ラジオ爺の道楽三昧

原発放射能汚染により素人百姓・孫専科を奪われ、病で蕎麦打ちも廃業。最後に残ったアマチュア無線と男の料理の細々生存証明。

3月のBand New Entity

2011年03月31日 | アマチュア無線
            
原発事故は深刻さが増すばかりで何ともやりきれない。夜、TVニュース東電の記者会見で「線量計が不足していて作業員全員が持てない状況にあり作業がはかどらない。柏崎からでも借りてくるかと考えている」とこの期に及んでとんでもない発表をした。
自分が12~3年前まで取材に訪れていた頃は全員が個人携帯、これが無ければ絶対に従事出来なかったのに、非常時とは云え安全管理が全くデタラメで何とも呆れてしまう。
こんな体質 http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html にもう一度目を通して欲しい。
大きな不安とストレスを抱えながらも慣れは恐ろしく、全く見向きもしなくなっていた無線も5日程前から気になり少しずつ手を出し始めた。僅か二週間程のご無沙汰だったがHigh Bandのコンデションは驚く程回復していて、10mの回復ぶりからは待望のサイクル24の到来が思わされる。
以下今月のBand/Mode New Entitiy
 ☆4A4A(Revillagigedo)→30mRTTY/17mCW
 ☆SV9/DJ7RJ(Crete)→12mCW
 ☆3D2DX()Rotuma Is)→12mCW
 ☆TJ3FC(Cameroon)→12mSSB
 ☆TJ3AY(Cameroon)→10mSSB
 ☆VP5/W5CW(Turks&Caicos Is)→12mCW

    

年貢納入

2011年03月29日 | 素人百姓
 
                     
 
                     
原発事故放射能汚染で『農産物出荷停止、自給と土壌耕作も罷りならぬ』とのお神のお達しで、我が素人農園にも被害が及びもう廃業と一時は考えたが、これまで丹精を込めて水田から畑に改良した愛着のある土地、何時再開出来か全く不明だが、借地権確保のために、例年はお彼岸に納めて年貢を今日納めて来た。
途中畑に寄って作物の様子を見ると紅菜台は既に収穫期に入り、かぶれ菜もあと10日程で収穫期を迎え、300本の玉ねぎと40株の春キャベツも順調に成育中だった。
これらは全て廃棄処分、じゃが芋やなす・きゅうりの植付予定地もこのまま放置すれば藪になってしまう。代替には花でも植えて雑草対策、しかし80坪は余にも広すぎる。困った!

Arrived QSL

2011年03月28日 | アマチュア無線
            
毎日決まった時間に配達されていた郵便も地震発生以後はしばらく休止。最近ようやく配達される様になったが、神出鬼没で3日ぶりだろうか、赤バイクの音が家の前で止まり、ポストには3通のQSLが配達されていた。
以下、何れもBand NewのEntity
 ☆5R8HL(Madagascar)→40mCW
 ☆NP4A(Puerto Rico)→75mSSB
 ☆ZD9T(Tristan Da Cunha)→40mCW/30mCW

郡山青葉教室45回目

2011年03月27日 | 手打ち蕎麦打ち
 
            
                     
地震災害の大きかった郡山、教室のあるここヨーカドーの建物の一部も被害を受けて前回の13日は中止になり、しばらくの間は休講と思っていたら、数日前に開講の知らせがあり、今日から再開する事が出来た。出席者は少なく新入生1人を入れて6人。全員被害は無かったそうだが、欠席者の多くは地震で被害を受けたり原発事故で避難してしまったのかも知れない。
こんな中で今回はほぼ完全なマンツーマンの理想的な形で指導する事が出来た。しかし、自分は相変らず成行きでまた感も運動神経も最悪の生徒を担当する事になってしまった。毎回一からのスタートで一番先に始めて終わりは最終。全体の流れにも悪影響が現れているので「次回からそば打ち体験教室並の指導に変えてしばらく様子を見る」と先生の指示があったが、これ程まで鈍い人は先生も始めての事だったらしい。そして自分は次回から担当もベテランの菅野さんにお願いした。ただ「孫がそばが大好きで毎回楽しみにしているので、早く家でも打てるようになりたい」と毎回オウム返しで話すので意欲は満々、意思は尊重しなければならないと自分達の統一見解だった。
高速道路の二本松→本宮間は多くのアサファルト応急処置が施されていて被害の大きさがこんな所にも、また教室滞在中には好きなそば打ちに浸って原発事故の事もすっかり忘れて命の洗濯が出来た。

