晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

夜討ち解散朝駆け選挙 12/16

2014-12-16 | 日記・エッセイ・コラム

2014.12.16(火)雨

 何とも後味の悪い選挙が終わった。多くの国民が喉にものがつかえたようなすっきりしない気持ちで、テレビのニュース解説を見ているのだろう。この選挙を見ると2005年の小泉元首相の郵政解散、郵政選挙を思い出す。国会で否決された郵政民営化をごり押しするために総選挙を行ったものだ。国民はたまったものでは無い、郵政民営化の真意がなにか理解できる国民がどれほどいただろう。地方の郵便局が無くなりますよ、窓口のサービスが良くなりますよ、なんて民営化の本質には無関係な事柄が両陣営からささやかれて、結局訳の分からないままに選挙は終わり、郵政は民営化された。民営化されたいまでもその本当の意味は知らされていない。何年かたった後に、振り返るととんでもないことだったんだとわかる仕組みになっている。
 小泉元首相の「郵政民営化論」を読んでみると、彼自身の私恨のように見えるが、それは本質を隠すカモフラージュかもしれない。郵政民営化のキーは民族資産とも言える2百数十兆円のゆうちょ、簡保資金だろう。
 そんな誰にも解らないことをイエスかノーで答えさせて、国民の真意だというのだからこれはペテンである。
 小泉元首相は先の東京都知事選で、原発政策について自らが過ちを犯していたという風に述べていたが、郵政解散選挙はそれ以上の過ちであると思う。
 今回の解散総選挙もそれと同様だ。一体何が争点なのか、なぜ解散総選挙をするのか国民が解らないままに投票日が来る。
 アベノミクスの成果を問うなら経済指標を見れば済むことである。また、「消費税を10%に上げることを予定より1年半繰り下げて実施するからには国民の真意を問わねばならない」というようなことを言われていた。国民がイエスといえば1年半先に上がる、ノーといえば予定通り来年上がると言うことだろうか。いずれにしても国民を馬鹿にしたペテン解散総選挙である。大義の無い、策略だけの解散総選挙に夜討ち解散、朝駆け選挙と名付けたい。
 今回投票率が大幅に減った。その何百万か何千万かの票は安倍政権への批判票である。批判のために棄権することが、逆に相手を利するという現実は、主権者たる国民としては哀しいものである。

暗闇の投票所、いつの時もたった一人の投票である。

【今日のじょん】
今日は終日冬物、正月用品の買い出しに行って、じょんはお留守番。一日寝てたのかな

宝くじ当たったらえーもんこうたるぞ。

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そう、縄文 12/15

2014-12-15 | 上林たんけん隊

2014.12.15(月)曇り

 さて縄文に興味のあるイワンのお客様って誰だろう。「薬を使わずに治す うつ」で有名なみやじっち先生だったのだ。先生がイワンで講演をされるというのは新聞等で聞いていたのだが、まさか縄文大好き人間が宮島先生だとは驚きである。
 初めてお目にかかって「おお、縄文人だ!」あごひげが濃いからそう思うのか、いやいや顔の骨格といい、体つきといい、縄文人ぽいところがうれしい。

みやじっち先生は薬を使わない精神科医、メンタルセラピー。
 さっそく葛禮本神社に行く、祠に祀られた石棒はいつ見ても同じものなんだが、その内容を資料館報で読んだ後では見方が違う。笠形二段のタイプの石棒は近畿でも7例とある。しかも破損がなく完形品であることが大変貴重なものらしい。
 問題はこの石棒がどこから来たものか、どの時期に来たものかということである。上林の地域で作られ、上林に居住する縄文人に使用されていたということを期待するのだが、なんとも難しい問題である。

宝鉾社の石棒を眺める。
 同形の石棒は兵庫県城崎郡竹野町(現在豊岡市竹野町)の見蔵岡遺跡で見つかっており、どこかで生産され運ばれたとも考えられる。縄文期の流通というのは我々の想像以上であることを確認したい。
 石棒の材質について、福知山高校の小滝先生の分析があるが、岩石名を推定するのは難しいということである。この石材の産地はまだ発見されていないということである。また現在発見されているどの石棒とも違う材質だということだ。
 上林における縄文期の出土品は、他には戸倉中町の石刀などがあるが、これらはある程度まとまって工事中の土中から発見されているので、縄文人の居住が予想される。しからば浅原の石棒も他所から移入したものであっても縄文人が使用していた可能性はあることだし、上林で同一石材を発見すれば将に大発見となるわけだしわくわくしてくる。今度小滝先生に会うことが出来たらもう少し詳しくお聞きしたい。
 みやじっち先生は縄文の石棒だけでなく、盃状穴や飯盛山などにも興味を示され、時間があればもっともっとお話したかった。大型石棒ならぬ大型大根も見ていただいて楽しい数時間だった。

