タナカの読書メモです。
一冊たちブログ
DVD「幽霊紐育を歩く」
DVD「幽霊紐育を歩く」(1941 アメリカ)
冒頭で、まず、こんな意味の字幕がでる。
《マックス・コール氏から面白い話を聞きました。
おとぎ話のような物語で、とても実話とは思えない。
これから、この物語を皆さんにもご紹介しようと思います。》
字幕はさらにこう続く。
《物語の始まりは、あるのどかな村。
平和で―すべてが調和し―愛に満ちた村です。
そこでは2人の男たちが全力で殴りあっていました。》
こうして、村の野外にもうけられたリングでの、ボクシングの場面となる。
この作品の、ひとを食った語り口がよくこの冒頭にあらわれている。
さて、主人公はボクサーのジョーという、押しが強くて気のいい元気な若者。
ジョーのマネージャーであるマックス――冒頭の字幕にでていたマックス・コール氏だ――は、ジョーなら世界王者にもなれると太鼓判を押す。
次のマードック戦のため、きょうの午後ニューヨークに移動することに。
ジョーは自分の飛行機でニューヨークにいくという。
事故を恐れて列車でいくことをマックスはすすめるのだが、ジョーは聞き入れない。
飛行機で飛び、サックスを吹いたりしていると、マックスの不安が的中。
部品が破損し、飛行機は墜落してしまう。
次の場面で、ジョーはサックスを小脇にかかえ、一面煙りに満ちた世界を歩いている。
煙りの世界には飛行機があり、列をなす乗客が、名前を呼ばれたごとに搭乗していく。
ジョー、あなたは死んだのですと、背広を着た男にいわれるが、ジョーは認めない。
なにかの間違いだと、乗客搭乗の監督をしているジョーダン係員に食ってかかる。
沈着な物腰でジョーダン係員は名簿をチェック。
すると、名簿にジョーの名前はない。
事務局に確認をとると、ジョーが亡くなるのは1951年5月11日朝の予定だという。
新人の担当者が、墜落直前にジョーの魂を回収してしまったのだ。
みすみす苦しめるのは忍びなかったのですと、担当者は弁明。
気にすることはないさ、誰にだって失敗はあると、ジョーは寛大なところをみせる。
で、元のからだにもどろうとするが、遺体はすでに火葬されてしまっていた。
というわけで、ジョーダン係員の案内で、ジョーは新しいからだをさがすことに。
マードック戦にまだでるつもりのジョーは、だれのからだでもいいわけじゃないと念を押す。
こうして、世界中でいろんなからだをみるが、ジョーはまだ納得がいかない。
次の視察は、広壮なお屋敷に住むファーンズワース氏。
ファーンズワース氏はジョーと同じくらいの年齢で、昔ポロをやっていた。
妻のジュリアと、その愛人で氏の秘書をしているトニーに、いままさに殺されてしまったところ。
方法は、バスタブでの溺死。
ところで、魂だけであるジョーとジョーダン係員の姿は、下界の人間にはみることができない。
また、声も聞こえないことになっている。
そんなとき、お屋敷にベティ・ローガンという女性が訪ねてくる。
ベティはファーンズワース氏に懇願しにきた。
父は病気だし、そもそも無実なんですと、ベティ。
どうやら、ファーンズワース氏から買った証券が問題であるらしい。
一方、ベティをみたジョーは彼女にひと目ぼれ。
ベティを助けるために、ジョーはファーンズワース氏のからだに入ることにする。
でも、ファーンズワースになったら彼女に軽蔑されてしまうのではないか。
そんな心配をするジョーに、ジョーダン氏はこう説明する。
《いずれ彼女も君の魂に気づく。君の魂の輝きは上着に隠されはしない》
「上着」というのは、もちろんからだのことだ。
ファーンズワース氏のからだに入るのは、ベティを助けるあいだだけのこと。
ちゃんと別のからだをみつけてくれよと、ジョーはジョーダン係員にいい残す。
というわけで、ジョーはファーンズワース氏のからだに入るわけだが、映画のキャストとしては、ファーンズワース氏もジョー役のロバート・モンゴメリーのまま変わらない。
が、登場人物たちは、ファーンズワース氏としてジョーに接する。
さて、ファーンズワース氏がよみがえったので、妻のジュリアと秘書のトニーはびっくり仰天。