原発事故4

2011年03月26日 | 原発事故
            
出口はあるのか?素人には悪化の一方をたどっている様な気がしてならない。
不安を抱きながらも若しかしてオブラートで包み込まれて発表された情報かも知れないが、今日も08:00~13:00の間は生情報最前線に身をおく事が出来て、この間だけは何となく緊張の中にも安堵感の様なものも感じてしまうから不思議だ。
偶にはすっかり様変わりしてしまった福島発全中(全国放送)やローカル放送の送出風景を懐かしく遠目で覗きながら、知る人のほとんど居ない騒々しく出入りの激しい待機場所での待機は意外な程精神的に疲れてしまう。今や現役時代の者には何処の馬の骨だか分らない存在なので無理もないだろう。


月刊59最終号

2011年03月24日 | アマチュア無線
            
巨大地震、原発の大事故で停滞していた郵便も徐々に回復して今日待望の月刊59誌最終号が届いた。
世界でも恐らく類を見ないJA1ELY草野氏個人発行のDX(海外通信)愛好者の情報誌月刊59は3年前発行者が大病の入院中も病室にパソコンを持込み編集を続けて、休刊する事なく今日まで26年間発行されて来た。しかし、病後の回復状況や年齢を考えて廃刊する事にしたそうで、2~3ヵ月休養の後にはコンパクトな電子書籍として再発刊、インターネットで配信する予定だそうだ。
創刊号から欠かさず購読して来たが、これ以前から自分の所属するADXA(Akita DX Ass)では年に一度首都圏のDX'er達を招き交流はあったものの、当時地方のDX'erは海外の情報が極端に不足していて、自分もこの月刊59誌発刊以降は飛躍的にDXingの成果が得られる様になった素晴しい情報誌でもあった。
アナログ人間には電子書籍は何とも馴染が難く残念だが時代の流れでもあり仕方が無い事の様だ。また、時代の流れと言えば我がADXAのリーダーシップで毎年開催して来た東北6県持回りの第25回「DXを肴にして語る会」も情報化社会にあっては使命を果たして25年の四半世紀の歴史に幕を下ろす事になった。慣例で6月最終土日曜日に秋田で最終回を迎える事になり案内状も投函するだけになっていたそうだが、主催者は大地震と原発大事故で中止と即断したそうだ。
「月刊59」と「DXを肴にして語る会」は時の流れで納得できるが、原発は絶対に遭ってはならない想定外とは余にも無責任な大事故で、未だに回復の兆しも見えず悪化も懸念され何ともやりきれず、再びストレスが輪をかけて蓄積して来る。
『原発とはどんなものか知ってほしい』20年間原子力発電所の現場で働いていた人の生の声を無線仲間のブログで見つけた。現役時代原発の取材にも関わりこれらのいくつかの事は知り得ていたが、改めてどんなに恐ろしいものであるか、私達は皆騙されて来た。
http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html を是非読んで参考にして欲しい。