石棒にも負けない我が家の大根を見学

【今日のじょん】向かいのススキ原に鹿が走り回っている。カメラを向けたら姿を隠してしまった。

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えっ、縄文? 12/14

2014-12-14 | 上林たんけん隊

2014.12.14(日)曇り

 「縄文時代に興味のある方が来られるので、何か良いところはないですかねえ」とイワンさんに相談を受けたのは1ヶ月前ぐらいだろうか。綾部周辺で遺跡として残っているのはやっぱり古墳時代以降だろうなあと思いつつ、綾部市資料館を訪ねる。ちょうど特別展「縄文奇妙奇天烈 弥生摩訶不思議」展が開催されていた。8月に丹後郷土資料館を訪れたとき、綾部なら是非訪ねるようにと言われた三好先生がおられたので、縄文遺跡について尋ねてみる。

 東北や北海道に見られるような縄文遺跡は綾部周辺には見られないということであった。ところが特別展での展示物を始め、あちこちで縄文期の遺物が出土しているのだ。つまり縄文人は西日本においては大集落を形成することはまれで、かなり疎に分布していただろうというどこかで読んだ説がそのまんまのようである。しからば我が家の近くにある大型石棒を見ていただこう。
 この石棒は睦合町浅原(あずら)にある、葛禮本神社(くずれもとじんじゃ)の境内社栄鉾社に祀られている。何度か紹介しているのだが(2013.2.5他)縄文時代のものというだけで詳しいことは解らなかった。まあ見ていただくだけでいいのかなと思いつつ、資料館を出ようとすると玄関のパンフレット棚に「綾部市資料館報第6号」という冊子があり、例の石棒の写真が表紙にデンと載っている。早速購入して中身を見ると、先ほどの三好先生の手になる調査報告である。

葛禮本神社は我が家から1,5Km、念道の一部も氏子圏となっている。
 全長95.3cm、最大径18.1cm、重量57.5Kgの大型石棒で、頭頂部は笠形二段の形状をしている。この形状のものはすべてが出土品で、一般の目につくことはまれであり、後世に模造品を造ることは考えにくい。また民間信仰の対象として陽物を形取って祀る場合はもっと写実的に作られており、このような形態をとる必然性に乏しい。近隣に同様の石造物を祠に祀る例は見られない。などという理由から、縄文時代に作られた石棒である可能性が非常に高いということである。
 石棒というのは東北、北海道の縄文遺跡からは大量に出土しており、金精さまなどの民間信仰もその地方に多い。
 関西では飛鳥に遠足に行ったときに奉納されているのを見たことがあるが、それが飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)であったかどうかは定かでない。岡山県高梁市で金精神社に巡り会ったが、これは東北から勧請したものと言うことだった。確かに民間信仰の陽物は三好先生の言われるとおりリアルである。つづく

 
高梁市の金精神社、右は遠野市の金精さま、縄文時代の石棒とは明らかに形状が違う。

【作業日誌 12/14】終日薪割り

【今日のじょん】とりあえず今季最大?の積雪。すぐに融けてしまった。上林川きれいでしょ、寒いけど、、、、。

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雨読 続・「金閣寺の燃やし方」 12/13

2014-12-13 | 雨読

2014.12.13(土)晴

 さすがに人気のエッセイストだけに真摯な調査と鋭い分析をしておられる。雨読「金閣炎上」では、水上先生が20年も掛けて調査し執筆された作品に対して評は出来ないと書いたが、本書は見事に評されていて、私の思いと同じところがあり実に驚いている。本書であからさまに評されている以上、私の思いを伏せておく必要は何も無い。
 「金閣と一緒に死ぬことによって、養賢は師をただそうとしたのではないか、という水上の考えは、同情のあまりその行為を美化しすぎているように思えます。養賢は、慈海師が自らの行為によって困ればいいとは思ったでしょうが、自らの生死を賭して師を正しい道へ、といった特攻精神までは、持っていなかったのではないか。と言うより、慈海師の、そして日本の禅宗、ひいては仏教界を「正したい」と思っていたのは水上であり、その思いを養賢に託したのではないか。」
(金閣寺の燃やし方 p238)

「金閣炎上」「金閣寺の燃やし方」どちらもじょんのび店内にあり(貸出可)

