彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

左内公園

2020年09月21日 | 史跡
幕末の福井藩は松平慶永(春嶽)が多くの人材を求めたことから様々な才能を持つ人物が登場しますが、その礎となる人物が橋本左内です。

始めは藩医になるために大坂の適塾で学び、藩医になったあとに政治に惹かれて慶永の側近となりました。
その頃、慶永は一橋慶喜を将軍にするように工作し、左内は春嶽のために動き、西郷隆盛や梅田雲浜らと密談を重ねますが、井伊直弼が大老に就任し徳川慶福(家茂)が時期将軍に決定し、直弼による安政の大獄が断行され、梅田雲浜は捕らえられ、西郷隆盛は亡命の末で島流し、慶永は隠居(こののちに春嶽を号します)、そして左内も捕らえられたのでした。

左内は一橋慶喜擁立の働きを慶永の命によるものであると証言しますが、これが直弼の怒りを買い(主を庇わない姿が封建制度に合わない)遠島だった刑罰を死罪に変更させ、その刑が執行されたのでした。

その橋本左内の墓があるのが左内公園です。






左内の像や


著書『啓発録』の碑もあります。


また、公園内には松尾芭蕉が『奥の細道』の旅で宿泊した洞哉(等裁とも)の家があったと言われています。



芭蕉が江戸で知己を得て、どうしても会いたいと訪ねたそうですが、夕顔や糸瓜が絡むような古く小さな家で夜は近くのお堂の建て替えで出た木片を枕に眠ったそうですが、芭蕉はここに二泊したのち洞哉を連れて敦賀に向かっていますので、芭蕉にとってかけがえのない人物だったのかもしれません。

由利公正宅跡

2020年09月20日 | 史跡
北庄城近くの幸橋麓には由利公正宅跡があります。

本来の跡地は無くなったみたいです。


公正は江戸時代には三岡八郎と名乗っていて、福井藩主松平春嶽(慶永)の側近でした。
藩札の発行などの経済政策を行いますが、一時期藩内の騒動から謹慎処分を受けたのです。

謹慎中の文久3年(1863)5月、坂本龍馬が勝海舟の使いとして春嶽に会いに福井を訪問したとき、横井小楠の紹介て由利邸を訪れました。
小楠自身、前年12月の士道忘却事件で外出自粛中であったために福井に留まっていました。
このタイミングで公正、小楠、龍馬の三人が時間を気にせずひとつ屋根の下で議論を交わせたことは幕末史の奇跡としか言いようがありません。

龍馬は、ここで有名な「君がため 捨つる命は惜しまねど 心にかかる国の行末」の歌を詠んだと言われています。




邸宅跡近くには公正の像も建っています。




小楠は維新後すぐに暗殺されますが、公正は維新後に五箇条の御誓文起草をし、太政官札の発行など経済政策の要となります。
そして有隣生命保険(後に明治生命と合併)初代社長に就任するのです。

北庄城(柴田神社)訪問

2020年09月19日 | 史跡
福井城以前、福井市内に建っていた巨大な城といえば北庄城でした。
織田信長の重臣筆頭で猛将・柴田勝家が北陸侵攻の拠点として築城しました。
本能寺の変のあと、信長の妹お市の方が勝家と再婚し、お市の方と浅井長政の間に生まれた三人の娘(茶々、初、江)も北庄城に身を寄せたのです。

しかし、賤ヶ岳の戦いで勝家は敗北。
城を囲んだ羽柴秀吉に三姉妹を預けた後に勝家とお市の方は城に火を放って自害しました。

城跡には勝家夫婦を祀る柴田神社が建立されています。

供養碑や

勝家、お市の方、三姉妹の像があり






発掘された北庄城の石垣も見学できます







北庄城が落城したのは4月24日と言われていますが、その日の夜に城近くの九十九橋では首の無い甲冑武者行列が渡ったと言われていますが、そんな九十九橋は石と木が半々で出来た珍しい橋だったそうで境内に再現されています。


柴田神社の御朱印帳は幾つかの種類がありますが、「甕割り柴田」の二つ名を描いた物はカッコいいです。

神社の御朱印や、

北庄城の御城印も受けることができます。


福井城訪問

2020年09月18日 | 日本100名城と続100名城
青春18切符を使って、彦根から日帰りでどこまで行けるか?
ただし、ただ行くだけではなく最低3時間は滞在して史跡をひとつ以上観て、食事ができることを条件とする。

