全く未知のこの機器の操作をEにいびられもがき苦しみながら「ゆく年くる年」の中継放送をしているところだった。
リタイアーする2年前、高卒最後の採用者で自分の子供より若い確か入局4年目のEを技術継承を目的に部長(後輩)の命令に従い一年間同じ勤務をしながらマンツーマンで面倒をみた。甲子園を目指していただけに実に素直で縦社会のルールも既に習得済みと思えたが、しかし約束した事や時間にも何度か遅れる事があった。時には「俺たちは何で飯を食っているんだ?秒単位でだ!」と、既にアナログ技術は終焉を迎えようとしていたので主にソフト面だけではあったが、自分が新人時代に受けた徒弟制度の様なものはさすがに通用せず除外して、惜しみなく継承した心算だ。彼は今何処で何をしているのか時折気になる事があったので夢で応えてくれたのだろう。
そんな「ゆく年くる年」記憶では14回関わり10回程はカメラマンとして撮影を担当した。この中継は大変贅沢な放送で各中継現場の持ち時間は平均して4~5分。従って自分の撮影も2~3カット、少ない時は1カットもあった。最大に念を入れて、時には議論しながらベストショットを決めるので、何年経っても自分のカットだけは記憶に残っている。
夢に誘われてリターアーして数年後に購入したテープを視聴した。この映像は最後まで現場の第一線に残る事に拘って来た我がままを理解していた部長(後輩)の計らいで、2000年喜多方市願成寺で自分が撮影した1カット。これが正に終焉となり年休や慰労休暇の消化に入りリタイアーした。
我々年代の同僚達は皆それぞれの取材先で良い意味で視聴者と癒着(友達になる)して、その後は公私共に、情報なども得ながら番組提案などもして来た。そんな一例のS君提案が採用されて1989年のゆく年は舘岩村の前沢曲家集落から中継した。翌90年には柳津町円蔵寺、91年は西会津町如法寺(鳥追観音)と、当時も温暖化で毎年全国的な雪不足で、この番組積雪が必須条件であった事を差し引いても福島局が3年連続で担当した事は恐らく「ゆく年くる年」史上でもローカル局の新記録ではなかったかと思う。そんな事を思い浮かべながら不味い初夢に誘われ、しばらくぶりに過去の「ゆく年くる年」を懐かしく視聴した。