 この部分こそ「金閣炎上」を読んで隔靴掻痒の思いでいたところである。「金閣炎上」を読む限り、慈海師は寺を焼かれてまで反省しなければならないような人物ではないのだ。「金閣炎上」の最後の部分に、炎上の日の前夜に養賢と碁を打っていた江上大量師を佐波賀のの養徳寺に訪ねているところがある。
「わしにはただ、あの子が死にたかった気持ちが・・・・いま透けるようにわかるんですよ」
「というと金閣寺への反感からですか」
「もちろん、あの和尚さんでは、反感もありましょう。ケチン坊で、自分は肴を仕出し屋からとって酒を吞んでおって、小僧らには小遣銭もろくに渡さん人でしたから、反感は当然でしょう云々」
 ケチン坊というのは随所に出てきて、大学に行く学生服を養賢に買ってやらずに、自分のお古を与えたという話はよく出てくる。しかし住職自身は妻帯もせず、質素で禅僧らしい生活なのである。戦争前後の時代に大学まで行かせてもらって一般世間から見れば贅沢にさえ思えるのだが。
 水上先生が小僧時代に体験した悲惨な経験や矛盾から禅宗や仏教に対する批判が様々な作品に現れているが、それをそのまま養賢と金閣寺或いは住職慈海師に当てはめるのは無理がある。それが「金閣炎上」を読んだときの隔靴掻痒の思いなのである。
 ただ、水上先生もあとがきのなかで、「だが、本当のことはいまもわからない。当人が死んでしまっているのだからわからな。しかしいろいろと周囲のことを調べ、事件にかかわった人から話をきいていくうちに、私なりの考えがまとまっていったことも事実である。」と書いている。最初から自らの思いを養賢に託す意図ではなくて、調べていくうちに養賢の中にも自分と同じ思いがあったのだということを発見されたということではないだろうか。
 そして林養賢は三島由紀夫「金閣寺」の溝口とはまるで別物であることを証したかったのは間違いない。おわり

【作業日誌 12/13】
チエンソー修理(ブレーキバーのピン外れ、スターターのひも切れ)
薪割り

【今日のじょん】今期最低の気温、雪も予想されたが降霜で済んだ。じょんが歩いても跡がつかない。

 

 

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雨読 「金閣寺の燃やし方」 12/12

2014-12-12 | 雨読

2014.12.12(金)

 なんとも物騒なタイトルで、図書館の検索をしても出てこなかったので、購入して読んでしまった。今日再度図書館検索したら、あるわあるわ綾部の図書館にもあった。どうやら検索文字でも間違っていたのだろうか。渡辺淳先生からも電話で「私も読んだことがあるよ」とかかってきた。酒井順子さんはわたしより15才若いエッセイストで、かなり有名な方だそうだ。新聞紙上の書評のページでコラムだったかを読んだことがあったがこのような本を書いておられるとは知らなかった。古本ネットで「金閣寺」を買おうとして、本書を見つけ、こちらの方が手っ取り早くておもしろそうという不純な動機で買ったものである。
 「金閣寺の燃やし方」(酒井順子著)講談社 2010年10月28日第一刷 古書購入

 金閣寺放火事件を扱った二人の作家、三島由紀夫と水上勉を比較しながら探るという面白い文芸評論ということだろう。わたしより15才若い、東京生まれのお嬢さんに水上勉の神髄がわかるだろうかという思いが最初からあった。寒くて暗くて貧乏、腰まで汁田に使って働いてもまともに生活できないというような環境が、理解できるだろうか。それでもうらにしが好きだという心境が理解できるだろうか。そんな不信感でいっぱいだった。
 「京都府舞鶴市の成生という、岬の突端にあるちいさな集落の、、、」という文を見て、成生は岬の突端ではなく酒井女史は成生に行ってないののだろうか、成生に行かずして、金閣寺放火事件が理解できるかと、なにか勝ち誇ったような気もした。ところが女史は成生を訪ねているのだ、しかも田井から2Kmの道を歩いて訪れている。田井までバスで向かったので後は歩くしかなかったのだろうが、舞からタクシーで行っていないことがとても嬉しい。
 成生では地方の寒村特有の排他的な視線を感じるのだが、林の生家である西徳寺を訪ねても、村の人に何かを尋ねてもこれと行って得られるものは無い、ただ自分自身が余所者(よそもの)であると思わせられるだけである。それでいいのである、それだけでも成生を訪ねると訪ねないでは雲泥の差があるのだ。事ほどさように、若狭の水上勉の生家の在った地やその母が腰まで使って働いていた汁田圃のあった小近谷の若州一滴文庫も訪ねている。
 舞鶴市安岡の林養賢と志満子の墓は、一般には水上勉によって発見されたようなものだが、女史はこの地も訪れている。しかも養賢の墓の左側にいわゆる集石墓があることを書いている。このことは金閣寺事件とは何ら関係の無いことだが、先日高野から松尾寺に至る巡礼道の脇に集石墓を発見しており民俗学的に大変興味のあることとなっている。つづく

