大連の天天漁港は、鮮魚をあつかう名物料理店です。
店に入ると、サンプルが置いてあり、その背後に鮮魚の水槽が並べられています。
エビの揚げ物
魚の揚げ物
ゆでたイカ
小型のあわび
ホタテ貝
ヒラメのさしみ。
日本人観光客だから出てきたのでしょうかね。
入り口わきにある水槽は、見物の価値がありました。
うにもいました。
なまこもいました。
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北京料理、上海料理、四川料理、広東料理が、中国四大料理と呼ばれて、残念ながら東北地方の料理は、味付けは塩辛く脂っこい田舎料理という位置づけです。
しかしながら、餃子は東北地方が本番で、清朝の発足地であることから北京料理に大きな影響を及ぼしています。また、日本と関係が深いためか、食べてみると日本の中華料理とあまり変わらない味付けに思えました。
5日間のツアーの食事は、朝はホテルのビュッフェ、昼は . . . 本文を読む
旅の最終日になりました。ハルビンから新潟への飛行機の出発時間が早朝で、起きるなり空港に向かう必要がありましたが、僅かな時間でしたが、朝の光の中で中央大街のホテル周辺を見学することができました。
ハルビンの宿であった哈爾濱馬迭爾賓館(旧モデルンホテル)の入り口。中央大街から脇に入った所にあります。
窓飾りもこっています。
中央大街から見た哈爾濱馬迭爾賓館(旧モデルンホテル)
哈爾 . . . 本文を読む
中央大街の中央付近の脇道には、地元ビール会社のビアガーデンが三つほど設けられていました。
ハルビンは、1900年にビールの生産をはじめて、都市別のビール消費量は、ミュンヘン、モスクワに次いで世界第三位だといいます。
これは雪花ビールのビアガーデン
旅の途中の食事の際に飲んだ雪花ビールです。
雪花ビールは、中国の全国的なビール・ブランドで、現在中国で最も生産量が多いものになっています。中 . . . 本文を読む
ハルビンで一番の繁華街である中央大街は、ロシア語でキタイスカヤとも呼ばれます。
キタイスカヤは、中国街という意味です。キタイスカヤは、ハルビン駅と松花江の間にあり、駅前の鉄道附属地のための建築物資運搬路になると、中国人労働者が住みつき、それに伴いロシア人商人も集まって街が作られました。その結果、ロシアは、このキタイスカヤを鉄道附属地に組み入れて、街づくりを進めました。
現在は、ロシアや日本ゆか . . . 本文を読む
大連からは飛行機を使ってハルビンに戻ってきました。
ハルビンは、19世紀末までは、松花河の川岸にある小さな漁村でしかすぎませんでしたが、ロシアの遼東半島租借条約によって東清鉄道が敷設され、それに伴い都市建設が進められました。ロシア革命の混乱が収束した後は、ロシアの他に欧米や日本の商社の支点が置かれて、東洋の小パリなどとも呼ばれました。
満洲帝国の成立とともに、日本の支配下に置かれたことから、日 . . . 本文を読む
旅順観光もおおむね終わりましたが、あと数か所を見学しました。
旅順博物館に隣り合うように、関東軍旧址博物館があります。
1904年に完成し、1934年に新京に移るまで、関東軍司令部として使われました。
入場料が必要なため、中をのぞくだけですませました。重々しい造りです。
関東軍旧址博物館の前には、中露友誼塔が立てられています。
アコーデオンの伴奏で歌う男女の姿は、今は無きソ . . . 本文を読む
旅順の市街地中心部に、旅順博物館があります。
旅順博物館は、日本の統治下において、1917年に関東都護府満蒙物産館として開設されたものです。建物は、ロシア将校倶楽部であったものを改築して使いました。
当時の博物館は、日本の植民地から持ち込まれた収蔵品を展示する日本版「大英博物館」のようなものであったといいます。特に、大谷コレクションとして知られるシルクロードの発掘品は、重要な収蔵品になっていま . . . 本文を読む
白玉山塔は、旅順の街を見下ろす丘の上に立っています。
旅順は軍港で、ながらく一般旅行者の立ち入り制限が行われてきましたが、最近になって封印も解かれて、この白玉山塔も観光地としての整備がすすめられました。
白玉山塔のある丘の上への道路は幅が狭いため、マイクロバスに乗り換えるか、リフトを使うことになります。
白玉山塔は、日露戦争の終戦後に、連合艦隊司令長官東郷平八郎と陸軍第三司令官の乃木希 . . . 本文を読む
水師営は、一般的には、中国清朝海軍の隊員の駐屯地で、清国各地の港近くに造られました。
旅順港近くの水師営は、特に水師営会見所と呼ばれ、日露戦争中の1905年1月15日に、旅順港攻略戦の停戦条約が、第三軍司令官・乃木希典大将と旅順要塞司令官・ステッセル中将の間で取り交わされました。
当時は、野戦病院として使われていたもので、現在の建物は1996年に復元されたものです。建物の前には、記念写真の . . . 本文を読む
東鶏冠山堡塁見学の後に、203高地に向かいました。
203高地は、無名ピークだったようで、標高がその名前になったようです。
バスの車窓から203高地が見えてきました。右手のピークの木立が切れている所が、203高地になります。
上の写真を拡大したもので、山頂の記念碑が見えています。
バスは中腹までとなり。そこからは山頂まで15分ほどの登りになります。
足が弱くて歩けない人用には . . . 本文を読む
旅順は、日露戦争における旅順港の攻略戦の地として知られています。
日露戦争は、満洲と朝鮮の支配を巡って日本とロシアの間で勃発した戦いです。
両国の陸軍は、奉天(現瀋陽)付近で対峙しますが、旅順港に閉じこもったロシアの太平洋艦隊を壊滅させる必要がありました。ロシア海軍をそのままにすれば、日本の海上輸送が妨げられて、戦争の遂行に必要な補給が絶たれてしまいます。さらに、ヨーロパから回送してくるバルチ . . . 本文を読む
大連の街は、ロシアが都市開発したダーリニーが元になっているため、ロシア人街が作られていました。
現在は、ロシア人の居住地ではなくなっていますが、復元されたロシア人街が観光スポットになっています。
ロシア人街の入り口にある、ロシア風建物の大連芸術展覧棺です。
1902年に東清鉄道汽船株式会社として造られたロシア建築で、現在の建物は、1996年にレプリカとして再建されたものです。
同じデザイン . . . 本文を読む
大連のホテrは駅前で、夜に出歩くのに好都合の場所にありました。
宿泊した中山大飯店
中山広場を目指しましたが、その手前に友好広場(旧西広場)があります。その中央には、球状のオブジェが置かれていました。
球体の色は、刻々と変化しました。左背後には、ケンタッキー・フライドチキンの店が見えます。
中山広場に出て、まず眺めることのできる旧警察署(現遼寧省対外貿易公司)
昼とは違う . . . 本文を読む
日本が大連をロシアから引き継いだ後、大連の中心となるように設計されたニコライフスカヤ広場は、大広場と名前を変えられ、欧風建物の建築が続けられました。現在は、中山と名前を変えていますが、日本時代の建物は、政府の各機関や金融機関によって使われています。
中山広場を代表する建物としては、まず大連賓館(旧ヤマトホテル)が挙げられます。
大連では、ある程度の規模を持った耐火建築のみが永久建築と称され . . . 本文を読む