鳴砂山は、敦煌の南5kmに位置し、東西40km、南北50kmにわたる広大な砂山です。砂山に挟まれた窪地には、月牙泉があり、独特の景観を造っています。
莫高窟は、この鳴砂山の東端の断崖に設けられています。
日本人が「月の砂漠」の歌から抱く砂漠のイメージに一番近い風景を体験することができます。
この鳴砂山も、中国の他の観光地と同じに、入場料の必要な観光施設として整備されていました。
門を入 . . . 本文を読む
莫高窟の中は撮影禁止のため、見た窟の番号は記録してきたものの、何を見たのか記憶も薄れそうです。
自分自身のためにも、見たものを写真集よりまとめておきます。
まずは、第16窟に入りました。清代に造られた九体の塑像が置かれており、西夏時代の壁画がありますが、ここでの見どころは入り口右側にある側室の第17窟です。
1900年にここに閉じ込められていた多数の経典や仏画、古文書が発見され、「蔵経洞」と . . . 本文を読む
今回の旅のハイライトは、莫高窟の見学です。
莫高窟は、敦煌市の東南25kmに位置する鳴沙山の東の断崖に南北に1600mに渡って、600あまりの洞窟が掘られており、五胡十六国から元の1000年間の時代に渡る壁画や仏像が残されています。
世界遺産にも登録されており、「砂漠の大画廊」と呼ばれるのにふさわしい、シルクロードに花開いた仏教美術の殿堂になっています。
敦煌到着の夜、ホテルで、翌日に案 . . . 本文を読む
敦煌故城見学の後に、敦煌市内に戻り、ようやくホテルにチェックインしました。
敦煌の街は、シルクロードの田舎町というイメージを持っていましたが、新しくきれいな街並みが広がっていました。再開発が行われたことと、近くに高給取りの石油基地従業員の家族の住む団地ができて、ブランド品も売れる好景気に恵まれているせいのようです。
ロータリーの真ん中に置かれている敦煌の街のシンボルの反弾琵琶像です。
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陽関から戻る途中、敦煌故城によりました。
敦煌は、天山北路、天山南路、西域南道が分かれるシルクロードの重要な分岐点として栄えましたが、都市自体の遺跡は、ほとんど残されていません。
砂漠の中に忽然と現れる敦煌故城は、映画「敦煌」の撮影のために造られたものです。
映画「敦煌」は、井上靖原作の小説を映画化した1988年の作品で、日本アカデミー賞・最優秀作品賞を受賞しています。
小説をほぼ再現 . . . 本文を読む
敦煌に到着して昼食をとった後、さっそく陽関に向かいました。
陽関は、古代の関所跡で、漢代には玉門関と陽関が、西の境界になっていました。
敦煌市から西南に約70Kmの位置にあります。バスが近付くと、丘の上にあるのろし台跡が、遠くからでも見えてきました。
史跡入り口には、立派な門が再建されていました。
城壁の回りには、攻城兵器が並べられおり、歴史ファンとしては興味深く見ることができました。 . . . 本文を読む
トルファンでの最後の夕食後、別料金になりましたが、ホテルで休憩のための部屋をとり、シャワーをあびてひと休みしました。猛暑の中を一日歩きまわっていたので、夜行列車に乗る前にシャワーを浴びて着替えもできたことは助かりました。
トルファン駅は、市内からバスで1時間ほど砂漠の中を走ったところにあります。これは、トルファンの街が盆地の中にあるため、列車が坂を上り下りしないで済むように、盆地の縁に駅を造った . . . 本文を読む
交河故城でトルファンの観光は終わり、夜行列車で敦煌に向かうことになりますが、夕食の前に葡萄農家を訪れて、干し葡萄の買い物をすることになりました。
トルファンは、砂漠のオアシスで葡萄が名産品になっており、干し葡萄の乾燥小屋が数多く見られます。
入り口で、この農家の主人の息子がお出迎え。カメラを向けたら、いきなりピースサインを行いました。
門の中に入ると、中庭を二階建ての建物が囲んでいました . . . 本文を読む
トルファンの西16kmのところに交河故城があります。
漢代の車師前国の都があった所で、漢王朝の重要な屯田地として辺境防御の任務にあたりました。後にこの地方を支配した高昌王国は、いまの高昌故城に遷都しましたが、交河故城は軍事拠点として使い続けられました。唐代には、西域経営の中心となり702年には最初の安西都護府がおかれました。ウイグル王国時代も重要な都市でしたが、元代末期、チンギス・ハンの遠征の途 . . . 本文を読む
午前中の観光を終え、トルファン市内に戻って昼食にしました。熱砂の火焔山見物の後の、冷えたビールが美味しかったこと。
そのレストランでは、ウィグル衣装を着た若い女性が、一緒の記念写真やポーズをとっての撮影に応じてくれました。
絞りを開放にして背景をぼかすべきでしたね。
こちらのほうが、ポートレート風かな。
午後の観光は、カレーズの見学から始まりました。
カレーズとは、中央ア . . . 本文を読む
火焔山見学の後、蘇公塔に向かいました。蘇公塔は、トルファンの南東2kmのところにあります。
蘇公塔は清朝が任命したトルファンの二代目郡王となった蘇来曼(スライマン)が、その父オーミン・ホージャ(額敏和卓)のため、1779年に建てたものです。
塔の脇にはモスクが設けられています。
オーミン・ホージャ(額敏和卓)の像。
オーミン・ホージャ(額敏和卓)は、18世紀のウィグル族の指導者で、 . . . 本文を読む
火焔山は、トルファン盆地の中央に横たわる東西約100km、南北10km、平均海抜500m、最高点851mの山地です。
火焔山の名前は、西遊記において、燃え盛る山として登場し、その火を消すために牛魔王夫人の鉄扇公女の持つ芭蕉扇を借り受けるという物語が、全般中でも良くしたれた場面になっています。
西遊記は中国でも良く親しまれている話であるためか、ベゼクリク千仏洞の手前には、西遊記をモチーフとし . . . 本文を読む
高昌故城の後は、ベゼクリク千仏洞を見学しました。
ベゼクリク千仏洞は、トルファンの北東38km、火焔山山中のムルトゥク河渓谷の崖に作られた石窟寺院です。
入口には、火焔山の一部であるピークがそそり立っています。
観光用にラクダもいます。
赤茶けた砂で覆われた火焔山を、ムルトゥク河が渓谷をうがち、緑のベルトが続いています。彼方には、ボゴタ峰を望むことができます。
遺跡は、崖の中腹に . . . 本文を読む
トルファン二日目の観光は、まずは高昌故城の見学から始まりました。
高昌故城は、トルファンの街の東40kmほどのところにあります。
漢代に、高昌壁や高昌塁と呼ばれる軍事要塞が築かれ、その後西域地方への中国王朝の支配が及ばなくなるとともに、漢民族の支配する小王国として発展していくことになります。
高昌故城は、周囲5kmで、外城、内城、宮城が設けられています。
場内は広く、入り口からはロバの牽く . . . 本文を読む
トルファンでの泊まりは、今晩だけで、翌日は夜行列車に乗ります。夜の街を見るため、踊りが終わってから街に出かけることにしました。
一番の大通りの高昌北路に出ると、葡萄娘といった題の像が立っていました。
屋台が並ぶ一郭を見つけることができました。
日本ではシシカバブーとして知られている羊肉の串焼きも売っていました。
左はギョウザのように見えますね。
焼き串にもいろいろ種類があ . . . 本文を読む