【作業日誌 12/12】
ジャガイモ、ヤーコン、キクイモ収穫

【今日のじょん】
夜な夜な吠えてくれているのだが、なんだか解らない。朝になって初めて何事か解るわけ。玄関坂の蔦の葉が鹿に食われていた。これはあまり美味そうではなく、他に食い物がなくなってくると食べるようだ。

 

 

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頭巾山ハイキング中止 12/11

2014-12-11 | イベント情報

2014.12.11(木)雨

 12月12日予定のじょんのびハイキング、頭巾山登山は天候不良の予想のため中止します。
 既に雪の季節となりますので、来春雪解けを待って再度計画いたします。

【作業日誌 12/11】パンフレットスタンド作成

【今日のじょん】雨の日は一日寝ていて記事にならない、これって本能なんだろうか。
【備考 】痒疹情報 今日は発疹もなく痒くもない。昼には昨日のカレー鍋のスープでうどんを食べているので、カレー鍋関連は関係なさそうだ。となると寿司が怪しくなるが、まだまだ予断は許せない。

 

 

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痒疹 12/10

2014-12-10 | 日記・エッセイ・コラム

2014.12.10(水)晴

 ようしんと読む。そのまんま痒い発疹のことである。3年くらい前からで始めたのだが、当初はダニの咬痕かと思っていた。実際ダニに咬まれたときと症状は一緒なのである。赤茶色にふくれ、かきむしるととんでもなく腫れ、何ヶ月も治らない。草刈りなどすると太ももや腹部に食らいついて、ベルトやゴムの部分などには列状に咬まれることもある。気休めにムヒなんぞを塗っておくが、風呂などで温めるとやたら痒くなる。
 ダニだとばかりに思っていたのが、どうも様子が変だ。例えば右足と左足、右腕と左腕、同じような位置に同じような形で発症するのだ。ダニならばアトランダムに咬み痕が出るはずである。どうも内科的な要因があるのではないかと皮膚科を訪ねる。「痒疹ですね、これ出しときましょう」とステロイドの軟膏を数本もらう。

昨年6月の状態、風呂上がりで赤くなっているが、発疹の周囲はなぜだか白い。
 軟膏をつけることと掻かないこと、これを半年続けたら治ってきた。残念ながら薄茶色の痕は残っているが、これも数年たてば消えるだろう。
 ほとんど全快したところで、強力なステロイド軟膏を止め、市販のダーマキュラというハーブ系のスキンクリームに変えた。これも具合が良くて1年ぐらいで全快と言えよう。最悪の時にはすねなどぼこぼこの状態になり、温泉にゆくのも気が引ける状態だったから、治ったことは大変嬉しいことだった。
 ところが10月頃からまた、ぽつりぽつりと出始め、残っていた軟膏も無くなり再度受診、改めて薬をもらう。でも、痒疹の数も頻度も少なく軟膏を塗っておけば翌日には気にならなくなっている程度で別段どうって事は無い感じだ。だからといってこのままずるずるといくのもいやだなあと思っていた。
 今日風呂に入るとやたらとすねが痒い。そうっとさすって風呂上がりに見てみると、両すねに3個ずつぐらい出ている。ここに来てようやく原因を探す気になった。医者は原因の分からないことには、加齢とストレスという風にこたえる。でも自分の身体は自分でケアしなければならない。風呂に入っても痒くならない日もあれば、発疹する日もあるわけだ。右足だけ、左足だけということはなく両足に出るわけだから、血流に関係があるのじゃないか。そうするとやはり食べ物に関係がありそうだ。朝ご飯は毎日同じだから、昼食、夕食が問題だ。痒疹で悩む人のために原因を突き止めよう。
 と言うわけで、痒くなった日の食べ物を記録しておくことにした。
 昼食 きしめん、市販の寿司
 夕食 カレー鍋、豚肉、鳥のつみれ、豆腐、餅、アゲ、ネギ、白菜、菊菜
 ビールは毎日飲んでるから無関係だろう。でも今日はいつもと違う工場直送ののどごし生をいただいたが、、、

誰でももらえるプレゼント、96缶吞んだらこれもらえる。

【今日のじょん】久しぶりにモモちゃんが来た。高齢で目耳は悪くなっているようだが、デッキなどへは平気で飛び上がっているゾ。

 

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うらにしな季節 12/9

2014-12-09 | 地名・山名考

2014.12.9(火)曇り、雨

 うらにしという言葉を初めて知ったのは、澤潔さんの「丹後半島の旅」であったと思う。初冬の暗い雲からみぞれが降り、雪になったり雨になったり、風といえば真冬のように吹き荒ぶわけではないのだが、北西から時折芯まで冷えそうに吹いてくる。身体が冬に慣れていないためだろう、真冬より寒く感じる。
 とまあ、こんな感じをうらにしというのだろう。澤さんも水上先生もうらにしが好きだという。こういう感覚は普通ではありえない、誰だって暖かくて天気の良いところがいいに決まっている。瀬戸内や湘南など憧れるのは当然なんだけど、なぜか暗くて寒い日本海側の地域が好きになる感覚というのも存在するのだ。
 こういった感覚は年齢のせいもあるが、人生における苦労や不幸に関係することもあるのだろう。
 わたしだって若い時分は白浜や神戸に憧れた。それがいろんな事があって、歳も重ねて暗くて寒い日本海側のうらにしが好きになってくるのだ。明るくて健康的で前向きでアクテブ、眩しいようなところは好きになれない、というより辛く感じるのだ。
 うらにしという言葉はわたしの国語辞典には載っていない、全国方言辞典にも民俗学辞典にも載っていない。澤さんや水上先生の文章からこのようなものかと思っているのだが、丹波の言葉ではないような気がする。若狭生まれの水上先生も知らなかったようだ。
 「寺泊」の中の「短い旅ー峰山」という短編に、タクシーの運転手にうら西(この短編ではこう書かれている)のことを聞くのである。
 運転手に急に峰山へゆくというと、向うはうら西だ、といった。
 「うら西って何かいね」
 「丹後は、うら西の季節ですよ。このごろはめったに晴れた日はありません。西の方から、吹く雨風ですわな」

 うらにしというのは丹後の言葉なのかもしれない。但馬辺りでも使われているようだが、海で漁をするものにとって重要な風を表す言葉なのかもしれない。
 気象学的にいうと西高東低の冬型になる始まり、吹き出しと言われる不安定な天気のことではないだろうか。
 浦に吹く西風と言ってしまえばおもしろくも何ともないのだが、うらは「うら寂しい」とか「うら枯れる」といった何となく淋しく悲しい感じを言っているのではないか。にしというのも単に西風を言うのではなく、暗く冷たい雨風をいうものと解したい。
 我が家ではうらにしを日常的に使っている。「今日はうらにしやなあ」「うらにしな天気になってきたなあ」「うらにしじょんやなあ」
 本日は恒例のうみんぴあのワンコインリゾートの日である。リゾートとうらにしは合わない言葉なのだが、うらにしな天気の日に暖かい建物の中でリゾート気分を味わうのもまた一興である。

暗い空、隠れて見えない青葉山、かみさんの姿を見ればうらにし度がわかる。

向こうに見えるのがプール、今日は調子よく2Kmを43分で泳げた。


 

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穴虫考(134) 火葬-6 12/8

2014-12-08 | 地名・山名考

2014.12.8(月)曇り 穴虫考(133)は2014.11.21
 「死者たちの中世」を読む。

 「死者たちの中世」(勝田至著)吉川弘文館2003年7月25日第一刷発行 府立図書館借本は前回紹介した「日本中世の墓と葬送」の姉妹版というか普及版のようなものである。もちろん著者は同一で、後者は学術論文調だが前者は解りやすく解説された本といった感じがする。
 中世の墓制葬送に関する書物を読みあさってきたが、一番最初に読んだ「中世の葬送・墓制」に出てくる穴、穴賃などという火葬に関連するだろう言葉がどの文献にも現れない。

 穴というのが火葬場(貴所、火屋、山作所)における浅く穿たれた穴と仮定し、仮説-1を組み立てた訳であるが、穴が何であるかは遂にはっきりしなかった。中世の葬送、特に火葬について最も詳しく具体的に書かれているのは本書である。にもかかわらず火葬における穴という文言は出てこないのである。
 ただ火葬墓の項で次の文がある。
 信範は宇治に行き、ついでに道長が木幡に建てた浄妙寺に参詣した。それから下検分に墓地に行ったが、云々『兵範記』(P147)
 火葬骨を埋葬するために墓地を下検分したという文なのだが、穴の初見である、「中世の葬送・墓制」の中の『大乗院社寺雑事記』にある、御葬火所穴等拝見という文と文書の出所は違うのだが、状況は同じものと考えることも出来る。つまり火葬骨を埋葬するための墓所の穴と考えることも可能なわけだ。
 こうなると一気に仮説-1は変更を余儀なくするわけだが、事はそう簡単ではない。もし穴が火葬墓を表すとしたら、穴虫は穴墓所(あなむしょ)の転訛と言えるだろうが、そうすると穴虫は墓所として存在しているのが普通であろう。墓所との関連は深いが、現実の墓所そのものである例は無い。
 やはり火葬場とするのが妥当かと思うのだが、もう少し他の本を読んで、穴の意味を掴む必要がある。この間の中世の葬送に関する本はすべてが借本なので、いざ確認を、とするとき手元にないのが辛い。図書館に依頼して一週間のギャップがあるのだ。
 また本書では、火葬の燃料として、薪の他に藁が使用され、これが非常に優れているという点についても書いている。
 そして、火葬とは関係の無いことだが清水坂と奈良坂勢の抗争の際に「延年寺之引地」まで進出したという文が本書と「日本中世の墓と葬送」に書かれている。「引地」は「敷地」の誤りではないかとも書いているが、引地地名を考えるとき参考になる文言である。引地地名については研究を重ねてきたが、見当がつかない。詣り墓のことをヒキバカというように、墓制に関係あるのかもしれないという気はしている。
 そして集石墓についての記述も幾つかある。集石墓は石積みの墓なんだが、老富町に二基あるのを数年前に見せていただいたが、先般青葉山下の巡礼道に1基発見、「金閣炎上」にも舞のとある墓地に存在する旨書かれていた。集石墓については稿を改めて書いてみたい。


左:綾部市老富町 右:今寺から松尾寺(舞鶴市)に向かう途中
【作業日誌 12/8】窓ガラスカビ対策、野芝張り

【今日のじょん】じょんのび八不思議のひとつ、謎の結晶の正体が分かった。ある日突然府道にばらまかれている半透明の結晶体、雹、融雪剤、アスファルトの含有物などと考えたがどれも不自然。今日も歩道と車道の一部に一面に散布されている。大きいものでは5mmほどあり、とけて水分のシミを作っているものもある。そういえば昨日トラクタがこの部分を通っていた。その部分にだけ撒かれているのだ。どうやら、撒き残しの肥料が振動でばらまかれたようだ。あのトラクタの通過を知らなければ永遠の謎になっていた。

アップにすると結晶が見える。

 

 

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じょんのび雪情報 12/7

2014-12-07 | 日記・エッセイ・コラム

2014.12.7(日)雪、曇り、雨

 全国的に早い時期の積雪があったようでニュース番組は大騒ぎしている。解説者も「これは異常ですね、夏の豪雨といい気象が変ですよ」と知った風なことを言っている。変じゃない、気象というのはこんなもんなんだ。
 四国では孤立している村があったりして気の毒なことになっているが、これだって今までに無かった積雪ではないだろう。ただ、時期的に早いことは確かだと思う。
ニュースでは四国にこんなに雪が降るなんてという風に報道されているが、山間部は珍しくもない積雪だろう。40年以上前四国の背稜山脈を縦走したことがある。2月の5日間の旅だったが、麓から積雪があり、稜線近くは膝ぐらいの積雪だった。西日本最高峰の石鎚山は、鎖場が完全に氷瀑になっていて迫力があったことを憶えている。面河渓に降りるまで積雪があったので、四国といえども山間部は積雪があるわけだ。ただ四国の積雪は年が明けてからの南岸低気圧の影響があると思うので、やはり今期の積雪は予想外であっただろう。
 さてこれだけ周囲に積雪をもたらす寒波が到来しているのだが、上林は幸いなことに少ない。じょんのびでは1cmにも満たない状況である。それにしてもよくぞタイヤ交換、植木や野菜の雪囲い、白樫剪定枝葉の処理をしておいたものだ。しかし昨年のブログ見てみれば12月8日にタイヤ交換している。あんまり変わりねえじゃねえか。

片付け前(4日)、片付け後(本日)

シマトは危うく枯れるところだった。

ジャガイモはビニル掛けても萎れてきて、要収穫。
 それよりもだ、やり残した事の方が気にかかる。薪割り、じてんちゃカフェ基礎造り、デッキ等木部防水処理、看板ニス塗り、ベンチ防錆処理、、、、。
既に定休日の予定は全部埋まっているのでつらいものがある。

【作業日誌 12/7】パンフレットスタンド作成

【今日のじょん】歳いってきたら雪も喜ばないかなと心配したが、だいじょうぶ、おおよろこびしておりやした。

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あなしら上林 12/6

2014-12-06 | あなしら上林

2014.12.6(土)曇り 朝8:30、0℃ 

 「かんばやし里山新聞」に「あなしら上林」として記事を連載することとなった。第二号で前書き部分を、第三号から「生守山」を書く予定である。里山新聞のHP版では見にくいのでこちらで同一記事を掲載することにする。ただし、里山新聞に敬意を表して里山新聞に記載された後の公開とする。ちなみに「あなしら上林」は「あなたの知らない上林」の略である、悪しからず。

第二号(2014年11月18日発行記載) 
あなしら上林
 一、不思議上林
 上林には賢い先人が多くおられて、地域の歴史や地理に関する書物も多く発行されている。それらの多くは古文書の解読によるもので、中世の後半から近世の事柄が主である。
 それはそれで大変貴重な研究なのだが、それ以前のこと、それ以外のことって誰も書いていない。知っているけど解らないから書いていないのか、知らないから書いていないのか。
 こちらに越してきてすぐに裏庭から怪しげな土器が出てきた。子供の粘土細工かとも思われる稚拙な土器だ。一つは器の下の部分で高台と言われるところか。もう一つは親指のような形でなんだか解らない。
 後日川端先生にお聞きしたら土師器(はじき)だそうだ。親指状のものは甑(こしき)の取っ手らしい。また器状のものは内側が黒く変色していて、火にかけたものなら外側が黒く焼けるはずだのに不思議な事と思っていた。これは土師器は釉薬を使わないので水漏れのおそれがあり、内側に樹脂を塗って防いだものだと解った。
 畑仕事の度に小さな破片が出てきて、須恵器と思われるものも少し出てきた。裏を流れる谷は鎌谷(かまだに)と呼ばれ、窯を表しているのかもしれない。いつか窯あとでも発見したいと思っているが、この地におそらく竪穴の粗末な家に住み、土器を焼いて暮らしていた人たちが居たと想像するだけで楽しくなる。
 そうこうするうちに、上林川で鉄滓(てっさい)を拾う。よく探すといくらでもあり、流動滓、椀形滓等と呼ばれるものも落ちている。
 鉄滓の結末は後段に譲るが、このように上林には不思議なことがいっぱい埋もれている。生守山、大栗峠盃状穴、両墓制、鋳物師、日置氏などいろいろ調べてきたが、すべて解明はされていない。
 あなたの知らない上林、あなしら上林を順次紹介していこう。きっと楽しい探検家の気分になれるかもしれない。

裏庭から出てきた土師器(左)上林川で初めて拾った鉄滓(右)

【作業日誌 12/6】パンフレットスタンド作成

【今日のじょん】初雪が降った。ほんの少しだけ~ど♪
気温は0度なんだけど、先日の0度と全然違う、これって何だ?

 積雪1mm

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不思議な岬の物語 12/5

2014-12-05 | 日記・エッセイ・コラム

2014.12.5(金)曇り

 メーパパに映画館の入場券をもらったので、舞八千代館に見に行く。最後に見た映画が「硫黄島からの手紙」だったから7年前ぐらいだろうか。吉永小百合ものは「北の零年」だったからこれは10年近くたっていそうだ。とにかく綾部に移り住んでからは初めての映画である。
「不思議な岬の物語」は森沢明夫さんの小説「虹の岬の喫茶店」の映画化で、実際にある喫茶店をモデルに書かれたものである。

 田舎の岬にぽつんと建っている小さな喫茶店、初老の女主人とお客様達との心のふれあいを描いた小説なのだろう。原作者の森沢さんはなんと先般亡くなられた高倉健さん主演の映画「あなた」の作者でもある事を知った。
 吉永小百合さんが小説にぞっこん惚れて、自らプロデュースするくらいだからいい映画だった。映画を見て涙することなんて無かったのだが、ついつい涙が出て、これは寄る年波のせいだろうと思う。
 さてこの実際の喫茶店「岬」は千葉県の明鐘岬と言うところにあり、ロケも現地で行われたそうだから映画を見ればその雰囲気も臨場感が伝わる。その位置は鋸山から海に向かう尾根の末端であり、この鋸山は学生時代にロックゲレンデを探してあちこち行っていたときに有力な候補になっていた山である。縁が無くて現地に行くことはできなかったのだが、よく憶えているところである。
 海と山との違いはあるが、わがじょんのびも同じコンセプトで存在しているので、カフェの原点に返るという意味で値打ちのある映画だった。
 岬とじょんのびの共通点は、美しい虹が出るということである。地形的なものもあるのだろうか、いつも同じ場所に現れ、先日など二重の虹が現れて、たまたま見られたお客様も感激しておられた。

2014.11.3、ベランダから
 映画館を出て海が見たい気分だったので、かみさんのいう舞カフェにいく。高台にあるので海が見えるかなと思ったのだが、生憎だった。

ドッグランもあるが冬期はクローズとか。
【作業日誌 12/5】
パンフレットスタンド作成

【今日のじょん】先日上林川の冬景色にじょんを入れてやらなかったので、改めてパチリ。

二枚目は水の澄んでいるところを見て欲しい。

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じょんのびハイキング ’14冬 12/4

2014-12-04 | イベント情報

2014.12.4(木)雨

 頭巾山(871m)