と、勝手に定めて18切符が余るとJRに乗り込みます。
西は香川県高松市なら余裕
東は浜松や掛川辺り
そして、今回は北を目指しました。

ただし、福井市で新田義貞討死の地(9/3に書きました)に行きたかったので純粋に日帰りできる北限を目指すわけではありませんでしたがその分史跡を色々廻りました。

まずは、福井駅を降りて福井城を目指します。
今は県庁になっていますので、庁舎が堀に囲まれた不思議な光景を目にします。



結城秀康像に出迎えられて奥に進むと天守台です。


まずは「福井」の地名の由来となった井戸を見学します。



井戸の隣には昭和23年(1948)の福井地震で崩れた石垣を見ることができます。




他の石垣にもズレがみられますが、この辺りの石垣は切り込みハギという隙間がほとんどないように加工された石を積んでいるため、いわゆる遊びがなく、地震などの大きな力でズレてしまうのは仕方ないことなのかもしれません。






天守台から西に向かうと、山里口御門が再建されています。
以前訪れたときは堀に架かる御廊下橋のみが再建されていたのですが、門や櫓も建っていて立派になった気がしました。






その近くには、福井神社があります。



松平春嶽が椅子に腰掛けた像に出会いました。

ここの御朱印は毎月デザインが変わるそうです。
九月のデザインの内で、名月と彼岸花の御朱印を受けてきました。



福井藩は様々な場面で彦根藩と因縁がある藩のひとつですが、幕末維新のとても大切な地域のひとつでもあるのです。

白玉とゴボウの味噌汁

2020年09月17日 | 博物館展示
文久3年(1863)10月7日に彦根藩主井伊直憲が朝食で食べた「白玉とゴボウの味噌汁」を作ってみました。

2005年に彦根市のイベントで大名の食事を再現していたことがあり、そのときに試食した朧げな記憶はあるのですが今回別件で醒ヶ井餅が話題になり、前の投稿をみて作ってみようと思いました。

参考資料は、彦根城博物館の図録




とは言っても、普通に白玉とゴボウを具にしただけの味噌汁です。
彦根なら白味噌の可能性もありますが、井伊家はたぶん赤味噌かな?

イベントを報告した以前の記事

ざっくり玉子サンド

2020年09月17日 | テーマ日記
5枚切りの食パンを半分にして、中に詰められるように切ってから軽くトースト。

玉子とサニーレタスとウィンナーを詰めて、簡単な玉子サンド

こだわりと言うわけでもないですが、パンで挟むのではなく、真ん中を切って詰める方が食べ易い気がします。

『光秀と京〜入京から本能寺の変〜』

2020年09月16日 | 博物館展示
京都御所に高御座を見学したあと、今出川通を西陣まで移動して、京都市考古資料館に向かいました。
大河ドラマ『麒麟がくる』に合わせて明智光秀や本能寺に関する出土物が展示されています。

本能寺の瓦などや










光秀が足利義昭を守った本圀寺からの出土物など







ここは、京都市の発掘物が早い段階で展示されるので注目している場所のひとつですが、人骨も当たり前のように置いているときもあり驚きます(今回もありました)。

また、光秀展示とは別に古代の疫病退治に使われたと思われる顔が描かれたユニークな土器も展示していました。






京都御所で高御座見学

2020年09月15日 | 史跡
今上天皇陛下が即位された時に使われた「高御座」と「御帳台」は、昨年東京国立博物館で公開されていて今年の三月に京都御所で一般公開されるはずでした。
しかし、新型コロナの流行により三月の公開は中止となりました。

しばらくは次の情報を待っていたのですが、夏の第二波もありもっと先になると思っていたのですが偶然8月27日までの公開であることを知って、最終日に京都御所に向かいました。





炎天下の平日、最終日、コロナ第二波真っ最中、という悪条件のためか普段観に行く京都御所の一般公開でも考えられないくらいの人の少なさ。











メインで本来なら「立ち止まらないで観て下さい」とのアナウンスもありそうな紫宸殿前にいたのも警備の方を除いては僕と彼女だけという贅沢な空間でした。









そこでゆっくり高御座と御帳台を観ました(遠くでスマホ写真ではあまり綺麗に写らず…)





