殺人保険

「殺人保険」(ジェームズ・ケイン 新潮社 1962)

原題は、”Double Indemnity”
原書の刊行は、1943年。
訳者は、蕗沢忠枝。

主人公ウォルター・ハフによる、〈僕〉の1人称。
保険勧誘員をしているハフは、自動車保険のことでナードリンガー氏を訪ねるが、氏は留守。
代わりに、氏の妻であるフィリスが応対にあらわれる。
このときは、会っただけで終わった。
が、後日フィリスから連絡があり、再び会うことに。

フィリスは内密に、夫に傷害保険をかけたいという。
掛け金は自分で払うから。

それがなにを意味するかよくわかっているハフは、その場を去ろうとするが、フィリスに魅入られ立ち去れない。
その晩、フィリスはハフのもとに訪ねてくる。
翌日もまた。
2人は決定的なことばを避けながら意気投合する。

《「じゃあなたは、――あたしとお金を得るために、ご自分の会社を欺(だま)し、あたしの手伝いをなさろうと仰言るのね」》

傷害保険で保険会社が大金を払うのは、鉄道事故にかぎられている。
鉄道事故だと、倍額の割増金がでる。
ナードリンガー氏が自動車保険に加入するさい、氏にさとられずに署名を入手。
氏に傷害保険の説明をするときは、フィリスの義理の娘であるローラを立ち会わせる。
そのさい、フィリスは傷害保険には反対というふりをする。
あとで、ナードリンガー氏が家族には内密に、自分で傷害保険に入ったと偽装するためだ。

このほか、いくつかの技術的な課題をクリア。
あとは鉄道事故。
なによりも、まずナードリンガー氏に鉄道に乗ってもらわなくては、そもそも事故が起こらない。

するとチャンスがめぐってくる。
ナードリンガー氏が足を骨折した。
そのため、出席する予定だったクラス会に、車ではなく汽車でいくことになった。

その晩、ハフは自宅から会社に電話し、自宅で仕事をしているかのように装う。
ナードリンガー氏と同じ服装をし、氏を駅まで送る途中の、フィリスが運転する車に忍び入る。
そして、ナードリンガー氏を殺害する。

その後、足に包帯を巻いたハフはナードリンガー氏の松葉杖をつき、氏のふりをして汽車に乗りこむ。
目的地に着くと、展望車からとび降り、フィリスと合流。
ナードリンガー氏の死体を線路に投げだす。

ナードリンガー氏の転落死は、もちろんハフの社内で話題になる。
社長のノートンは自殺説をとなえるが、ベテランでうるさ型のキースは、他殺であり、細君が怪しいと断言。
検死の結果、展望車から転落して首の骨を折ったのだと、警察も結論づけたのだが、キースは納得しない。
ナードリンガー氏の松葉杖をついて、ほかの奴が代わりに汽車に乗ったんだ。

キースがあまりに真相に近いことを話すので、ハフはおびえる。
ノートンは、保険金の支払いを拒否するという手段にでる。
フィリスに告訴させ、事故かそうでないかを調査するためだ。

フィリスには保険会社の監視がつくように。
もう会わないほうがいいと、ハフはフィリスに告げる――。

夫を殺した2人は、夫を殺したために会えなくなる.。
なんとも皮肉な展開。

ストーリーはほとんど会話で進む。
地の文は芝居の書割りのよう。
会話は端的で、無駄がなく、それでいて多分に含みがあり、見事な手際だ。

男が妻とともに夫殺しをたくらむという点では、同じ作者の「郵便配達夫は二度ベルを鳴らす」によく似ている。
実行した結果、皮肉な状況に置かれるという展開も同様。
ただ後半は大きくちがう。
この点、この作品は「郵便配達夫は二度ベルを鳴らす」の別ヴァージョンのように読める。

後半クローズアップされるのは、フィリスの義理の娘であるローラの存在。
ローラは、実母が亡くなったのは、当時実母の看護婦をしていたフィリスが関係しているのではないかと疑っている。
また、ローラのボーイフレンドだったサシェッティは、事件後にフィリスのもとに入り浸っている。
ひょっとして、2人が父を殺したのではないかと、ローラは疑う。

ローラに相談をもちかけられ、ハフはローラと頻繁に会うように。
殺した相手の娘であるローラに、ハフは恋をする。
皮肉な展開は、いよいよ皮肉さを増す。
こうなると、父親を殺したことは知られてはならない。
知っているのはただひとりだ――。

映画化された「深夜の告白」(1944 アメリカ)は、この作品の要素をうまく拾い上げ、ハフとキースの友情を中心に、コンパクトにまとめている。
これもまた素晴らしい手際。
「深夜の告白」は、犯罪映画の古典的傑作となった。

「深夜の告白」のプレミア上映のとき、原作者のケインは、監督であるビリー・ワイルダーを抱きしめて、自分の小説をさらによいものにしてくれた、と喜んだという。
ずっとのち、「情婦」のロンドンでのプレミア上映のとき、アガサ・クリスティが同じことをしたと、これは「ビリー・ワイルダー自作自伝」(ヘルムート・カラゼク 文芸春秋 1996)に書かれている。

ただ映画では、ストーリーをコンパクトにした分、フィリスとサシェッティのかかわりをすっかりカットしてしまった。
フィリスという女性にはまだ奥があることをえがかなかった。

原作のフィリスは、恐ろしい。
森のなかの一軒家に魔女が住んでいたというような――実際はロサンジェルスの邸宅だけれど――怖い昔話のような不気味さがある。


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死霊の恋・ポンペイ夜話

「死霊の恋・ポンペイ夜話」(ゴーチエ 岩波書店 1982)

訳は、田辺貞之助。
ゴーチエの短編が5編おさめられている。

「死霊の恋」
「ポンペイ夜話」
「二人一役」
「コーヒー沸かし」
「オニュフリユス」
そして、よくゆきとどいた訳者あとがき。

どれもジャンルとしては幻想小説と呼べるもの。
「聊斎志異」のフランス版といった風情があり、楽しく読んだ。

「死霊の恋」(1836)
1人称の〈わし〉による語り。
66歳になる〈わし〉が、若い頃の奇妙な恋愛を回顧する。

聖職者となるべく勉強していた〈わし〉――ロミュオー――は24歳のとき叙品式(じょほんしき)を経て、正式な聖職者となる。
その叙品式のさい、世にも美しい女性に魅了される。
女性はクラリモンドといって、遊女で、コンティニ公により宮殿をあてがわれて暮らしていた。
ロミュオーはクラリモンドに焦がれるが、もう僧侶となってしまった身のためどうにもならない。

ロミュオーは、最近司祭が亡くなった地に赴任することに。
その地で職務を果たしていると、ある夜、男があらわれる。
自分の女主人が死に瀕しており、司祭に会いたがっていると男はいう。

ロミュオーは男に連れられ、女主人のもとへ。
はたして、女主人とはクラリモンドのことで、いましがた亡くなったところだった。
ロミュオーは美しい亡骸を前に煩悶し、ついに唇を押しつける。
すると、クラリモンドの唇がそれにこたえる。