ところが、ジョーはベティに、お父さんが逮捕されたのはファーンズワースの責任で、俺は関係がないなどといいうものだから、ベティは立腹して立ち去る。
ジョーはトニーを呼び、ベティを釈放するために尽力せよといいつける。
個人投資家から証券をすべて買いもどす必要がありますとトニーがいうと、売却額と同額で買いもどせと指示。
大騒ぎとなり、ジョーは役員会に出席。
突然善人になるつもりか、株価が下がったなどと、ほかの役員になじられるが、ジョーはみていた新聞の、マードックが王者ギルバートに挑戦するという記事のほうに動転。
マードックはまず俺と戦わなきゃいけなかったのに。
でも、ベティには見直される。
前回会ったときとは大ちがい。
父を釈放してくれたジョーにベティは夢中になる。
ベティは、ファーンズワース氏のなかにいる善良なジョーに気づいたのだ。
最初の予定では、ジョーがファーンズワース氏のからだに入るのは、ベティを助けるあいだだけのことだった。
ところが、せっかくベティに気づいてもらえたのだからと、ジョーはジョーダン係員たちが用意してくれた新しいからだに入ることを拒否する。
ファーンズワース氏のからだを鍛えて、王座をとり、ベティとも結ばれるんだとジョーは宣言するのだが――。
ここがちょうど、この映画の半分。
このあと、ジョーは屋敷にいろんな機械を置き、執事も巻きこんでトレーニングにはげむ。
元マネージャーのマックスも呼びよせる。
マックスはもちろん、相手がジョーとは気づかない。
ファーンズワース氏だと思っているのだが、いろいろと喜劇的な場面があって、ファーンズワース氏がジョーだと悟る。
ジョーはマックスに、マードックとの試合を設定するように頼む。
悪妻のジュリアと秘書のトニーは、再びファーンズワース氏の殺害を計画。
このあとも、ストーリーは二転三転。
はたして、試合はどうなるのか。
ベティとは結ばれるのか。
なにより、ジョーは最終的に自分のからだを得ることができるのか。
この作品は、魂がからだを出たり入ったりするルールがよくわからない。
ストーリーの都合上、勝手に出たり入ったりしているようにみえる。
ご都合主義きわまりない。
こういうことをすると、普通、面白くなくなってしまうものだが、この作品は面白いのだから妙だ。
とはいえ、説明がないこともない。
すべては神の計画であり、運命だというのがそれ。
これまたご都合主義だけれど、こういわれてしまえば仕方がない。
ささいな疑問点には目をつむろう。
それが神の計画なら、ジョーは王者となるし、ベティとも結ばれるのだ。
たとえ別のからだでも。
この作品は、「天国からきたチャンピオン」(1978)としてリメイクされている。
主人公がボクサーから、アメリカンフットボールのクウォーターバックに変更されている。
チームのライバルとポジション争いをしているという設定だ。
この作品の場合だと、個人スポーツのほうがいいように思うけれど、変更したのはアメフトの人気が高く、画面も派手になると考えてのことかもしれない。
そのほか、細かい変更点はいろいろあるけれど、ストーリーはだいたい一緒。
こちらも面白かった。
それからもうひとつ。
「お楽しみはこれからだ PART3」(文芸春秋 1980)で、著者の和田誠さんは「天国からきたチャンピオン」をとりあげ、こんなことを書いている。
《ぼくが、この映画が弱いと思う点は、魂は一つだが肉体は別、という設定であるにもかかわらず、どの肉体も同じ役者が演じている点である。》
《「天国からきたチャンピオン」で、肉体が違うのに一人の俳優が演じていることは、セリフの中では一応説明がついていて、すなわち、当人が鏡で見たりすると、もとの人物のままなのだが、客観的には別の人物なのだ、と。しかし観客は文字通り客観視するわけだから、そこが苦しいところ。》
ここは和田さんと意見がちがって、ひとりの役者が演じるからいいのだと思う。
何度も役者が変わったら、観るほうは興ざめしてしまう。
それに、観客は知っているけれど登場人物は気づいていないという状況は、映画や芝居にふさわしい。
第一、映画は観客にみせるためのものなのだから、客観視なんてありえないよと思うのだけれど、どうだろうか。
冒頭で、まず、こんな意味の字幕がでる。
《マックス・コール氏から面白い話を聞きました。
