ラジオ爺の道楽三昧

原発放射能汚染により素人百姓・孫専科を奪われ、病で蕎麦打ちも廃業。最後に残ったアマチュア無線と男の料理の細々生存証明。

8月のBand/Mode New Entity

2015年08月31日 | アマチュア無線
             
最高気温39.7度も日本一を記録する事はなかったが、沖縄を越える連日の酷暑には完全に身体と共に意欲を喪失してしまった。
しかし、お盆を過ぎた20日頃からは急激に秋を感じさせる22~3度の北海道以下の日もあり、時には肌寒さを感じながらCondxの秋を期待してダイヤルに触れてはみたが、DXSCAPEにUPされる局でさえも聴こえない事の方が多く、Bigアンテナの持ち主以外はまだ当分は楽しめない様だ。
Logを全く空白にも出来ないので、今月は飛ばしチェックをした4局のみでNewは当然ゼロ。

Deleted Entities QSL cards

2015年08月28日 | アマチュア無線
             
DXCC Challengeの追加申請を年1回実施する事にしていてQSLを整理したところ、増える数も年々少なくなりNewは66だけだった。
昨年の申請で2243、160/6mはやらないので2500は平均寿命まで生存したとしても達成は無理かも知れないが、少しでも近ずきたいので今回は放置していたDeleted Entityの32も追加する事にした。
ここ10年程は命の次に大事なQSLはARRL(U.S.A)に送る事なく、郵便事故で紛失の心配も無いJARLで審査を受けて申請していて、Deletedの審査はARRLでなければダメと聞いていたが、最近風の便りでJARLでもOKらしいと耳にしたので先ずは確認したいと思う。
若しOKだったら紛失のリスクも回避したいし、先人たちの良き慣習の「初めて交信した証にはお互いにQSLの交換で完結する」事もJARLビューローも利用出来ず、そんな慣習を開局以来厳守して来た事や格安のタワー保険のサービスも受けらず、こんな三つの“人質”を取られてしまっては不本意ながら会員復帰を考えなければならないのかな。


Arrived QSL

2015年08月25日 | アマチュア無線
             
JA'sも近年は単なる海外観光旅行だけで無く、DXバケーションと称して多くは太平洋の島々から運用されるが、今回は7月15~20日までインド洋のセーシェル共和国からS79HNがJE1CKAさんのグループにより運用された。
ここは80/12mとRTTYが空白で80mは逃してしまったが、12mとRTTYのBand/Mode Newの貴重なQSLが夕方届いた。

40数年ぶりの対面

2015年08月22日 | その他
             
  
昨夜のTVニュースでNHK放送90年の歴史を紹介する「放送90年特別巡回展」が福島放送局で23日まで開催されていると放映され、その1カットに自分の中年以後の人生にも深く関わってしまった因縁のTVカメラがあったので、今日40数年ぶりに対面して来た。
このカラーカメラは東京オリンピック用に従来のR・G・Bの3管撮像管から高画質化を図り、NHK技術研究所で2管式で開発、東芝で8台製作2台の中継車に4台ずつ搭載して開会式から閉会式まで国立競技場で使用された物で、当時は東京中継勤務でボート・馬術・マラソン(バレーボールSB要員)のモノクロ中継放送に従事、このカメラと接したのはオリンピック終了後と秋田へ転勤して再び古巣に戻った1971年から2年数ヶ月程だった。
このカメラ本体は60Kg程あって、三脚へ乗せる時は最低3人繋りで通常は専属の設営業者補助員との協同作業だが、ある日野外中継が終了した途端にわか雨になり、急ぐあまりに補助員と2人で撤収を開始、三脚から下ろした瞬間に腰を痛めてしまった。
以後整形外科へ通院しながらの業務は自分自身以上に仲間に負担をかける始末で、一年後の定期異動で入局当時のスタジオへ戻るか福島局との交換要員の選択を提示され、二度目の東京では真のプロを目指していたが「幸い君の故郷だしこんなチャンスは滅多に無いぞ、先は長いしそこでゆっくり治せ」の上司の言葉に素直に従ってしまった。
診断は脊椎分離症。鈍痛も5年も経過した頃には感じられなくなりレントゲン写真にも現れなくなってしまったが、その時関わったカメラA・B・C・Dのどれだったか記憶にないが、8台しか生産されなかったこのCカメラも何度か使っていた筈だ。
何れにしても自分の人生に深く関わってしまった因縁のカメラとほぼ40数年ぶりの対面は何とも感慨深いものだった。

