老師と少年

「老師と少年」(南直哉 新潮社 2006)

著者は禅僧。
これで、ミナミ・ジキサイと読む。

求道的な小説、というジャンルがあるように思う。
たとえば、テグジュペリの「星の王子さま」。
リチャード・パックの「かもめのジョナサン」や「イリュージョン」。
あるいはヘッセの作品とか。
「老師と少年」もそんな一冊。

求道的な小説は、たいてい寓話的。
なので、一般的な小説より抽象度が上がる。
具体的にいうと、固有名詞がなくなる。

それから、求道的な小説は一般に1人称が多い。
「私」がだれそれに出会った、というかたちをとりやすい。
ただ、寓話のレベルが上がると、より抽象度を上げるためだと思うけれど、3人称になる。

さて、本書はそれでいうと3人称。
登場人物は老師と少年、それに少女という、固有名詞のない3人のみ。
ほとんど、老師と少年の問答で話が進む。
少年は老師を「師」と呼び、老師は少年を「友よ」と呼ぶ。

夜、老師をたずねる少年は、「生とは、死とは、自分とはなにか?」といった根源的な悩みを老師にぶつけていく。
その問答が7晩つづくというのが、本書の形式。

老師の答えには諦念があり、それが誠実さとおかしみ、あるいはあたたかさといったものを感じさせる。

「本当の自分を知りたい」
という少年に対して、老師は答えはこうだ。
「『本当』と名のつくものは、どれも決して見つからない」

それから、少女という登場人物の立ち位置が面白い。
少女は、老師の世話をしていて、毎晩、少年が去ったあと少年について老師と短い会話を交わす。

「老師。彼は今夜、何を学んだのでしょう」
「彼は今夜、自分が一人でないことを知ったのだ」

少女は、少年と老師に対して批評的な場所を占めている。
これは、求道的な小説には、とてもめずらしいことのように思える。
なにしろ、求道的な小説は、なにかをもとめて前のめりになっていたりするから、自己批評性をもちづらい。
批評性をもとうとすると、前のめりのまま方向転換してしまって、自己否定に走ったりする。

本書のラスト、老師から託されたことばを少年に告げるのも少女。
「あなたが老師と会った最後の夜、老師は私がもう一度あなたに会うことがあったら、こう伝えてくれといっていました」
このことばはとても味があるのだけれど、本書に直接ふれるひともいるかもしれないから、ここに書くのは控えよう。

この本、本屋や図書館でどこにおいてあるのかわかりずらい。
宗教の棚かもしれないし、小説の棚かもしれない。
初版は2006年で、手元にあるのは2007年の3刷。
うまく、こういう本が好きなひとのもとに届くといいのだけれど。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )