オンブレ

「オンブレ」(エルモア・レナード/著 村上春樹/訳 新潮社 2018)

原題は、“Hombre”
原書の刊行は1961年。

本書には、短篇「三時十分ユマ行き」が併録されている。
原題は、“Three―Ten to Yuma”
1953年に、雑誌「ダイム・ウェスタン・マガジン」に掲載されたとのこと。

「オンブレ」は、「太陽の中の対決」というタイトルで1967年に映画化されているそう。
また、「三時十分ユマ行き」は、1957年に「決断の3時10分」のタイトルで、また2007年には「3時10分、決断のとき」として映画化されている。

このうち、2007年の「3時10分、決断のとき」は映画館でみた。
ラッセル・クロウが主演の映画で、面白かった。
今回原作を読んでみたら、ラストが映画とちがっている。
でも、映画のラストもエルモア・レナード風だ。

本書は西部劇小説。
「オンブレ」の舞台はアリゾナ。
1884年8月12日の火曜日と、その前後のできごと。
1人称〈私〉による視点から書かれているけれど、主人公は〈私〉ではない。
〈私〉はナレーターにすぎなくて、主人公はオンブレ――スペイン語で「男」の意味――との異名をもつ、ジョン・ラッセルだ。

本書は、この物語をどこから書きはじめたらいいのかという、〈私〉の自問自答からはじまる。
この書きだしは、「オタバリの少年探偵たち」にそっくり。
もちろん、その後の展開は児童書とは似つかない。

〈私〉は、「ハッジ&ホッジズ」という駅馬車会社に勤めている。
「ハッジ&ホッジズ」は、南行きの駅馬車路線を閉鎖し、スイートメアリから撤退するところ。
〈私〉も別の仕事をみつけなければいけない。

そんなスイートメアリの町に、陸軍がひとりの少女を連れてやってくる。
17歳の娘、マクラレン嬢。
チリカワ族――アリゾナ州に住むアパッチの部族――の襲撃にあって連れ去られ、4、5週間後に救出された。
陸軍は、まだ南行きの駅馬車が運行していると思い、少女を連れてきたのだった。

それから、除隊兵があらわれる。
トーマス砦からやってきた、一週間後に結婚する予定という除隊兵は、ビスビーまでいきたいと告げる。

さらに、ドクター・フェイヴァーという人物が、15歳年下の美しい妻を連れてあらわれる。
サン・カルロスで2年ほど、インディアン管理官をしていた人物。
ドクター・フェイヴァーは、個人的に馬車と御者を雇えないものかと、〈私〉の上司であるミスタ・メンデスにかけあう。
営業所には、ここを引き払うさいにつかう馬車――主に雨天用につかわれるマッド・ワゴンという馬車――が一台残っている。
それをつかえないか。

スイートメアリからでたがっている〈私〉も、ドクター・フェイヴァーの申し出に加勢。
マクラレン嬢も連れていけば、道中で親しくなれるかも。

交渉の末、ミスタ・メンデスは特別運行の馬車を走らせることに。
乗客は、〈私〉、マクラレン嬢、ドクター・フェイヴァー、その妻、除隊兵、ジョン・ラッセル。
それから、御者をつとめるミスタ・メンデス。

出発直前、フランク・ブレイデンという名前のならず者があらわれる。
典型的なならず者として、ブレイデンはこう描写される。

《すべてが同じ材料から作り上げられ、兄弟みたいな同質の連中と一緒でなければ、微笑みを浮かべることはまずない。そして仲間たちと一緒にいるときには、彼らは常にうるさい。大声で話し、大声で笑う。》

フランク・ブレイデンは、除隊兵に難癖をつけ、馬車の切符をとりあげてしまう。
しかし、その後のことを考えれば、除隊兵は運がよかったといえるかもしれない。

ともかく馬車は出発。
途中、デルガド中継所による。
そこから、ドクター・フェイヴァーの希望で、閉鎖されたサン・ペテ鉱山を通る道をゆくことに。
サン・ペテ鉱山に着いてみると、これは駅馬車のルートではないと、フランク・ブレイデンは腹を立てる。

休憩し、再び出発。
本来の駅馬車のルートではないので、道は険しい。
そして、強盗があらわれる。
結果、乗客たちは、灼熱の荒野で逃避行をつづけることに――。

この作品の主人公、ジョン・ラッセルは複雑な生い立ちの人物としてえがかれている。
血筋の4分の3は白人で、4分の1はメキシコ人。
メキシコで暮らしていたが、アパッチの襲撃を受け、連れ去られた。
イシュ・ケイ・ネイという名前をつけられ、チリカワ族に育てられ、部族の副酋長のひとりであるソンシチェイの息子となった。
アパッチのもとで暮らしたのは、6歳から12歳くらいまで。

その後、ジョン・ラッセルは、陸軍への物資補給を請け負う馬車隊をもつジェームズ・ラッセル氏と出会う。
ラッセル氏がトーマス砦にいるとき、少年ラッセルがほかの虜囚と一緒に連行されてきたのだ。
ラッセル氏は商売を譲渡し、ラッセル少年とともにコンテンションで暮らすことになった。
ラッセルは学校にもいく。

が、16歳くらいでラッセルはそこを去り、全員がアパッチであるインディアンの自治警察に入隊。
そこで3年をすごしたのち、マスタンガー――野生馬を捕獲し、飼い慣らして鞍を置けるようにする仕事――となる。

ラッセルが駅馬車に乗るのは遺産相続のため。
ジェームズ・ラッセル氏が亡くなり、コンテンションにある地所が遺されたのだ。
ところが、ラッセルはいくのを渋っている。
友人であり、商売仲間であるミスタ・メンデス――ミスタ・メンデスはラッセルから馬を買っていた――の説得で、ラッセルはようやく駅馬車に乗ることにし、そしてこの事件に遭遇したのだった。

ラッセルは冷静沈着で、なにを考えているかわからない。
これは、〈私〉というナレーターを通して人物をえがくときの利点だろう。
ラッセルは英語ではなく、スペイン語で話そうとする。
そんなラッセルを、ミスタ・メンデスは白人の世界にもどそうとしている。

エルモア・レナードは会話を書くのがすこぶるうまい。
会話はつねに緊迫感に満ちている。
ならず者のフランク・ブレイデンが、除隊兵から駅馬車の切符をとりあげる場面をはじめ、本作でもそんな場面は枚挙にいとまがない。

スイートメアリからデルガド中継所までいく駅馬車の車内で、ラッセルはサン・カルロスで警察の仕事をしていたことをもらす。
居留地の警察は全員がアパッチ。
車内には重苦しい沈黙がただよう。

デルガド中継所に着くと、ドクター・フェイヴァーはミスタ・メンデスに、ラッセルと同席したくない旨をもちかける。
ミスタ・メンデスはラッセルにそのことを告げる。
少しごねるラッセルを、ミスタ・メンデスは説得する。

《「言い合いをする価値のあることなのか?」とメンデスは言った。「ことを荒立て、みんなを不愉快な気持ちにさせるほどのことか? ああ、みんなは間違っている。しかしここで全員を説得することと、それをただ忘れちまうことと、どっちが簡単かね? おまえにもそれくらいはわかるだろう?」
「学んでいるところだよ」とラッセルは言った。》

こうして、ラッセルは御者台に乗ることに。
後半、強盗にあったあと、荒野をさまようはめになった乗客たちは、皆ラッセルを頼る。
かれだけが、苦境から逃れるための知識や経験や技術をもっている。
でも、ラッセルはリーダーのように振る舞ったりはしない。
ただ、皆がついてくるのを黙認するだけだ。

社会の規範からはなれ、なにもかも個人の決断にまかされる状況。
そんな状況下で、ラッセルは際立った人物像をみせる。
これは、エルモア・レナードの他の作品にもいえることかもしれない。

「三時十分発ユマ行き」
これは3人称。
主人公は、ビスビーの保安官補ポール・スキャレン。

スキャレンは、無法者ジム・キッドを護送しているところ。
コンテンションの町で、ユマ行きの列車に囚人を乗せなければいけない。
しかし、ジムの仲間がジムを奪還しようとしている。
くわえて、ジムに弟を殺された男が、ジムの命を狙っている。
スキャレンは、ぶじユマ行きの列車にジムを乗せることができるのか――。

この作品もまた、緊張の糸が途切れない。
レナード作品の緊張の糸は、鋼鉄でできているかのようだ。

ところで。
本書を読んで、一番驚いたのは、村上春樹さんによる訳者あとがきに書かれた、「エルモア・レナードは売れない」ということばだった。

《少し前に――エルモア・レナードが――亡くなってしまったのはとても残念だし(2013年没)、その作品が日本でアメリカ本国ほどの人気を博さなかったことも、僕としてはいささか不満に思うところだが(各社の編集者はみんな「レナード、思うように売れないんですよね」とこぼしていた)、本書に収められたような西部小説で、少しでも新しい読者を掘り起こせればなあと、レナード・ファンとしては微かな期待を寄せている。》

エルモア・レナードが売れないなんて、ちっとも知らなかった。
こんなに素晴らしく面白いのに。


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