晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

日置のこと(75) 続・川端先生に聞く 12/28

2014-12-28 | 上林地名考

2014.12.28(日)曇り

 もちろん先生はお客様としてこられたわけで、所用でこちらの方にいらした際に立ち寄られたということだ。コーヒーを差し上げた後おもむろに質問する。
「先生、なんで日置殿町(へきとのまち)が遊里(ゆり)に存在するのですか?」
「さあ、それがわからんのじゃが」
「日置殿は念道小山(ねんどうこやま)や西屋神谷(にしやこうだに)みたいに二つの村を合併した呼び方とまた違うんですか?」
「日置殿村は明治以降になされたものでなく、江戸時代から日置殿村という名であった。ひょっとすると戦国時代に遡るかもしれないと思っているんだ。」
「古文書など見ていると日置殿と遊里は明らかに別の村で、山論争も沢山起こっていますねえ」
「子ども時分に遊里の日置殿町についての言い伝えを学校の先生から聞いた。山論が盛んなとき、調停のために役人が派遣されてきた。その時に日置殿村は山林の境界争いを有利にするため、遊里の木住谷(きずみだに)の入口に「日置殿町」の看板を立てたそうだ。」
「先生、もっともらしい話ですねえ」
「いやあどうだか、大水の時はオダワ峠から木住谷の水があふれるとか言うようなことも言われていたんだよ」

大町から見た槍ヶ嶽(やりがずく)左の大きなコルがオダワ峠
 なぜ遊里に日置殿町があるのか川端先生も疑問に思っておられる。てことはその理由は分からないということだが、日置殿と遊里の日置殿町の中間に空想の産物、日置氏の観測地点があるということは、なんとかそこに理由を持っていきたいわたしの算用とは裏腹に、江戸時代の山論が遊里日置殿町の存在の理由のような気がする。
 というのは遊里、殿、馬場の三ヶ村入合山と日置谷、神谷、石橋の持山が連なっており、安永年間に複雑な山論が起きている。(綾部市史上巻P424)この複雑な所有関係が奇妙な地名の存在として残ったのではないだろうか。この山論に関しては川端先生が「綾部史談67」に論文を書いておられるので、後ほど調べてみたい。

遊里の日置殿町、木住谷は豊かな谷である。

 日置殿町の件はこのくらいにして、その他にも興味ある話が幾つかあったのでここで書いておこう。
  日の出の位置が頭巾山や君尾山になる位置があるとお話ししたら、
 「やりがずく(槍ヶ嶽)は行ったことはないが、経塚など遺跡があるかもしれない。ぜひ探してみて欲しい。」

 何鹿郡鋳物師井関氏が虫村の田中に来たという話を聞きましたが、睦志には田中という小字は無いのですが?
 「重一さんの文にある虫村田中というのは睦志の清水との境に田中さんという家が3件あり、その辺りだと思う。」

 栃や青葉山の山麓に集石墓があるのですけど?
 「大きいものなら経塚の可能性もある、上林にももっと出るだろう。」

 両墓制の研究を始めているのですが、念道の三昧のことはご存じないですか?
 「念道については知らない。鳥垣の奥の草壁との尾根に林の中に三昧の跡が幾つかある。」

 このほかにも聞きたいことはいくつもあるのだけれど、聞けば聞いたで新しい疑問が湧いてくるのできりがない。藤元善右衛門の墓と言われている宝篋印塔を見たいとおっしゃっていたので、春になったら是非ご案内したい。

有安の藤元善右衛門の墓と言われる宝篋印塔
【作業日誌 12/28】
パンフレットスタンド作成(子棚取り付け)

【今日のじょん】昨年辺りから気にしていたことが遂に起こった。破れかけのゴミ箱が荒らされたのだ。猫かはたまた小動物か?椅子タイプの頑丈なゴミ箱を作ろうと考えていたのだが、ついつい後になってしまってこのざまだ。とりあえず生ゴミは鍵付き箱へ。


 

 

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