晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 わが六道の闇夜 12/29

2014-12-29 | 雨読

2014.12.29(月)曇り、雨

 林養賢がなぜ金閣を焼いたか、そんな謎に迫りたくて「金閣寺の燃やし方」( 酒井順子著)「雁の寺」(水上勉著)につづいて、「五番町夕霧楼」と同時に読み始めて、あっという間に読んでしまったのが本書、「わが六道の闇夜」(水上勉著)である。
 
 読売新聞社昭和48年11月10日第四刷 古書
 実は「金閣炎上」を読み終えたときから、林養賢の心の闇については気付いていたことがある。「金閣炎上」のあとがきに水上先生の次の言葉がある。
 だが、本当のことはいまもわからない。当人が死んでしまっているのだからわからない。しかし、いろいろと周囲のことを調べ、事件にかかわった人から話を聞いていくうちに、私なりの考えがまとまっていったことも事実である。
 わたしは養賢が生きていても本当のことはわからないと思っている。養賢自身も本当のことはわからないのではと思っているのだ。このことは詳しく表明するのは時期尚早なのでいずれ別稿で書きたい。
 「雁の寺」の小僧滋念が幼い日の水上少年を表しているとすれば、林養賢に自らの姿を見つけたというのは当然の成り行きである。ただ、水上少年と林養賢の思いのすべてが同一であったとは思えない。
 滋念は小説の中の人間なので、本当の水上先生の少年時代を知りたいと読んだのが本書である。
 林養賢、滋念、水上少年の共通項はと考えると、独りよがりの正義感を持っただだっ子と感じるのだが、これは失礼だろうか。三人の師はそれぞれに渡世の垢に汚れた人物となっているが、仮にその師が仏道にまっとうな人物であったら、彼らは素直に立派な住職となったであろうか。答えは否である。
 滋念は小説上の人物であるのでともかくとして、金閣寺の慈海住職が養賢に制服も買い与え、参拝客の拝観料から充分な小遣いを与えたとしても、養賢は金閣寺を焼いたのではないだろうか。同じように瑞春院や等持院の住職が妻帯することもなく、ひたすら仏道に生き、水上少年を立派な禅僧に育てるべくふるまったとしても、水上少年は僧坊を脱走、還俗して小説家になったのではと思うのである。
 「雁の寺」などの解説として尾崎秀樹(おざきほつき)氏が書いている中に、
「子どもの時のイメージをそのまま小説に移したもので、僕の心にたまりたまった四十年間のウラミツラミを吐き出し、復讐するのが目的でした。云々」とある。
小説の中で、滋念は慈海和尚を殺害し床下に隠すのだが、これが水上先生の復讐であるとしたらなんとも凄絶な話である。修業時代の住職のあり方が、それほどまでにウラミツラミを四十年間も引きずるものだろうか。
 水上先生はこの言葉については、かなり誇張して話しておられるのではと思う。それは「わが六道の闇夜」の最終章、第九章を読めば理解できる。この章はタイトルをつけるなら、「悟りの章」であり、次の文こそ水上先生の悟りではないだろうか。悟りとは絶対無二のものではなくて、一人ひとりに存在する人生の結論のようなものだと思う。
 「五十四歳のアタマでわかったことは、寺院にも守銭の夜叉が住み、弁天が住み、俗界にももちろんそれは住み、世は、不浄と不倫にみち満ち、といって世は枯れるものばかりか、そこここに季節がくれば花の咲く木も草もあるということである。そうして、人間は生きている以上、花を求めてこの濁世をはなれることは出来ない。西方浄土などはなくて、永遠にここは地獄である。それなら、地獄の泥を吸って滋養となし、私は永生したい。」
 寺院に住む守銭、不浄、不倫、つまり不条理なものを憎みつつも、それは常にあるものとして諦観されているのではないだろうか。
 そう考えてみると、「金閣寺の燃やし方」にある、
「慈海師の、そして日本の禅宗、ひいては仏教界を「正したい」と思っていたのは水上であり、その思いを養賢に託したのではないか。」(2014.12.13参照)という酒井氏の見方もやや大仰かとも思うのである。

【今日のじょん】今年最後のスイミング、もっともじょんは車で待っているのだが、その前の芝生の広場での散歩が楽しいのだ。

 
 

 

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