おとぎ話のような物語で、とても実話とは思えない。
これから、この物語を皆さんにもご紹介しようと思います。》
字幕はさらにこう続く。
《物語の始まりは、あるのどかな村。
平和で―すべてが調和し―愛に満ちた村です。
そこでは2人の男たちが全力で殴りあっていました。》
こうして、村の野外にもうけられたリングでの、ボクシングの場面となる。
この作品の、ひとを食った語り口がよくこの冒頭にあらわれている。
さて、主人公はボクサーのジョーという、押しが強くて気のいい元気な若者。
ジョーのマネージャーであるマックス――冒頭の字幕にでていたマックス・コール氏だ――は、ジョーなら世界王者にもなれると太鼓判を押す。
次のマードック戦のため、きょうの午後ニューヨークに移動することに。
ジョーは自分の飛行機でニューヨークにいくという。
事故を恐れて列車でいくことをマックスはすすめるのだが、ジョーは聞き入れない。
飛行機で飛び、サックスを吹いたりしていると、マックスの不安が的中。
部品が破損し、飛行機は墜落してしまう。
次の場面で、ジョーはサックスを小脇にかかえ、一面煙りに満ちた世界を歩いている。
煙りの世界には飛行機があり、列をなす乗客が、名前を呼ばれたごとに搭乗していく。
ジョー、あなたは死んだのですと、背広を着た男にいわれるが、ジョーは認めない。
なにかの間違いだと、乗客搭乗の監督をしているジョーダン係員に食ってかかる。
沈着な物腰でジョーダン係員は名簿をチェック。
すると、名簿にジョーの名前はない。
事務局に確認をとると、ジョーが亡くなるのは1951年5月11日朝の予定だという。
新人の担当者が、墜落直前にジョーの魂を回収してしまったのだ。
みすみす苦しめるのは忍びなかったのですと、担当者は弁明。
気にすることはないさ、誰にだって失敗はあると、ジョーは寛大なところをみせる。
で、元のからだにもどろうとするが、遺体はすでに火葬されてしまっていた。
というわけで、ジョーダン係員の案内で、ジョーは新しいからだをさがすことに。
マードック戦にまだでるつもりのジョーは、だれのからだでもいいわけじゃないと念を押す。
こうして、世界中でいろんなからだをみるが、ジョーはまだ納得がいかない。
次の視察は、広壮なお屋敷に住むファーンズワース氏。
ファーンズワース氏はジョーと同じくらいの年齢で、昔ポロをやっていた。
妻のジュリアと、その愛人で氏の秘書をしているトニーに、いままさに殺されてしまったところ。
方法は、バスタブでの溺死。
ところで、魂だけであるジョーとジョーダン係員の姿は、下界の人間にはみることができない。
また、声も聞こえないことになっている。
そんなとき、お屋敷にベティ・ローガンという女性が訪ねてくる。
ベティはファーンズワース氏に懇願しにきた。
父は病気だし、そもそも無実なんですと、ベティ。
どうやら、ファーンズワース氏から買った証券が問題であるらしい。
一方、ベティをみたジョーは彼女にひと目ぼれ。
ベティを助けるために、ジョーはファーンズワース氏のからだに入ることにする。
でも、ファーンズワースになったら彼女に軽蔑されてしまうのではないか。
そんな心配をするジョーに、ジョーダン氏はこう説明する。
《いずれ彼女も君の魂に気づく。君の魂の輝きは上着に隠されはしない》
「上着」というのは、もちろんからだのことだ。
ファーンズワース氏のからだに入るのは、ベティを助けるあいだだけのこと。
ちゃんと別のからだをみつけてくれよと、ジョーはジョーダン係員にいい残す。
というわけで、ジョーはファーンズワース氏のからだに入るわけだが、映画のキャストとしては、ファーンズワース氏もジョー役のロバート・モンゴメリーのまま変わらない。
が、登場人物たちは、ファーンズワース氏としてジョーに接する。
さて、ファーンズワース氏がよみがえったので、妻のジュリアと秘書のトニーはびっくり仰天。
ところが、ジョーはベティに、お父さんが逮捕されたのはファーンズワースの責任で、俺は関係がないなどといいうものだから、ベティは立腹して立ち去る。
ジョーはトニーを呼び、ベティを釈放するために尽力せよといいつける。
