晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 金閣炎上-1 12/2

2014-12-02 | 雨読

2014.12.2(火)曇り

 亀嵩(かめだけ・島根県)を訪ねて「砂の器」を読み、木津温泉(きつおんせん)のゑびすやさんに泊まり「Dの複合」を読んだように、高野(たかの)の分教場跡を訪ねて「金閣炎上」を読んだ。小説の読み方としては最高のパターンである。小説だけでなく中原中也の誌に会うために湯田の高田公園(現在は井上公園というらしい)を二度も訪ねている。

亀嵩にはこんな碑も建っている。(2007.4.23訪問)高田公園は1975年春にも訪れたが随分様変わりしている、この詩碑も当時のものとは変っている。(2007.4.11再訪)
 分教場で教鞭を執っていた水上勉(私)が金閣寺放火犯となる林養賢に出会ったのは、昭和19年の八月初め、杉山峠から北へ少し行った茅っ原だという。水上先生がこの本を書かれる発端はこの杉山峠での出会いにあったと思う。
高野分教場の跡(高野小分校跡・高浜町)
 もちろんその時には林少年と同行していた、先生の小僧時代の知己、滝谷節宗と出会ったことがきっかけであり、吃音の中学生にはさほど注意することも無かっただろう。ところがその6年後、金閣寺炎上のニュースが入ると、その放火犯が峠で出会った少年だと知ると、それはもう単なる偶然ではなく、因縁めいたものを感じられたに違いない。そしてその後に三島由紀夫の「金閣寺」が発行されて爆発的に売れる。それを見て、水上先生は多分「林養賢の放火の原因は違うところにある」と考えられたのではないだろうか。ただしこれは私のげすの勘ぐりである。「金閣寺」を読んだこともないし、水上先生がそのようなことを書いておられることもない。
 しかし、杉山峠での出会いがひとつのきっかけになっていることは確かであろう。「金閣炎上」はこの出会いのシーンから始まるのである。
 杉山峠に是非とも行ってみたくなった。ところが地図上には杉山峠の表示はない。杉山の集落は松尾寺の北方1Km余りのところにある集落で、杉山峠と言うからにはこの集落から取り付く峠に違いない。「金閣炎上」の最初の数ページを何度も読み直して、どうやら杉山から北に山中に越える峠だろうと想像する。この峠に行けば高野分教場の児童達が岬を望んで、鹿が寝ているようだといったのが解るのだろう。

【作業日誌 12/2】柚大根再度挑戦
これだもんね!

【今日のじょん】じょんは曜日が解るか?
 木曜日の夕方、レジを開けると「ワンワンワン」と吠え出す。お豆腐屋さんが来るので代金を出すために開けるのだが、どうやらお豆腐屋さんが来るのが解っているらしい。そりゃあ単なるじょんけん反射でしょといわれるかもしれないが、レジは何度も開けるものなのにその時は別に知らん顔しているわけだ。木曜日が解ってるのだろうか。ちなみにレジを開けるのは、お豆腐屋さんが来てからではなくて、何十分も前から開けて用意しているのだ。空っぽのレジを公開するのは恥ずかしいのだが、防犯上の効果はあるかもしれない。

 

コメント (2)
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