それからというもの、クラリモンドの死霊がロミュオーのもとにやってくるように。
2人は夜な夜な歓楽をつくし、ロミュオーは昼間の僧侶の生活と、夜の自堕落な生活の区別がつかなくなってくる。

あるとき、クラリモンドは指を切ったロミュオーの傷口にとびつくように吸いつく。
血を飲んだクラリモンドは、恍惚として、精気をとりもどす――。

というわけで、本作は死霊の物語であると同時に、吸血鬼ものでもある。
1人称による回想のため、現実と幻想のけじめがおぼつかなく、それが夢のような雰囲気をかもしだしている。
ロミュオーにはセラピオン師という師匠がおり、しばしばロミュオーに助言や忠告をする。
死霊のとりことなったロミュオーのために一計を案じ、おかげでロミュオーは救われるのだけれど、当時を語る〈わし〉は、なんだか名残惜しそうだ。

「ポンペイ夜話」(1852)
これも幽霊譚。
3人の若い友人たちが、イタリア旅行へおもむき、ナポリにあるストゥーディ博物館を見物する。
一番年若いオクタヴィアンは、ポンペイより発掘された、ひとりの女性を包んでその輪郭を保存することになった溶岩に目をうばわれる。

その後、3人はポンペイ見物へ。
例の溶岩に包まれた婦人が発見されたという別荘などを見てまわる。

夜、宿屋を抜けだして、オクタヴィアンがポンペイを散策していると、知らぬ間に廃墟が往時の姿となってよみがえる。
親切な青年にみちびかれ、演戯場で喜劇をみていると、婦人席にとびきり美しい女性がいるのを認める。
この女性こそ、溶岩に包まれた婦人。

アッリア・マルチェッラという名のこの女性は、使いをやり、オクタヴィアンを屋敷に誘う。

《「ああ! あなたはあのストゥーディの博物館で、あたしの身体の形を保存している固い泥の塊の前にお立ちになって、あのように熱いお心持ちをお向けくださいましたわね。――」》

「二人一役」(1841)
舞台はウィーン。
神学を勉強していたにもかかわらず俳優となった若いハインリッヒ。
恋人のカティは、ハインリッヒと一緒になりたくて仕方がないが、ハインリッヒはまだ俳優として名を挙げていない。
しかし、最近の悪魔の役で、ハインリッヒは上々の評判をとっている。
それも、カティには心配の種。
あの役は、あなたの魂の救いの邪魔になるのではなくて、とカティ。

その後、カティと別れたハインリッヒは、居酒屋「双頭の鷲」へ。
ハインリッヒが他の客から悪魔役の賛辞を受けていると、隣のテーブルの男が声をかける。

《あなたの役を真に迫らせるには、悪魔を見なければだめですよ。》

そして、悪魔のように笑ってみせる。

数日後、舞台裏で悪魔役の出番を待っているハインリッヒの前に、居酒屋の男があらわれる。
きみの演技はわしの評判を大いに下落させるものだ。
だから、今夜はきみの代わりをさせてもらうぞ――。

「コーヒー沸かし」(1831)
〈ぼく〉の1人称。
アトリエの仲間2人と、ノルマンディーの奥にある地所へ泊まりにいった〈ぼく〉。

その晩、11時になると、ロウソクの火が何本もつきだし、寝室にあるコーヒー沸かしやら肘掛け椅子やらが勝手にうごきだす。
さらに、肖像画のなかからひとが次々にあらわれ、12時になるとダンスをはじめる。
1時になり、踊りがやんだとき、〈ぼく〉は美しい女性を認める。
〈ぼく〉はそのアンジェラという美しい女性と踊りだす。

〈ぼく〉は肘掛け椅子にすわり、アンジェラを胸に抱いて眠るのだが、朝になるとアンジェラは急いで去ろうとし、下に落ちる。
〈ぼく〉が見ると、そこには粉ごなに砕けたコーヒー沸かししかない。

昨夜会ったアンジェラの絵を描いていると、邸の主人がきて、その絵は妹のアンジェラに似ているという。
アンジェラは2年前、ダンスのあと肺炎にかかって死んだんだ。

「オニュフリユス」(1832)
若い画家で、詩人であるオニュフリユスの物語。

オニュフリユスは偏屈で、空想的で、あらゆるものを馬鹿にし、みるものすべてに予兆を感じる。
悪魔の姿をえがいたために、悪魔に復讐されるのではないかとおびえ、生きたまま埋葬されたり、魂となってさまよったりする夢をみる。
鏡のなかから自分があらわれて、自分の頭蓋骨をとり、また鏡にもどっていく幻覚をみる。
肖像画を描いていた恋人のジャサンタとも不和になり、ついに精神の均衡をくずす。

《彼は現実の方舟から出て、幻想と抽象の暗鬱な深みへとびこんだのだが、オリーブの枝をくわえてもどることができなかった。》

ゴーチエの文章はとても視覚的。
「二人一役」は芝居の話で、「コーヒー沸かし」「オニュフリユス」は画家の話ということからも、その傾向がうかがえる。
「コーヒー沸かし」の、コーヒー沸かしや肘掛け椅子がうごきだすところは、ほとんどアニメーションのようだ。

描写は多分にくだくだしい。
けれども、その美しいイメージには感嘆する。
「死霊の恋」では、クラリモンドの描写が長ながとつづく。
くらべて、セラピオン師の描写がほぼゼロなのが可笑しい。

収録作のなかで、一番早く書かれたのが「コーヒー沸かし」で、一番遅く書かれたのが「ポンペイ夜話」
その間ほぼ20年経っているが、作風そのものに変化はみられない。
ただ話はこびに屈折が多く、描写はより冗漫になっているから、「ポンペイ夜話」では35ページほど読まないと、オクタヴィアンはアッリア・マルチェッラに出会えない。
作家の成長とはかくのごときかと思う。

「オニュフリユス」以外、全体に明るい雰囲気があるのは、死霊にしろ現実にしろ、全編に美女があらわれ、その美しさをたたえ、かつ情を交わすためだろう。
怪奇譚といっても、あまり痛ましいことにならない。
そこが、ゴーチエの幻想小説の楽しいところだ。


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スピリット

「スピリット」(ティオフィル・ゴーティエ 沖積舎 1986)

訳は、田辺貞之助。

ひとことでいうと、青年が幽霊の女性と恋仲になるという話。
19世紀フランスの上流階級が舞台。
3人称、主人公の青年視点。

青年の名前は、ギ・ド・マリヴェール。
28、9歳の美男子で、土地から4万フランの年収があり、ゆくゆくは病弱な伯父の数百万の遺産を相続する予定という、けっこうなご身分。
社交界では、ギは裕福な若い未亡人のダンベルクール夫人と恋仲だと、もっぱらの評判。
夫人もそのつもりでいるのだが、ギにはちっともその気はない。
ときおり社交界から逃れるために、長期の旅行にでかけ、雑誌に旅行記や小説を寄稿する。

