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プロジェクトZ第12回

2008年05月08日 | Weblog
一筋の光(独身寮の親睦会)

  青年が退院復帰して間もない頃、青年の住まいである会社の独身寮の親睦会会長が青年
の部屋にやって来た。2年先輩の親睦会会長は言った。「今、親睦会(寮友会)は窮地にある。次期会長を任せられるのは君だけだ。」

 青年が入寮した当時、すなわち入社した昭和41年当時、寮生所有の所謂マイカーは寮に3台しかなかった。3%の乗用車保有率であり、しかもすべて軽乗用車(当時は360cc)であった。比較的高賃金であった財閥系大企業の独身貴族達でさえその程度であった。それが、日産サニー1000、トヨタカローラ1100と続々と大衆向け普通乗用車が市場に送り出される従い、急速に乗用車が一般家庭にも普及した。青年が病に伏した昭和45年には、日本各地に公害問題が噴出する一方、交通事故死亡者もピークに達し、交通戦争*4)の造語を生んだ。日清戦争の戦死者が1万人程度*5)であったが、交通事故死亡者が年間で1万人を越えた。その犠牲者に若者が多かったことも戦争と呼ばれる所以となった。

 寮生の楽しみは、仲間との飲み会、夜のネオン街、麻雀やパチンコからマイカーによるドライブにその一部をシフトさせた。寮友会の親睦会行事などすでに時代遅れになっていたのだ。会長を任せられるも何も、会長に成り手もなかったのかもしれない。

 青年は、以前寮友会の委員は1期(1年)務めたことがあった。しかし、先輩会長から次期会長の要請を受けるまで、寮友会会長など夢にも思わなかった。しかし、乞われてみれば何か必然と思えた。自分でも自分しか居ないのではないかと思えた。暗闇を波に揉まれて進む小舟は一筋の光を見つけた。


     *4)交通戦争は正確には1955年~1965年当時に広まった言葉
     *5)日清戦争(1894年7月~1895年4月)10ヶ月の死者は、ある統計によ
れば約1.3万人とある。

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