原発事故3

2011年03月23日 | 原発事故
            
18:00~24:00Jの勤務。10年ぶりの線表勤務を終えて00:15帰宅した。
原発事故が終息するまでOB組が現役組のサポートをする事になったが、我々アナログ人間に今や現役と対等に出来る仕事は無く、視聴者対応の窓口業務と放射線量の測定だ。自分は職員+OB5名の6人体制の線表勤務に組込まれて、この簡単な二箇所に設置された3台の線量計で30分毎に24時間連続測定して掲示板の表に記入周知する単純作業だ。
この線量計は民放に出演していた学者先生が「腕時計+αで誰でも買える」と紹介していたが、絶対量が少なくここ原発取材最前線の職場内に出入りする記者とカメラマンのごく一部にしか携帯は見られなかった。大多数のスタッフは刻々変化する掲示板の放射線量を参考に各取材現場に出向いている。学者先生方は「20歳以上は大丈夫だ」と解説してたが、我が社は『人命第一』とも耳にした。
22:30過ぎだったろうか「3号機中央制御室点灯」のニュース速報がテロップで流れるとTV操縦室付近から「おお!」と歓声が起こった。しかしこれまでに体験した人命救助の瞬間などより比較にならないほど弱いもので、単に一点の光が見えただけの安堵感だったのかも知れなかった。
現役時代には数限りなく取材現場の最前線にも出向いていたが、今の職場内にはこれまでに体験した事が無かった先の見えない不安と強い緊迫感が感じられている。

原発事故2

2011年03月18日 | 原発事故
            
この非常事態時に不謹慎だが、巨大地震発生以前の4A4A(Revillagigedo)の戦果だ。
何故か福島市内の放射能測定レベルは県内一高く、一向に沈静化の全く見えない原発事故には不安が増すばかりだ。震災直後に米軍の救援申し入れを東電と保安院(政府)は断ったと言う。即素直に受入れていたらこれ程までには至らなかったのではないだろうか。そして政治家達もこの難局を超党派で打破して欲しいと望んでいるのは自分だけでは無いはずだ。こんな状況の中で夕方ようやく水道が復旧して、一週間ぶりにまだ赤い水の風呂に入り気持ちも少しは収まった感はする。
午後、ブログにJA9LSZ/2(名古屋)さんの書き込みがあって福島局で13日以降取材活躍中である事を知った。迷惑覚悟で連絡すると今待機中で短時間なら逢えると言う。
自転車で10分、早速おしかけて玄関先で15分ほどお会いして来た。12日仙台入りして13日福島へ、19時には交代要員に引継ぎ新潟経由で帰られるそうだ。そして夜、旧友会から連絡が入り、明日以降我々にもバックアップの要請があり手伝う事になった。アナログ人間に出来る事はもう極々微力だが、我々OBの応援が現役組への励ましの一助にでもなれば幸いだ。

原発事故1

2011年03月17日 | 原発事故
            
原発事故の現状況は何とも深刻で、アメリカは80km圏内在住者全員に退避命令を発したそうだ。直線距離65Kmの福島市は放射線量測定レベルは常時県内一高く、屋内退避指示区域30Kmの南相馬市の常時4倍も高い。また一部復旧した水道水も汚染されていると言う。何故福島市だけが県内一高いのか、そして水道水の汚染も、水道局の説明は全く無い。こんな中でわずかな水と生活必需品調達の行列に毎日5~7時間も並び、1986年8.5水害で阿武隈川堤防が決壊して、床上130cmの浸水被害を受けた時よりはるかに楽なのに、全く予測の出来ない原発事故放射能汚染は精神的ダメージも大きく何とも耐え難く、もう思考力も無くなって来た。原発は憎い!

巨大地震

2011年03月14日 | 原発事故
            
電話が今朝やっと復旧した。水道は依然として断水、送水管が無数に破損して復旧の目途はたたないそうだ。幸いにも家族に怪我もなく、家の被害も外壁モルタルと内壁にわずかな亀裂が入った程度で、瀬戸物や家具類の少量の破損で収まった。
福島は自然災害の少ない所で安心していたが、今福島第一原発が深刻な状態で、アメリカは既に80Km範囲内退避を発令した。ここは直線距離で62Km、自分は寿命と思えば諦めもつくが、孫達は何とも心配で・・・でも妙案が浮かばない。
既に多くの浜通りの避難者が入って来る一方では、危険と覚った福島市民の多くは県外逃れているが、自分達に避難は考えられず、毎日ほとんど一日中自転車で水と食料品調達の行列に並んでいる。