こんなギの身に、不思議なことが起こる。
ダンベルクール夫人に手紙を書こうとすると、いささかぶしつけな内容の文章を知らぬ間に書いている。
しかも、その筆跡は別人のもの。
また、夫人のもとにいこうとすると、かすかな溜息が聞こえたような気がする。

社交界にはフェロー男爵というスウェーデン人がいて、神秘の世界に詳しい。
フェロー男爵はいう。
「マリヴェールさん、いつか若い娘があなたに恋こがれて死んだことはありませんか」
ギにはそんなおぼえはない。

ギは、身のまわりにいるらしき精霊と交信してみようと決意。
鏡をみつめていると、美しい女性があらわれて消える。

前の日に雪が降り、心をしずめるためにギが馬にそりを引かせていると、鏡でみた女が上品なそりに乗ってあらわれる。
ギはあとを追うが、そりは消えてしまう。

夜、美しい女性の精霊(スピリット)は、ギの手をあやつり、自身の告白をしたためる。
修道院にいたころ、自分の妹を訪ねてきたギにはじめて会ったこと。
手に入るかぎり、ギの文章を読んだこと。
家柄は、ギの家柄に負けていないこと。
修道院をでてから、イタリア座にいったとき、ギをみかけたこと。
ギがあらわれそうな舞踏会に出席し、念願がかないギがあわられたものの、気づいてもらえなかったこと。
ギがダンベルクール夫人と結婚するという噂に胸を痛め、ふたたび修道院に入ったこと。
まもなく、やせ衰えて亡くなり、肉体の牢獄から解放されたこと。
そして、ギがだれも愛しておらず、永遠に自分のものになるかもしれないと悟ったこと。
その後、陰からギにはたらきかけていたこと。

ギはフェロー男爵のみちびきでスピリットの墓をもうでる。
スピリットの名前は、ラヴィニア・ドーフィドニといった――。

古い小説らしく、文章が優雅で冗長。
この古びたところが、趣きがあり読んでいて楽しい。
また当時の風俗についての描写や、うがった心理描写もうれしい。

一冊の長編とはいえ、ストーリーはシンプル。
ギとスピリットの関係だけで話は進む。
視点も、ギからはなれることはほぼない(筆記によるスピリットの告白や、物語の最後のほうは視点がギからはなれる。こんな風に場面転換が素早くないところも古風だ)。

文章はとても視覚的。
ためしにスピリットがピアノを弾く場面を引用してみよう。

《彼女の指は幾分薔薇色がかった蒼さで、白い蝶のように象牙の鍵盤のうえにかざされていたが、たださまようだけで、ろくに触れもしなかった。だが、羽毛の先を曲げるほどでもない、微かな接触から音を呼び起こした。調子はきらめかしい手が鍵盤のうえをさまようとき、まったくひとりでに湧き出した。長い真白なドレスはインドの織物よりも薄い理想的なモスリンで、その一巻きが指輪の穴を通れるほどであったが、ゆたかなひだを描いて彼女のまわりに垂れ、雪白の泡の花飾りをなして足元に沸き立った。……》

描写はまだまだ続く。
もうひとつ、スピリットの筆記から。
ラヴィニアがはじめて舞踏会に出席するにあたり、衣装をととのえる場面。

《わたしはいろいろ迷った挙句、二重になったスカートをはき、銀のラメをつけた薄紗の服を着ることにきめ、勿忘草の花束で引き立てようと思いました。勿忘草の青い色は父がジャニセの店で選んでくれたトルコ玉の装飾ととても調和しました。服に散らばる勿忘草の花に似せたトルコ玉が髪飾りになっていたのです。わたしはこういう風に武装して、あまり引け目を感じずに、華やかな衣装や有名な美人のあいだに出ていけると信じました。》

この舞踏会にはギもくると思っているから、ラヴィニアは気合が入っている。
少し前では、こんなこともいっている。

《舞踏会はわたしたちには勝つか負けるかの戦いです。薄ぐらい部屋のなかから出て来た若い娘は、そこで一気にあるだけの光に輝くのです。》

スピリットの墓を詣でても、話はまだ終わらない。
ギはスピリットと親しむように。
しかし、スピリットには肉体がない。
ギは思いあまって自死しようとするが、スピリットに止められる――。

本書を読んでいて思い起こしたのは、中国の伝奇小説のことだった。
キリスト教徒は幽霊と恋仲になるのに手間がかかる。
これが中国の、たとえば「聊斎志異」だったら、どんなに話が早いだろう。


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プラヴィエクとそのほかの時代

「プラヴィエクとそのほかの時代」(オルガ・トカルチュク/著 小椋彩/訳 松籟社 2019)

作者はポーランドのひと。
2019年ノーベル文学賞を受賞。
本書は、断章形式で書かれた、ポーランドの架空の村の年代記。

断章形式で書かれた架空の土地という、似たスタイルをもつ作品として、丸山健二の「千日の瑠璃」(上下巻 文藝春秋 1992)を思い出した。
といっても、ちがう部分も多い。
「千日――」は、断章の分量がほぼ一定だけれど、「プラヴィエク」は長短さまざま。
「千日――」はタイトル通り千日ぶんの話だけれど、「プラヴィエク」は1914年夏から1980年代後半に渡る。

よく似たところとしては、人間以外のものが語り手に、またその章の視点になること。
「千日――」では、全ての断章は「私は――だ。」という一文からはじまる。
この〈私〉には、法律からニュートリノまで登場する。
(私は法律だ。という一文から章がはじまるのだ)

「プラヴィエク」では、神や天使やキノコについての章が登場する。
この点、両者ともおとぎ話的。
小説を少し地面から浮かすような、おとぎ話的な要素を盛りこむには、断章形式はやりやすいのかもしれない。

また、これもおとぎ話的というべきか、本書は登場人物にたいして過酷。
プラヴィエクは戦時中、前線となり、無残なことがたびたび起こる。

とはいえ、無残な印象ばかりが強いわけではない。
読み終わって残るのは、たくさんの時間が流れましたという感覚だ。
これもまた、おとぎ話的であり、断章形式の功徳といえるだろう。

全体に、本作のストーリーは菌糸がのびるように語られていく。
とてもよく書かれた解説によれば、トカルチュク作品にはキノコのモチーフが頻出するという。
作者はキノコが好きなのかも。

登場人物の各個人に、劇的な瞬間はたびたび起こる。
でも、ストーリー全体としてクライマックスといったものはない。
解説にはトカルチュク作品の女性性について書かれていたけれど、この全体の構成も女性性をあらわしているのかもしれない。

もっとも、本書で一番女性性が強く感じられるのは、鮮やかなピンクのしおりひも。
「千日――」にピンクのしおりひもがつかわれるのは、ちょっと考えられない。


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悪党どものお楽しみ

「悪党どものお楽しみ」(パーシヴァル・ワイルド 筑摩書房 2017)

訳者は、巴妙子。
ちくま文庫の一冊。

ギャンブルのいかさまを見破ることを題材とした、短篇連作ミステリ。
ユーモア小説の趣きがあり、ウッドハウスがギャンブルミステリを書いたらこうなるかという感じがする。
収録作は以下。

