2014.12.20(土)雨
「雁の寺」を読み終えたとき、金閣寺と同じではないかと感じた。林養賢と金閣寺の慈海、滋念と孤峯庵の慈海、前者は寺の放火、後者は殺害という事件となった。前者はノンフィクションで後者はフィクションである。
杉山峠の出会い 1944年8月(昭和19年)
金閣寺放火事件 1950年7月2日(昭和25年)
「金閣寺」発行 1956年(昭和31年)
「金閣炎上」書き始め 1959年?
「雁の寺」発表 1961年(昭和36年)
三島事件 1970年11月25日(昭和45年)
「金閣炎上」発行 1979年(昭和54年)
以前に書いた金閣寺放火事件関連の年表に「雁の寺」の発表を入れてみた。
「雁の寺」を発表される時には既に「金閣炎上」の構想は出来ていたのではないかと思う。水上先生と瑞春院の松庵和尚、滋念、林養賢と両慈海和尚、この虚実入り交じった葛藤こそが一連の作品のモチーフとなっているのではないだろうか。
「雁の寺」はフィクションの小説だから、とんでもない色欲坊主を描くことが出来る。ところが「金閣炎上」はノンフィクションを基本としているので事実のみを書く必要がある。そのために理解しにくい部分が出てくるのである。孤峯庵の慈海和尚は殺されても仕方のない人物に描かれているが、金閣寺の住職慈海は寺を焼かれなければならないほどの人物には見えない。ケチン坊で小僧に小遣いも与えない、養賢には自分のお古の学生服をあたえる、自分だけ酒を吞んで小僧にはろくなものを食べさせない、こんなことで寺を焼かれていたら日本中の寺は燃えてしまう。慈海師は水上先生の大嫌いな禅僧の妻帯もしておられない。辰ちゃんの事だって陳公博亡命の件だって目くじらたてていきまくほどのことではないように思うのだが、、。
水上先生は「金閣炎上」のあとがきに、「しかしいろいろと周囲のことを調べ、事件にかかわった人から話をきいていくうちに、私なりの考えがまとまっていったことも事実である。」と書かれている。「雁の寺」を読み終えると、実はこの頃既に林養賢と自分自身の共通項を見いだしておられて、その立証と確認のため事実を拾い上げられたのではないかと思えるのである。
「ブンナよ、木からおりてこい」は1972年(昭和47年)の「蛙よ、木からおりてこい」が元になっている。この鳶の餌の貯蔵所となっている椎の木は孤峯庵の庭にあって、てっぺんまで登って穴の中に蛇や魚や鼠がうごめいているのを見たと滋念は里子に話しているのである。
「雁の寺」がこれらの作品の元になっており、金閣寺住職の慈海という名を架空の孤峯庵にも使ったのはそれなりの意味があったのではないだろうか。
「雁の寺」「ブンナ」「金閣」みんな繋がっている、もちろん「五番町」も
【今日のじょん】昨日の高温と雨で一気に雪も解けてきた。途端に鹿の来襲である。足跡が残るので、頭数、サイズ、侵入径路がよく解る。じょんと一緒に探索する。頭数は東から二頭、西から二頭、西は親子。東は隣家お墓よこの林道から畑下の法面をトラバース、西は隣家裏庭からドッグランどよこの谷を飛び越え、芝生広場、帰り道不明。