王宮の見学を終えて、旧市街広場で夜景見物を行うことにしました。
暗くなるのを待ちながら周辺を歩いていると、洗礼者ヨハネ大聖堂の前に路上パフォーマーがいました。古楽の分野の歌でしたが、ソプラノの美しい声が周辺に広がっていました。リュートに似ていますが、はるかに大型の楽器でした。
レストランの屋外席の灯りが次第に明るく見えるようになってきました。
空の色も次第に変わっていきました。
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夜景見物と夕食のために街に出ました。旧市街広場を目指すことにして、文化科学宮殿下を通り抜けた後、新世界通りに進みました。
新世界通りはレストランやカフェの並ぶ繁華街になっています。この通りは、聖十字架教会の手前でクラクフ郊外通りと名前を変えます。
再び王宮広場にやってきました。
旧王宮は木曜日で開館時間が20時まで延長になっていることから、入場することにしました。ショパン博物館に . . . 本文を読む
ワルシャワでは、マリオットに泊まりました。ワルシャワ中央駅の向かいにあるワルシャワ随一の高層ホテルで、ガイドブックでは最高級ホテルと紹介されています。
一般に、ツアーの最終宿泊日には、旅の印象を良くするために良いホテルを手配するといわれていますが、このホテルは立地と設備の面で満足のいくものでした。
クラクフからバスで運ばれてきたスーツケースも届いており、部屋に入りました。
窓からは、 . . . 本文を読む
王宮広場からクラクフ郊外通りを南に進んでいきます。
ロマン主義の詩人で愛国者のアダム・ミツキエヴィッチ像。1898年に、彼の生誕100周年を記念して建てられました。
カルメロ教会。
大統領官邸 (ラジヴィウ宮殿)。17世紀に建てられたこの宮殿は、1994年より大統領官邸となり「大統領宮殿」と呼ばれています。
1818年2月24日、8才のショパンは、初めて大衆の前で演奏し、宮 . . . 本文を読む
旧市街広場から北に進むと、16世紀中頃、旧市街を囲む市壁を強化するために建設さたバルバカンが現れます。ここのバルバカンは、バロック様式の砦で、馬蹄形をしています。
両サイドに城壁が続くのを眺めることができました。
バルバカンを通り抜けていきます。
外側からのバルバカンの眺め。
バルバカンの外側は新市街地と呼ばれていますが、16世紀以来の古い歴史を持った地区です。
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シフィエントヤンスカ通りを抜けると旧市街広場に出ました。
広場の入口に昔の写真が展示されていました。
ワルシャワの街は、第二次世界大戦終了間近に、ナチス・ドイツ占領下のポーランドの首都ワルシャワで起こった武装蜂起であるワルシャワ蜂起の舞台になり、ナチスの報復もあって完全に破壊されました。戦後、以前と全く同じ姿に復元され、現在ではワルシャワ歴史地区として、世界遺産に認定されています。
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ワルシャワ中央駅からバスに乗って、ワルシャワ旧市街地に向かいました。
クラクフで別れたバスは荷物を載せてワルシャワに向かって走っている途中のため、別のバスが用意してありました。現地旅行会社は、煩雑な手配を良くやってくれていると思いました。
サスキ公園を通りかかりました。緑地の奥に見えているのは、平和を願って1925年に造られた無名戦士の墓のようです。
手前には、大きな十字架が置かれてまし . . . 本文を読む
クラクフでの見学を終えて、ワルシャワへ移動することになりました。人は列車で移動し、荷物はバスで運ぶことになりました。列車を利用すれば、バス移動の半分の2時間半ほどで済むので、その分を観光に回すことができます。
Kraków Główny(クラクフ本駅)から列車に乗ることになりました。
駅舎はショッピングセンターが併設されており、鉄道部門の方が片隅に追いやられてしまっているという感じです。
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再び長い階段を下ることになりました。ピスコヴァ・スカウの間にあるこの階段は17世紀に造られたとのこと。
下っていったクネグンダの間には、19世紀頃に造られた妖精像が置かれていました。
聖十字架礼拝堂。事故が起きないように願いを込めて19世紀に造られました。
ヴィエリチカ岩塩抗の最大のみどころの聖キンガ礼拝堂が現れました。101.4mの深さに造られています。
岩塩 . . . 本文を読む
アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の見学を終え、午後はクラクフの南東約15kmのところにあるヴィエリチカ岩塩抗を訪れました。ダークツーリズムを避けるわけにはいきませんが、通常の観光の方がやはり楽しいですね。
ヴィエリチカ岩塩抗は、廃坑になっていない岩塩坑としては世界最古のものになっています。
数が増えすぎていまや陳腐化しつつある世界遺産ですが、ヴィエリチカ岩塩抗は、1978年に初めて制 . . . 本文を読む
ビルケナウ強制収容所は、アウシュヴィッツ強制収容所の西2kmほどのところにあります。二番目の強制収容所として、さらに大規模の絶滅施設として建設されました。
駐車場から正門目指して歩いていきます。
被収容者は、鉄道で運ばれてきました。
このゲートは、多くの映画で、強制収容所のシンボルとして登場しています。
正門の塔に上がると、広大な強制収容所を見渡すことができました。鉄道の引き込 . . . 本文を読む
11号棟、「死のブロック」。
収容所内の刑務所として使われていました。
陰気な廊下が続いていました。
入口付近は、当直の親衛隊員の詰所が並んでいます。
被収容者の待遇とは大違いです。
ここで、多くの者が有罪として死刑を宣告されたのでしょう。
洗面所。
銃殺の前にここで服を脱がされました。
絞首台。
この棟の地下には、飢餓牢、窒息牢、立ち牢があります . . . 本文を読む
建物の外に出ると、ほっとひと息付くことができました。
5号棟に入りました。「犯罪証拠」というタイトルが付けられています。
被収容者から押収した衣服の山。
鞄。名前を書いた持ち主は、収容所で命を落としたのでしょう。
靴。
靴紐は全て抜かれており、再利用されたようです。
押収した食器類。
続いて6号棟。「囚人の生活」というタイトルが付けられています。
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7日目は、午前中にアウシュヴィッツとビルケナウの強制収容所、午後にヴィエリチカ岩塩抗を見学することになりました。
気分の滅入る負の遺産の見学を望まない者はクラクフにて自由行動を選択することもできるようになっていましたが、ツアーの全員がアウシュヴィッツに向かうことになりました。
ドイツによるアウシュヴィッツ強制収容所は、クラクフの西54kmのオシフィエンチムの町にあり、現在では博物館になっていま . . . 本文を読む
クラクフ市街地や近郊へと移動する際に、ヴィスワ川越しのヴァヴェル城の風景を何度も見ることになりました。
ヴァヴェル城は、11世紀より歴代ポーランド王の居城として使われ、歴代の王が増改築を行い、敷地内に王宮や大聖堂が造られました。16世紀に首都がワルシャワに移された後も、国王の戴冠式はヴァヴェル城で行われてきました。
中央広場から歩いてきて、王宮へと坂道を上がりました。それほどの高度差は無い . . . 本文を読む