「シンボル」(ポーカー)
「カードの出方」(ポーカー)
「ポーカー・ドッグ」(ポーカー)
「赤と黒」(ルーレット)
「良心の問題」(カシーノ)
「ビギナーズ・ラック」(ポーカー)
「火の柱」(ポーカー)
「アカニレの皮」(チェス)
「エピローグ」
「堕天使の冒険」(ブリッジ)

カッコ内は作中で扱われているギャンブルの種類。

いかさまを見破る、普通のミステリでいうところの探偵役は、元賭博師のビル・バームリー。
ギャンブルから足を洗い、いまは父親の跡を継いで、農場を経営している。
この元賭博師にして農家というギャップもなにやら可笑しい。
「ポーカー・ドッグ」のなかで、グランドセントラル駅に着いたビルは、天井を見上げてこう思う。
――ここはとびきり素敵な牛小屋になるぞ。

このビルのもとに、ギャンブル好き友人のトニーが厄介ごとをもちかけてくるというのが、全編を通じてのパターン。
ウッドハウスのジーヴズ物でいうと、トニーはビンゴの役どころだ。

本書はもともと国書刊行会から出版されていた。
ちくま文庫から刊行されるにあたり、「堕天使の冒険」が新たに訳され追加された。
「堕天使の冒険」は、以前から創元推理文庫の「世界短篇傑作集3」(「世界推理短編傑作集」とタイトルを変えて2018年に再版された)に収録されており、この傑作集中1、2をあらそう面白さだった。

「悪党どものお楽しみ」は連作短篇集で、連作短篇集は、馴染みの登場人物がお決まりのストーリーを展開するのが楽しいところだ。
そのため、アンソロジーのなかの一篇よりも本書に収録されたほうが、より面白さが増すように思う。
ちくま文庫版に「堕天使の冒険」が収録されたのは、だから良かったといいたい。


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魔法使いの弟子

仔細あって、1年ほどお休みしておりました。
また、ぼちぼち再開してまいります。


「魔法使いの弟子」(ロード・ダンセイニ/著 荒俣宏/訳 筑摩書房 1994)

貧乏貴族の子息、ラモン・アロンソが、妹が嫁入りするための持参金を得るために、魔法使いに弟子入りし、錬金術を学ぶという話。
視点は3人称、ほぼアロンソ視点。

ストーリーはシンプル。
縮めれば短篇になりそう。
長編になっているのは、古い作品らしく描写がくだくだしいため。
でも、くだくだしさのなかにときおり素晴らしいイメージがひらめく。
この文章を楽しめるかどうかで、評価が分かれそうだ。

魔法使いに弟子入りしたラモンは、錬金術を教わる代わりに自分の影をさしだす。
魔法使いの家には、アネモネという名の掃除婦がいるのだが、この女性も魔法使いに影をとられてしまっていた。

魔法使いは、ときどきしまってある箱から影たちをだす。
そして、宇宙のどこかに使いにやる。
この影たちが宇宙を渡っていく場面は、読んでいてぞくぞくする。

ラモンは、自分と掃除婦の影を、魔法使いからとりもどそうとする。
影がしまってある箱には、漢字による呪文がかけられ、容易には開けられないようになっている。
漢字が魔法の文字となっているのが、なにやら面白い。

物語はラモンの妹ミランドラの大胆不敵な活躍もあり、大団円へ。
最後は、魔法使いと魔法の生きものたちの行進で終わる。
不思議と晴ればれとした終わりかただ。


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シーグと拳銃と黄金の謎

「シーグと拳銃と黄金の謎」(マーカス・セジウィック/著 小田原智美/訳 作品社 2012)

原題は、“Revolver”
原書の刊行は、2009年。

作者はイギリスのひと。
金原瑞人選、オールタイム・ベストYAの一冊。

時間と場所を変えた2つの物語が、ほぼ交互に語られていく構成。
ひとつは、1910年スウェーデン北部のギロンという街で起こった、一昼夜のできごと。
もうひとつは、1900年アラスカのノームという街で起こったできごと。
もちろん、2つの物語は密接に関係している。
ヤングアダルト小説らしく、一章ごとの長さが短く読みやすい。

3人称。
主人公はシーグという14歳の男の子。
家族とともに、森のなかの丸太小屋で暮らしている。

父親のエイナルは、ギロンにあるベイルマン社の鉱石分析所ではたらいている。
ギロンに越してきてから、シーグはベイルマン社がつくった学校に2年間通ったものの、いつまでも周りに溶けこめない。
14歳になると学校をやめ、その後はときおり父の手伝いをしたり、薪を割ったり、棚を直したり、小屋のこわれたところを修理したり、犬たちの世話をしたりしてすごしている。

シーグの家族はほかに、歳のはなれた姉のアンナと、エイナルの若い妻ナディア。
アンナとナディアはそう歳がちがわない。
アンナは陽気なたちで、いつも歌うか笑っている。
一方のナディアはとても敬虔。
2人はときどき険悪に。
シーグは、自分には母親が2人いるみたいだと思っている。

さて、物語は、小屋のなかでシーグが、死んだ父親をみつめるという緊迫した場面からスタート。
父のエイナルは、湖の氷の上に倒れていたのだ。
最初に父親をみつけたのはシーグ。

父親のそばには4頭の犬がそりとともに、だれかくるのを辛抱強く待っていた。
普段、エイナルは湖を突っ切ったりはしない。
安全に、湖を迂回していく。

おそらく、そりで氷上を走っていたエイナルは、氷が割れ、湖に落ちた。
なんとか、湖から這いだしたものの、凍死してしまった。
まわりにはマッチが散らばっており、それはエイナルが火をつけようとしたためだろう。
父親が落ちた穴は、寒気のためすでにふさがっている。

あとからきたアンナとナディアと協力し、3人はエイナルをそりに乗せ、丸太小屋にはこびこむ。
とにかく、だれか呼ばなくてはいけない。
シーグが残り、アンナとナディアがいくことに。
そして、ひとりシーグが死んだ父親と丸太小屋にいたところ、だれかがドアをノックする音が――。

一方、10年前。
1900年、アラスカのノームという街で、エイナルとその家族は困窮していた。
ゴールドラッシュに誘われ、ひと山当てにきたものの、妻のマリアは病気になってしまった。
アンナとシーグという2人の幼い子どもをかかえているのに、どうにもならない。

マリアもまたナディアに似て、敬虔な性格。
こんな地の果てに家族も連れてきたのはエイナルだけ。
街に白人の女はマリアしかいない。
エイナルは家族のそばをはなれるわけにはいかない。

やけになったエイナルは、強盗をしようと拳銃をもち酒場にいく。
が、そこで出会った男に仕事をあたえられる。
男はソールズベリーという名前の、政府の役人。
仕事は、鉱石分析官。
金の純度を調べ、重さをはかり、値をつける。

ソールズベリーがエイナルを選んだのは、エイナルには家族がいるから。
失うものが多い人間は信用できるという理屈。
勤めはじめて数か月たったある日、ソールズベリーはエイナルにこんなことをいう。

