さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
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さすらいの風景 トルファン(吐魯番) その4

2010年06月13日 | 海外旅行
トルファン二日目の観光は、まずは高昌故城の見学から始まりました。

高昌故城は、トルファンの街の東40kmほどのところにあります。

漢代に、高昌壁や高昌塁と呼ばれる軍事要塞が築かれ、その後西域地方への中国王朝の支配が及ばなくなるとともに、漢民族の支配する小王国として発展していくことになります。

高昌故城は、周囲5kmで、外城、内城、宮城が設けられています。

場内は広く、入り口からはロバの牽く馬車に乗って中心部に進みます。



道の脇には、崩壊が進んだ壁が立ち並んでいます。



人工物であることは判りますが、砂漠の砂に削られて、風化が進んでいます。





ロバは、六人の客と御者を載せた馬車を勢いよく引っ張っていきます。あらかじめ、ガイドイから砂埃防止のためのマスクが配られましたが、先頭の馬車に乗ったため、埃は気になりませんでした。



中心部近くで馬車を下り、整備された歩道を歩いていきます。

猛烈な熱気が襲ってきました。高昌は、その音から火州と呼ばれていたといいますが、そう書いた方があてはまる暑さでした。



背後を振り返ると、廃墟の背後に火焔山と雪をいただいたボゴタ峰が見えて、荒涼とした印象をさらに強めていました。

かつて、この地に派遣された中国の兵士は、どのような思いで風景を眺めたでしょうか。







比較的建物の構造が残っている所もあります。



かなり大きい建物があったようで、往時の賑わいを想像することができます。





遺跡の中心部にある寺院跡です。



壁だけが残っています。



その脇にあるのは講堂。

唐の玄宗皇帝の時代、玄奘三蔵法師は、インドへ仏典を求めて向かいます。国禁を犯して旅に出た玄奘法師を、高昌国の国王は暖かく向かい入れ、そのまま滞在するように薦めます。インドへの旅を使命とする玄奘三蔵法師は、2ヶ月の滞在の後に、再び旅に出ますが、「インドからの帰りには寄って、説法をする」という約束を国王とします。玄奘三蔵法師がインドから帰国の時には、高昌国はすでに唐によって滅ぼされており、そのためトルファンには寄らず、西域南道を通って唐へ帰国することになりました。

玄奘三蔵法師にまつわるこのエピソードによって、西域の小さな国の高昌国は、歴史に名を残すことになりました。

玄奘三蔵法師が、高昌国滞在中に説法を行ったのが、この講堂です。



講堂の内部。装飾品は失われています。

西遊記でおなじみの三蔵法師が、身近なものに感じられてきました。



寺院の回りを一周します。










寺院の壁の窪みには、仏像が飾られていたといいますが、現在では失われています。

唐の勢力が衰えるとともに、ウイグル族の勢力下に入り、さらにイスラム信仰圏に入飲み込まれたことが、寺院の荒廃の原因になっています。



窪みには、仏像の背景絵の跡が現在でも残っています。

高昌故城は、赤茶けた廃墟が彼方まで広がって、砂漠の幻想に引き込まれそうになりました。
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