高御座は天皇陛下、御帳台は皇后様が、天皇陛下即位の儀式において御座とされる場所に置かれる調度品で高御座は古代より、御帳台も平安時代からあるものですが即位の儀式でつかわれるようになったのは近代になるそうです。
今の高御座と御帳台は大正天皇の即位で使われた物とのことですから、100年以上の歴史があり、大正、昭和、上皇様、今上天皇陛下の四代の即位を見てきたことになります。

他にも、小御所では即位の儀式で使われた道具「威儀物」






衣装



も展示されていました。

そして、暑いながらも急かされずゆっくり京都御所を見学できたのは良い時間になりました。

高御座の御朱印も受けることができました。




櫻井驛跡訪問

2020年09月14日 | 史跡
JR京都線に乗っていると、通過する島本駅の近くに大きな石碑が建っていることが気になっていました。
掛川、浜松旅行の翌日、京都に予定があったのですが少し時間ができたので気になる石碑を見学に行きました。





すると、そこが櫻井驛跡でした。





『櫻井の別れ』と言えば、戦前は知らない人の方が少ないくらいの有名な逸話でした。

延元元年(1336)9月16日、新田義貞への援軍のために京から兵庫へと向かっていた楠木正成は櫻井驛に到着すると息子正行を呼びます。

正行がやってくると、「お前は、2000の兵を連れて河内に戻れ」と命じ自らは700を連れて兵庫で討死する覚悟だ」と語ったのです。
正行はそれに否を唱え自らも共に戦い死ぬと訴えたのでしたが、正成は自分に成り代わって後醍醐天皇に忠誠を尽くし朝敵を討つように諭して、後醍醐天皇から下賜された菊水の紋が入った短刀を渡したのでした。
この場面を表した像もありました。

その翌日、死地向かう700人が2000人を見送り、楠木父子も永遠の別れとなったのです。

楠木正成は、南朝の英雄でしたが土豪の出身であったために南朝の公家たちからは冷たく扱われていました。
同じ武士でも足利氏と出自が変わらない新田義貞の方が信頼されていたのです。
しかし、義貞は足利尊氏を敵対視するばかりで尊氏と協力する考え方はなく公家たちもそんな義貞を頼りにします。
対する正成は、義貞が播磨に出陣している間に尊氏との和解か、京に尊氏を誘い込んで討つ洛中決戦の戦略を後醍醐天皇に謀りますが天皇も公家もこれを拒否して正成に義貞への援軍を命じたのでした。
櫻井の別れはこの行軍中にあったとされています。この時の正行が11歳だったと伝えられてきたためにその健気さも重なり涙を誘う場面になっていますが、寧ろ11歳の子どもを行軍に加えてる父親ってどうなの?という考え方や、正行はもっと大人だった説、そもそもこの話がなかった説なども出てきています。

しかし、南北朝時代から昭和初期までの長い時間、楠木父子の物語とその舞台は日本人に愛されて続けていたのです。
明治時代には、英国公使ハリー・パークスもこの話に感動して英語で石碑を刻ませています。








掛川城下をウロウロ

2020年09月13日 | 史跡
掛川城を訪問した目的は、以前にも書きました掛川藩士青木権之丞を調べるためでした。


限られた時間の中でしたが、権之丞が実在したことなどはわかったことで一定の満足感は得ています。

そんななかで、城下町を少しだけ歩きました。
掛川古城やオランダ語が刻まれたお墓もその一環でしたが


他に観たところとしては、復元された城の大手門




その脇にある山内一豊が勧進した三光稲荷


江戸初期の掛川藩世子・松平定吉を供養した「遠江塚」










鏡を見て、「俺ってなんてイケメンなんだ」と言った三代目尾上菊五郎の墓







に行きました。
他にも行きたい場所はありましたが、時間と移動距離と注目ポイントを考えての訪問となりましたが、たくさんの興味と学びがある浜松・掛川訪問でした。

往復の列車のなかで相棒イムと一緒に見た浜名湖も綺麗でした。