《「真実を知りたいか? ほんとうのことを知りたいか、エイナル? ここにいる鉱夫たちも、一獲千金を夢見てやってきたやつらも、一生金もちにはなれない。大半のやつらは、今後も夢はもうすぐかなうと思える程度の砂金を見つけつづけるだけで、夢が現実になることはぜったいにないさ。なかには大もうけするやつもいるだろうが、金もち気分を味わえるのはぜんぶ使いきっちまうまでのたった数日間のことだ。そして、じっさいに金もちになるのはわたしや君のような人間、つまり、町で事業にたずさわっている人間だけだ。……」》

その日の午後、ウルフという名前の、熊のような大男があらわれ、エイナルに金の分析をもとめてくる。
もうきょうは戸締りをしてしまったとエイナルが断ると、ウルフはごねる。
翌日、ウルフは再び金の分析に。
エイナルが分析してみると、結果はかんばしくなく、10パーセントの純度しかない。

その後、ウルフは腰を分析所に腰をすえ、エイナルの仕事ぶりをじっとみていく。
さらに何日間か、ウルフはエイナルの仕事ぶりを観察。
そして、ある日こう切りだす。

《「半分もらいたい。おまえの金を半分くれ。おまえはとてもかしこい男だ。だからわかるはずだ。おれに半分くれ」》

《「おれを見くびるな。まぬけな仕事仲間の目はごまかせても、おれはだませないぞ。おれはおまえのやり口を知ってるんだ。おまえの金を半分よこせ。そうすれば、だまっててやる。いいな? 相棒だよ。おれとおまえは相棒なのさ」》

再び、1910年、ギロン。
ドアをノックしてきたのは、もちろんウルフ。
エイナルが留守だと知ると、ウルフは一度去るのだが、再びあらわれ、小屋に入り、シーグを脅しはじめる。

《「おまえのおやじとおれは取引した。おれたちはいっしょに働いていたんだ。あのころ、ノームでな。おれたちは取引した。ある約束をしたんだ。やつはそれをわすれちまったらしい。わかれもいわずにあの町を出ていった。おれがここに来たのはその約束をやつに思い出させるためだ」》

《「おまえのおやじがおれからぬすんだ金はどこにある?」》

当時幼かったシーグは、ウルフのことをおぼえていない。
だいたい、父がした取引とはなにか。
父は本当に金を手に入れていたのか。
だとしたら、なぜこんな貧乏暮らしをしているのか。
また、父が湖を犬ぞりで渡ろうとしたこととウルフとは、なにか関係があるのだろうか。

ところで。
この本の原題は、「リヴォルバー」だ。
タイトルになっているだけあり、本書には拳銃が重要な小道具として登場する。
父のエイナルは、シーグの12歳の誕生日に、「世界でもっとも美しいもの」といって拳銃をみせる。
その拳銃――コルト・シングル・アクション・アーミー1873年型、通称ピースメーカー――が、内部でどんな化学反応を起こすのかこと細かに説明する。

一方、マリアやアンナは拳銃を毛嫌いしている。
マリアがもっとも大事にしているのは黒革の聖書だ。

父と母の教えにみちびかれ、シーグはウルフと対決する。
物語は数かずの伏線を回収しながら、ヤングアダルト作品らしい鮮やかな着地をみせる。



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シスターズ・ブラザース

「シスターズ・ブラザーズ」(パトリック・デウィット/著 茂木健/訳 東京創元社 2013)

原題は、“The Sisters Brothers”
原書の刊行は、2011年。

この奇妙なタイトルは、シスターズという姓をもつ兄弟という意味。
兄のチャーリーと、弟のイーライのシスターズ兄弟は、殺し屋として名高い。
このシスターズ兄弟が、提督と呼ばれるボスから指示を受け、オレゴンからゴールド・ラッシュで沸きたつサンフランシスコへ向かう――というのが、本書の大筋。
つまり、西部劇であり、ロード・ノベルの体裁をとっている。

訳者あとがきで、ゴールド・ラッシュの歴史的経緯ついて、訳者の茂木健さんが簡潔に記しているので引用しておこう。

《サクラメントの北東に位置する開拓地で砂金が発見されたのは、本書の物語に先立つこと3年前の1848年だった。これが世に言うゴールド・ラッシュの発端となり、アメリカ領となったばかりでわずか2万人ほどだったカリフォルニアの人口は、翌49年にはたった1年で一挙に10万人に増えているから、すさまじい増加率だ。》

語り手は、殺し屋兄弟の弟イーライ。
本書は、イーライによる〈おれ〉の1人称。

イーライは、巨漢で、純情で、お人好し。
でも、逆上すると手がつけられない。
イーライ自身は、殺し屋稼業にすっかり嫌気がさし、洋服屋でもやりたいと考えている。
一方、兄のチャーリーは、けちで冷血漢で大酒飲み。
しょっちゅうイーライを小馬鹿にしている、たいそう自分勝手な人物だ。

1851年のオレゴン・シティから物語はスタート。
チャーリーは提督から仕事を請け負う。
カリフォルニアにでかけ、ハーマン・カーミット・ウォームという名前の山師を始末するというのがその仕事。
提督の連絡係をつとめるヘンリー・モスが、現在ウォームを監視している。
チャーリーとイーライは、サンフランシスコのホテルでモリスと落ちあい、ウォームがどの男かを教えてもらい、その男を消すのだ。

今回は自分が指揮官になる、とチャーリー。
だから、取り分が少し増える。
そう決めたのは提督だとチャーリーはいうが、イーライは気に入らない。

ともかく、2人は翌日に出発。
以降、ロード・ムービー的珍道中が続くのだけれど、ここで感心するのはエピソードの豊富さ。
どれほどたくさんのエピソードが立ちあわられるのか、少し拾いだしてみよう。

なぜ泣いているのかわからない、めそめそ男の物語。
(めそめそ男はその後も何度か登場)

イーライが毒グモに刺される。
チャーリーは近くの町から無理やり医者を連れてきて、血清を打ってもらう。
毒グモのせいか、血清のせいか、イーライの顔は腫れあがり、奥歯が猛烈に痛むように。

2人は道を進み、イーライは開拓村の歯医者にかかる。
歯医者のレジナルド・ワッツ医師は、数えきれないほどの事業に失敗してきた人物。
ワッツ医師は、イーライに麻酔を注射し、腫れの原因である奥歯を抜く。

また、ワッツ医師は、イーライに歯ブラシを渡し、歯磨きの効能を説明。
以後、イーライは熱心に歯磨きをするように。

一方、チャーリーはワッツ医師がもちいた麻酔と注射器に大変興味をしめす。
ゆずってくれないかとワッツ医師にもちかけるが、断られたので、拳銃を抜いて脅しとる――。

これが、30ページほどまでのエピソード。
本書は300ページほどあるから、全体の10分の1ほどに、これだけのエピソードが詰めこまれている。
このスピード感と密度感が、本書の魅力のひとつ。