ブログ本

2015年08月21日 | その他
  
3日坊主で三日も続く事のなかった日記も、ボケ防止頭の体操に始めたこのブログは不思議な事に今10年目が進行中だ。
そんな異変の証拠として電子ファイルとして保存も可能だが、アナログ人間としては何とも違和感があり、製本も可能だと業者の宣伝に乗せられて確か3~4年後だったと思うが、始めた年から年単位で本としても残す事にした。
ブログの原稿から製本用に活字変換する際に和文と欧文が混じる文章は、何故かそれぞれの文字数や混在の比率でエラーが発生してしまい、欧文に限り単語間のスペースが大幅に空白になったり或いは単語内でのスペースが不自然に生じてしまう。
解決策は文章を変える方法しかなく、Web上での校正は毎回4~5回に及び、気力と眼の疲労から今回もほぼ1ヶ月を要して、現物は一週間程で今日届いた。
この9冊目の2014年版は273頁で年々薄くなっているが、疾病により道楽も今や二つだけになってしまったので仕方がないか。

チャレンジサマースクール-6

2015年08月14日 | 原発事故
この夏も福島の海水浴場は放射能汚染の影響により二ヶ所しか開設していない。子供達は未だに自然とのふれあいにも制限され不自由な生活が強いられ、この6泊7日の自然豊かな能登の海と金沢の里山での集団生活は、本能を取り戻して心のレフレッシュと共に素晴しい貴重な体験だったと爺は信じている。
加賀の野菜やお菓子のお土産をたくさん頂いて、16:30過ぎ無事郡山に元気に到着しました。
お世話をして頂いた多くの皆様や支援して頂いた多くの方々には深く感謝申し上げます。

            
  

チャレンジサマースクール-5

2015年08月13日 | 原発事故
毎朝のラジオ体操参加者は少ない、寝坊しているのかな。
食事は毎日ボランテアのおばさん達5人が専属で面倒を見ているらしい。今朝はパン食、支援者(パン屋さん?)からの差し入れの様だ。

  

午前中、江戸後期から明治初期にかけての茶屋建築の町並みが残る金沢東茶屋街を散策。
  
            
  

午後、水鉄砲を作り水鉄砲合戦なども思う存分に楽しむ。
  

夕食後はファイナルコンサートに全員で参加。
  
  

チャレンジサマースクール-3

2015年08月11日 | 原発事故
安保法案と共に国民の半数以上が原発の再稼動に反対しているのに、安倍政権は福島第一原発事故避難者や県民の心までも踏み躙り川内原発の運転を遂に開始してしまった。
福一原発の廃炉は孫達の代でも実現は不可能かも知れないし、何よりもあと一ヶ所でも爆発事故を起こせば日本は完全沈没間違い無しだ。そして安保法案も国会答弁でも「徴兵制度など絶対に有得ない」と安倍首相は嘘をついているが、少子化で軍備拡大となれば犠牲者は正に孫達なのだ。
こんな将来の事情を知る術も無く今、石川のボランテアの皆様の善意に支えられて日頃の心の傷を癒している最中だが、今日はテント生活を終えて、午後は魚釣りを楽しんだ。
 
 
 
 

夕食後は21時までキャンプファイアー。子供達就寝後は毎晩スタッフミーテングが行われているらしい。
 

チャレンジサマースクール-2

2015年08月10日 | 原発事故
8月9日
能登半島の先端にあるここ能登少年自然の家は、Google Earthで観ると自然が手付かずそのまま残る大変穏やかな土地の様だ。
子供達、今日は4km程先にある五色ヶ浜海水浴場で一日中海水浴を楽しみ、帰館後には庭で西瓜割りが行われた。
孫達の活動の様子はFacebookにUPされる画像で想像しているが、三人は完全に分離されて別班で行動、末っ子のはやとなどは心細く感じているかも知れないが、画像から判断する限り普段と変ら無い様にも観察出来て、どうやら爺の余計な心配であった様な気がした。
 

8月10日
併設のカヌー場で午前中は班毎のカヌー乗船を楽しみ、午後はキャンプ場へ移動して、テント設営から野外炊飯など明日の午前中までキャンプ生活で過す事になる。