個人投資家から証券をすべて買いもどす必要がありますとトニーがいうと、売却額と同額で買いもどせと指示。
大騒ぎとなり、ジョーは役員会に出席。
突然善人になるつもりか、株価が下がったなどと、ほかの役員になじられるが、ジョーはみていた新聞の、マードックが王者ギルバートに挑戦するという記事のほうに動転。
マードックはまず俺と戦わなきゃいけなかったのに。
でも、ベティには見直される。
前回会ったときとは大ちがい。
父を釈放してくれたジョーにベティは夢中になる。
ベティは、ファーンズワース氏のなかにいる善良なジョーに気づいたのだ。
最初の予定では、ジョーがファーンズワース氏のからだに入るのは、ベティを助けるあいだだけのことだった。
ところが、せっかくベティに気づいてもらえたのだからと、ジョーはジョーダン係員たちが用意してくれた新しいからだに入ることを拒否する。
ファーンズワース氏のからだを鍛えて、王座をとり、ベティとも結ばれるんだとジョーは宣言するのだが――。
ここがちょうど、この映画の半分。
このあと、ジョーは屋敷にいろんな機械を置き、執事も巻きこんでトレーニングにはげむ。
元マネージャーのマックスも呼びよせる。
マックスはもちろん、相手がジョーとは気づかない。
ファーンズワース氏だと思っているのだが、いろいろと喜劇的な場面があって、ファーンズワース氏がジョーだと悟る。
ジョーはマックスに、マードックとの試合を設定するように頼む。
悪妻のジュリアと秘書のトニーは、再びファーンズワース氏の殺害を計画。
このあとも、ストーリーは二転三転。
はたして、試合はどうなるのか。
ベティとは結ばれるのか。
なにより、ジョーは最終的に自分のからだを得ることができるのか。
この作品は、魂がからだを出たり入ったりするルールがよくわからない。
ストーリーの都合上、勝手に出たり入ったりしているようにみえる。
ご都合主義きわまりない。
こういうことをすると、普通、面白くなくなってしまうものだが、この作品は面白いのだから妙だ。
とはいえ、説明がないこともない。
すべては神の計画であり、運命だというのがそれ。
これまたご都合主義だけれど、こういわれてしまえば仕方がない。
ささいな疑問点には目をつむろう。
それが神の計画なら、ジョーは王者となるし、ベティとも結ばれるのだ。
たとえ別のからだでも。
この作品は、「天国からきたチャンピオン」(1978)としてリメイクされている。
主人公がボクサーから、アメリカンフットボールのクウォーターバックに変更されている。
チームのライバルとポジション争いをしているという設定だ。
この作品の場合だと、個人スポーツのほうがいいように思うけれど、変更したのはアメフトの人気が高く、画面も派手になると考えてのことかもしれない。
そのほか、細かい変更点はいろいろあるけれど、ストーリーはだいたい一緒。
こちらも面白かった。
それからもうひとつ。
「お楽しみはこれからだ PART3」(文芸春秋 1980)で、著者の和田誠さんは「天国からきたチャンピオン」をとりあげ、こんなことを書いている。
《ぼくが、この映画が弱いと思う点は、魂は一つだが肉体は別、という設定であるにもかかわらず、どの肉体も同じ役者が演じている点である。》
《「天国からきたチャンピオン」で、肉体が違うのに一人の俳優が演じていることは、セリフの中では一応説明がついていて、すなわち、当人が鏡で見たりすると、もとの人物のままなのだが、客観的には別の人物なのだ、と。しかし観客は文字通り客観視するわけだから、そこが苦しいところ。》
ここは和田さんと意見がちがって、ひとりの役者が演じるからいいのだと思う。
何度も役者が変わったら、観るほうは興ざめしてしまう。
それに、観客は知っているけれど登場人物は気づいていないという状況は、映画や芝居にふさわしい。
第一、映画は観客にみせるためのものなのだから、客観視なんてありえないよと思うのだけれど、どうだろうか。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« DVD「コーヒー... | 2022年 こと... » |
コメント |
コメントはありません。 |
![]() |
コメントを投稿する |