これらのエピソードは、作品の雰囲気を決定してはいるものの、伏線としてはあんまり機能していない。
いわば、つかい捨てのエピソード。
このエピソードの大量消費は、1人称だからこそ可能になったことだろう。
そして、エピソードはどれもこれも、ひとを食った愉快なものばかりだ。

カリフォルニアまでは、まだまだ遠い。
物語もまだまだ続く。

邪悪な魔女の小屋に閉じこめられる。
小屋に閉じこめられているあいだ、イーライの愛馬タブがグリズリーに殴られる。
(このあとも、タブは気の毒な目に遭いつづける)
ホテルの女中を好きになり、イーライは減量を決意する。
町では決闘を見物。
野営地にひとり見捨てられた少年に出会う――。

それにしても。
女に好かれたいばかりにダイエットを志す殺し屋の話なんて、聞いたことがない。
この種のとぼけた味わいが、本書を読む一番の愉しさだ。

後半では、いよいよサンフランシスコに到着。
サンフランシスコの街は、むやみやたらと活気がある。
なぜか片腕にニワトリを抱いた男――サンフランシスコにきたばかりに正気を失った男――から、サンフランシスコの物価高騰を聞いた兄弟は、そんな金のつかいかたはできないと顔をしかめる。
すると、ニワトリ男はこういって2人を歓迎する。

《「その意見には、おれも全面的に賛成するね。だからこそ、大バカしか住んでいないこの街に来て、大バカの仲間入りするあんたたちを、心から歓迎したいわけだな。ついでだから、あんたたちがあまり苦労せず大バカになれることも、願っといてやろう」》

ところで。
丸谷才一さんのエセーに「女の小説」(丸谷才一/著 和田誠/著 光文社 2001)というのがある。
おもに女性作家の作品を論じたエセー。

作者の性別はともかく、小説を男の小説と女の小説に分けるとするなら、この小説は間違いなく男の小説だろう。
全体に、乱暴で、滑稽で、ユーモラス。
徒労と哀切に満ちている。

本書では女性の影が薄い。
でも、兄弟の母親だけは別。
本を読み終えて、もう一度冒頭を開いてみると、「母に」という献辞が記されている。
でも、こんな乱暴な小説を贈られては、お母さんも困ってしまうのではないだろうか。


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オンブレ

「オンブレ」(エルモア・レナード/著 村上春樹/訳 新潮社 2018)

原題は、“Hombre”
原書の刊行は1961年。

本書には、短篇「三時十分ユマ行き」が併録されている。
原題は、“Three―Ten to Yuma”
1953年に、雑誌「ダイム・ウェスタン・マガジン」に掲載されたとのこと。

「オンブレ」は、「太陽の中の対決」というタイトルで1967年に映画化されているそう。
また、「三時十分ユマ行き」は、1957年に「決断の3時10分」のタイトルで、また2007年には「3時10分、決断のとき」として映画化されている。

このうち、2007年の「3時10分、決断のとき」は映画館でみた。
ラッセル・クロウが主演の映画で、面白かった。
今回原作を読んでみたら、ラストが映画とちがっている。
でも、映画のラストもエルモア・レナード風だ。

本書は西部劇小説。
「オンブレ」の舞台はアリゾナ。
1884年8月12日の火曜日と、その前後のできごと。
1人称〈私〉による視点から書かれているけれど、主人公は〈私〉ではない。
〈私〉はナレーターにすぎなくて、主人公はオンブレ――スペイン語で「男」の意味――との異名をもつ、ジョン・ラッセルだ。

本書は、この物語をどこから書きはじめたらいいのかという、〈私〉の自問自答からはじまる。
この書きだしは、「オタバリの少年探偵たち」にそっくり。
もちろん、その後の展開は児童書とは似つかない。

〈私〉は、「ハッジ&ホッジズ」という駅馬車会社に勤めている。
「ハッジ&ホッジズ」は、南行きの駅馬車路線を閉鎖し、スイートメアリから撤退するところ。
〈私〉も別の仕事をみつけなければいけない。

そんなスイートメアリの町に、陸軍がひとりの少女を連れてやってくる。
17歳の娘、マクラレン嬢。
チリカワ族――アリゾナ州に住むアパッチの部族――の襲撃にあって連れ去られ、4、5週間後に救出された。
陸軍は、まだ南行きの駅馬車が運行していると思い、少女を連れてきたのだった。

それから、除隊兵があらわれる。
トーマス砦からやってきた、一週間後に結婚する予定という除隊兵は、ビスビーまでいきたいと告げる。

さらに、ドクター・フェイヴァーという人物が、15歳年下の美しい妻を連れてあらわれる。
サン・カルロスで2年ほど、インディアン管理官をしていた人物。
ドクター・フェイヴァーは、個人的に馬車と御者を雇えないものかと、〈私〉の上司であるミスタ・メンデスにかけあう。
営業所には、ここを引き払うさいにつかう馬車――主に雨天用につかわれるマッド・ワゴンという馬車――が一台残っている。
それをつかえないか。

スイートメアリからでたがっている〈私〉も、ドクター・フェイヴァーの申し出に加勢。
マクラレン嬢も連れていけば、道中で親しくなれるかも。

交渉の末、ミスタ・メンデスは特別運行の馬車を走らせることに。
乗客は、〈私〉、マクラレン嬢、ドクター・フェイヴァー、その妻、除隊兵、ジョン・ラッセル。
それから、御者をつとめるミスタ・メンデス。

出発直前、フランク・ブレイデンという名前のならず者があらわれる。
典型的なならず者として、ブレイデンはこう描写される。

《すべてが同じ材料から作り上げられ、兄弟みたいな同質の連中と一緒でなければ、微笑みを浮かべることはまずない。そして仲間たちと一緒にいるときには、彼らは常にうるさい。大声で話し、大声で笑う。》

フランク・ブレイデンは、除隊兵に難癖をつけ、馬車の切符をとりあげてしまう。
しかし、その後のことを考えれば、除隊兵は運がよかったといえるかもしれない。

ともかく馬車は出発。
途中、デルガド中継所による。
そこから、ドクター・フェイヴァーの希望で、閉鎖されたサン・ペテ鉱山を通る道をゆくことに。
サン・ペテ鉱山に着いてみると、これは駅馬車のルートではないと、フランク・ブレイデンは腹を立てる。

休憩し、再び出発。
本来の駅馬車のルートではないので、道は険しい。
そして、強盗があらわれる。
結果、乗客たちは、灼熱の荒野で逃避行をつづけることに――。

この作品の主人公、ジョン・ラッセルは複雑な生い立ちの人物としてえがかれている。
血筋の4分の3は白人で、4分の1はメキシコ人。
メキシコで暮らしていたが、アパッチの襲撃を受け、連れ去られた。
イシュ・ケイ・ネイという名前をつけられ、チリカワ族に育てられ、部族の副酋長のひとりであるソンシチェイの息子となった。
アパッチのもとで暮らしたのは、6歳から12歳くらいまで。

その後、ジョン・ラッセルは、陸軍への物資補給を請け負う馬車隊をもつジェームズ・ラッセル氏と出会う。
ラッセル氏がトーマス砦にいるとき、少年ラッセルがほかの虜囚と一緒に連行されてきたのだ。
ラッセル氏は商売を譲渡し、ラッセル少年とともにコンテンションで暮らすことになった。
ラッセルは学校にもいく。

が、16歳くらいでラッセルはそこを去り、全員がアパッチであるインディアンの自治警察に入隊。
そこで3年をすごしたのち、マスタンガー――野生馬を捕獲し、飼い慣らして鞍を置けるようにする仕事――となる。

ラッセルが駅馬車に乗るのは遺産相続のため。
ジェームズ・ラッセル氏が亡くなり、コンテンションにある地所が遺されたのだ。
ところが、ラッセルはいくのを渋っている。
友人であり、商売仲間であるミスタ・メンデス――ミスタ・メンデスはラッセルから馬を買っていた――の説得で、ラッセルはようやく駅馬車に乗ることにし、そしてこの事件に遭遇したのだった。

ラッセルは冷静沈着で、なにを考えているかわからない。
これは、〈私〉というナレーターを通して人物をえがくときの利点だろう。
ラッセルは英語ではなく、スペイン語で話そうとする。
そんなラッセルを、ミスタ・メンデスは白人の世界にもどそうとしている。

エルモア・レナードは会話を書くのがすこぶるうまい。
会話はつねに緊迫感に満ちている。
ならず者のフランク・ブレイデンが、除隊兵から駅馬車の切符をとりあげる場面をはじめ、本作でもそんな場面は枚挙にいとまがない。

スイートメアリからデルガド中継所までいく駅馬車の車内で、ラッセルはサン・カルロスで警察の仕事をしていたことをもらす。
居留地の警察は全員がアパッチ。
車内には重苦しい沈黙がただよう。

デルガド中継所に着くと、ドクター・フェイヴァーはミスタ・メンデスに、ラッセルと同席したくない旨をもちかける。
ミスタ・メンデスはラッセルにそのことを告げる。
少しごねるラッセルを、ミスタ・メンデスは説得する。

《「言い合いをする価値のあることなのか?」とメンデスは言った。「ことを荒立て、みんなを不愉快な気持ちにさせるほどのことか? ああ、みんなは間違っている。しかしここで全員を説得することと、それをただ忘れちまうことと、どっちが簡単かね? おまえにもそれくらいはわかるだろう?」
「学んでいるところだよ」とラッセルは言った。》

こうして、ラッセルは御者台に乗ることに。
後半、強盗にあったあと、荒野をさまようはめになった乗客たちは、皆ラッセルを頼る。
かれだけが、苦境から逃れるための知識や経験や技術をもっている。
でも、ラッセルはリーダーのように振る舞ったりはしない。
ただ、皆がついてくるのを黙認するだけだ。

社会の規範からはなれ、なにもかも個人の決断にまかされる状況。
そんな状況下で、ラッセルは際立った人物像をみせる。
これは、エルモア・レナードの他の作品にもいえることかもしれない。

「三時十分発ユマ行き」
これは3人称。
主人公は、ビスビーの保安官補ポール・スキャレン。

スキャレンは、無法者ジム・キッドを護送しているところ。
コンテンションの町で、ユマ行きの列車に囚人を乗せなければいけない。
しかし、ジムの仲間がジムを奪還しようとしている。
くわえて、ジムに弟を殺された男が、ジムの命を狙っている。
スキャレンは、ぶじユマ行きの列車にジムを乗せることができるのか――。

この作品もまた、緊張の糸が途切れない。
レナード作品の緊張の糸は、鋼鉄でできているかのようだ。

ところで。
本書を読んで、一番驚いたのは、村上春樹さんによる訳者あとがきに書かれた、「エルモア・レナードは売れない」ということばだった。

《少し前に――エルモア・レナードが――亡くなってしまったのはとても残念だし(2013年没)、その作品が日本でアメリカ本国ほどの人気を博さなかったことも、僕としてはいささか不満に思うところだが(各社の編集者はみんな「レナード、思うように売れないんですよね」とこぼしていた)、本書に収められたような西部小説で、少しでも新しい読者を掘り起こせればなあと、レナード・ファンとしては微かな期待を寄せている。》

エルモア・レナードが売れないなんて、ちっとも知らなかった。
こんなに素晴らしく面白いのに。


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「マラマッド短篇集」「喋る馬」「レンブラントの帽子」

バーナード・マラマッドは1914年、ユダヤ系ロシア移民の子としてニューヨークのブルックリンに生まれた。
亡くなったのは、1986年。

マラマッドの短篇集を読んだらやめられなくなり、立て続けに3冊読んだ。
読んだのは、
「マラマッド短篇集」
「喋る馬」
「レンブラントの帽子」
の3冊。
収録作は以下。

「マラマッド短編集」(加島祥造/訳 新潮社 1979)

「最初の七年間」 The First Seven Years
「弔う人々」 The Mourners
「夢に描いた女性」 The Girl of my Dreams
「天使レヴィン」 Angel Levine
「見ろ、この鍵を」 Behold the Key
「われを憐れめ」 Take Pity
「牢獄」 The Prison
「湖上の貴婦人」 The Lady of the Lake
「夏の読書」 A Summer's Reading
「掛売り」 The Bill
「最後のモヒカン族」 The Last Mohican
「借金」 The Loan
「魔法の樽󠄀」 The Magic Barrel

巻末の訳者あとがきで、加島祥造さんはマラマッドの作品を3つに分けて紹介している(加島さんによれば、ある批評家の分類とのこと)。

1.ニューヨークのユダヤ人もの
「最初の七年間」「弔う人々」「天使レヴィン」「われを憐れめ」「掛売り」「借金」「魔法の樽󠄀」

2.ユダヤ人の登場しないニューヨークもの
「夢に描いた女性」「牢獄」「夏の読書」

3.イタリアもの
「見ろ、この鍵を」「湖上の貴婦人」「最後のモヒカン族」

収録作のなかで好きなのは、まず「天使レヴィン」
それから、「弔う人々」「夢に描いた女性」「われを憐れめ」「夏の読書」

マラマッドの作品は、貧乏話が多い。
「喋る馬」の訳者あとがきで、柴田元幸さんがいうところの、《貧乏抒情》。

《貧乏なのに美しい、という背反でもなく、貧乏だからこそ美しい、という手放しの肯定でもない。貧乏と美が否応なしに、好むと好まざるとにかかわらず合体させられている。(否応なしに傍点)〉

でも、貧乏話でも、「掛売り」「借金」は、痛ましくて読むのが辛い。
その点、「天使レヴィン」「われを憐れめ」などは、ファンタジックな要素がある分、民話のような味わいがあり、読んでいて助かる。

イタリアものはあまり買わない。
少々冗長すぎる気がする。
貧乏話の凝縮さのほうが好ましい。

「喋る馬」(柴田元幸/訳 スイッチ・パブリッシング 2009)
カッコ内は、「マラマッド短篇集」でのタイトル。
初出情報も掲載されていたので、一緒に記しておく。

「最初の七年」(最初の七年間) 1950
「金の無心」(借金) 1952
「ユダヤ鳥」 The Jewbird 1963
「手紙」 The Letter 1972
「ドイツ難民」 The German Refugee 1963
「夏の読書」1956
「悼む人たち」(弔う人々) 1955
「天使レヴィーン」(天使レヴィン) 1955
「喋る馬」 Talking House 1972
「最後のモヒカン族」 1958
「白痴が先」 Idiots First 1961

この作品集では、「マラマッド短篇集」にあった3つの分類に加えて、さらに2つの要素がみられるように思う。
ひとつは、「ユダヤ鳥」「喋る馬」のような寓話的作品が加わったこと。
これらの作品では、物語の最後にファンタジーが恩寵のようにあらわれるのではなく、最初から鳥や馬がしゃべっている。

もうひとつは、「手紙」のようなスケッチ風の作品が加わったこと。
作品の頭と尻尾を切り捨てて、そのあいだだけをごろんと転がしたような作品。
切れる前の弦のような緊張感がある。

「レンブラントの帽子」(小島信夫/訳 浜本武雄/訳 井上謙治/訳 夏葉社 2010)

「レンブラントの帽子」 Rembrandt‘s Hat 1973
「引き出しの中の人間」 Man in the Drawer 1968
「わが子に、殺される」 My Son the Murderer 1968

「レンブラントの帽子」は、少し詳しくみていきたい。
主人公は、アーキンという名前。
ニューヨークの美術学校で教える、34歳の美術史家。
この作品は、3人称アーキン視点。

ある日、アーキンは学校で、ひとまわり年上の彫刻家ルービンがかぶっている帽子をほめる。
それ、とてもいい帽子ですね。
レンブラントの帽子そっくりなんですよ。

ところが、それからというものアーキンはルービンに避けられるように。
一体なぜ避けられなくてはいけないのか。
アーキンは訳がわからない。

2、3か月過ぎても、アーキンはルービンに避けられる。
気を揉むたちのアーキンは、ルービンになにか失礼なことをいったかと思い悩む。
そのうち、だんだん仲がこじれて、2人は互いを避けあうように。

そうなると逆に、2人あちこちの界隈で出くわすことになる。
2人はお互いを、うんざりするほど意識している。
ある日、一時限授業に駆けつけた2人は、校舎の前でぶつかってしまう。
かっとなった2人は、お互いをののしりあう――。

マラマッドは、気を揉むひとを書く。
たとえば、「マラマッド短篇集」に収録されている、「牢獄」
夫婦で生活用品などを売る店をやっている、その夫が、店のものを万引きする女の子をみつけて気を揉む。
あの子が菓子をくすねたって、たいした損じゃないだろ、くすねさせておけ、と思ったり、おまえはお人好しすぎるぞと、自分のことを叱ったり。
気を揉む様子が作品になるという作風。

「レンブラントの帽子」も、そんな作品のひとつ。
ただ、この作品の場合、彫刻家のルービンがなぜそんなに気分を害しているのかが、アーキンにはわからない。

校舎の前でぶつかってから、半年くらいたったころ、アーキンはルービンのアトリエに入る。そして、ルービンの作品をながめているうちに、アーキンはルービンの気持ちの一端がわかったような気になる。
また、ルービンの身になり、ルービンがどう感じたのかアーキンは考えてみる。

というわけで、アーキンがルービンの気持ちを理解する過程が、この作品となっている。
人情の微妙さを、ユーモラスで精妙な筆致でえがいている。
とにかく大変な完成度。
大筋のあいまに、過去のエピソードが挿入されるところなど、精密な部品がはめこまれたときのカチッという音が聞こえてくるよう。
この作風で、これ以上の完成度はもう望めないのではないか。

「引き出しの中の人間」
これは、イタリアものの変奏というべき作品。
イタリアもののひとつである、「最後のモヒカン族」では、画家の落伍者を自認する主人公のファイデルマンが、ジョット研究をしにイタリアにやってくる。
そこで、スキンドというイスラエルからきたユダヤ難民と出会い、悩まされる。

「引き出しの中の人間」の舞台は、イタリアではなくソ連。
妻を亡くし、ソ連に旅行にきた〈私〉は、タクシーの運転手であるユダヤ人、レヴィタンスキーと出会う。
運転手をしているものの、レヴィタンスキーは本来作家であり、国外で出版してくれないかと、〈私〉に原稿をみせる。
みせたのは、英語に翻訳された、4つの短篇。
〈私〉は、その出来映えに感心。
でも、ソ連体制下で原稿を国外にもちだそうとしたら、どんな目にあうかわからない。
かくして、〈私〉は煩悶するはめに。

ほかのイタリアもの同様、この作品も長すぎる気がする。
でも、4つの短篇のあらすじが紹介される最後の場面は忘れがたい。

「わが子に、殺される」
これはスケッチ風の短篇。
1人称と3人称が入り乱れ、会話にカギカッコがつかわれない。
内容は、心を開かない息子と、息子を心配する父親の話。

息子のハリィは22歳。
部屋に閉じこもり、煙草を吸い、新聞を読み、夜は戦争のニュースばかりみている。
職探しにでかけても、せっかくみつけた働き口を自分から断ってしまう。

父親のレオは息子のことが心配でならない。
勤め先の郵便局で2週間の休暇をとり、息子の部屋の前の廊下に立ち、話しかける。
ハリィに届いた手紙をこっそり読み、それがばれ、
《おれのことをコソコソ調べたりしやがって。殺してやる。》
などと、ハリィにいわれる。

息子が外にでると、父親はあとをつける。
ハリィが浜辺に立っているのをみつけたレオは、息子のそばに駆けよる。
「自分で自分を孤独にしてしまった息子」に、レオは語りかける。

《ハリィ、どう言ったらいいのかな。でも、人生なんて決して楽なもんじゃないんだよ。それだけしか、わしには言えない。……》

ここでは、《貧乏抒情》は影をひそめている。
代わりに、悲痛さと抒情がないまぜになったものがあらわれて、ひとを打つ。

本書の装丁は、和田誠さん。
バーコードが嫌いな和田誠さんらしく、ISBNのバーコードは帯に印刷されている。
カバーには、レンブラントの絵がえがかれているけれど、カバーをはずすと、少し困ったような顔をしたおじさんの絵があらわれる。
きっと、ルービンにちがいない。

また、巻末には、荒川洋治さんによる、「レンブラントの帽子について」という文章がついている。
そのなかで、荒川さんは「レンブラントの帽子」について、こんなことを書いている。

《四〇〇字詰の原稿用紙なら、三〇枚を少しこえるていどの短いものだが、人間の心の色どりと移ろいが、これ以上なく哀切に、精密に、劇的に、あたたかみをもって描かれている点で、マラマッドの短編の代表作であるだけでなく、二〇世紀アメリカ文学のなかでも屈指の短編であろうと思われる。》

《最後の場面は、胸にせまる。人間が放つ光を見た。そんな気持ちになる。》


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