 中級ですが季節的に困難度が高くなりますので、経験者で体力に自信のある方に限ります。

 日時:2014年12月12日(金)古和木山口神社集合
 コース:山口神社~行谷林道~ブナ林コース~頭巾山~行谷八反の滝コース~山口神社 正味4時間30分、地図(丹波大町・口坂本)
 持ち物:雨具、弁当、お茶(魔法瓶で温かいもの)、服装は冬用(ウールなど暖かいもの)、登山靴は防水の効いたものがよい
 天気について:積雪がある場合、雨天が予想される場合は中止します。前日20:00判断
 申し込み:12月9日(火)締め切り、じょんのび(0773-21-4632)まで連絡。車分乗で行きますので、事前に打ち合わせします。
 
 【作業日誌 12/4】パンフレットスタンド作成(塗装)

 【今日のじょん】今日は豆腐屋さんの日、お金は事前に用意してじょんに覚られないようにしていたんだが、車が上がってきた途端ワンワンワンと吠えまくる。う~む一体何に反応しているのだろう。

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雨読 金閣炎上-2 12/3

2014-12-03 | 雨読

2014.12.3(水)快晴

 「金閣炎上」(水上勉)新潮社昭和54年7月25日発行 古書購入

 本書の帯に「二十年越しの執念の結晶」と書かれている。もう一度事件に関わる年表を書いてみよう。
杉山峠の出会い    1944年8月(昭和19年)
金閣寺放火事件    1950年7月2日(昭和25年)
「金閣寺」発行    1956年(昭和31年)
「金閣炎上」書き始め 1959年?
三島事件       1970年11月25日(昭和45年)
「金閣炎上」発行   1979年(昭和54年)

  この時系列を見ると水上先生が、事件後の「金閣寺」や世間の林養賢に対する見方に「そうではないんだ」という思いで「金閣炎上」を書かれたことが読み取れる。その調査に20年の年月を要し、「二十年越しの執念の結晶」という文言になったのだろう。
 あとがきの中に「私は犯人の林養賢君と縁も深かったし、在所も近かったので、彼がなぜ金閣に放火したか、そのことをつきつめて考えてみたかった。」と書かれている。縁が深いということは、杉山峠で会ったこともあるが、やはり同じ臨済宗のお寺で苦しい修行時代をおくっていること、貧しい村の寺が経済的にも精神的にも厳しい生活をおくっているかということを認識していることなどだろう。こういうことはマスコミや三島には絶対に解らないだろうという思いがあったのではないだろうか。それにしても二十年というのは、何ともすさまじい執念を感じる。そこまでしても林養賢の放火の真意を掴みたかったのだろう。それでもあとがきの中の前文のあとに「だが、本当のことはいまもわからない。当人が死んでしまっているのだからわからな。しかしいろいろと周囲のことを調べ、事件にかかわった人から話をきいていくうちに、私なりの考えがまとまっていったことも事実である。」とつづく。
 その20年の歳月の報告が本書だと言っている。
 本書は地名や施設の名前、氏名などすべて実名で、ノンフィクションの小説である。ただし取材時の約束で氏名がイニシャルになったり、水上氏の言として書かれていることもあるとことわっている。
 本書を読み進めていて、この本は事実や証言をありのままに書くのみで読者に林養賢の真意を分からせようという手法かなとさえ思った。水上先生の考えや思いは極最後の部分にまとめて書かれている。
 実は水上先生の考えに共感する部分はあるのだけれど、どうも納得いかない部分がかなりある。この場で公表するつもりでいたのだけれど、林養賢に近しい水上先生が二十年もかけて調査し、まとめられた考えを、1回本書を読んだだけのわたしが批評なり批判するのはおこがましいことと思う。
 従ってこの件はノートに書き留めておいて、今回の公表は差し控えたい。「五番町夕霧楼」「金閣寺」など周辺の作品を読んだ後にそれでも疑問が残るようだったら改めて公表したい。とりあえずは「金閣寺の燃やし方」(酒井順子)を読み始めている。
 するといきなり、京都府舞鶴市の成生という、岬の突端にある小さな集落云々という文が出てくる。成生は岬の突端ではない、彼女は成生を訪ねているんだろうか。読み進めればわかることだろうけど、成生を訪ねない限りこの本の論評は出来ないだろうと思うのだが、、、。
そんな心配は無かった、読んでいくとしっかり成生を訪ねている。しかも田井から歩いての旅だ。おわり

宮津市日置の妙見山から成生岬を望む(向こうに薄く見えている)春分、秋分には成生岬から朝日が昇る。
五番町夕霧楼の夕子はこの丹後半島から出た。
【作業日誌 12/3】パンフレットスタンド作成

【今日のじょん】

今期最低の気温となった。0℃でじょんの水飲みも氷が張っていた。一昨日シマトネリコとジャガイモの霜よけをして正解。上林川冬景色きれいでしょ。じょんも隣に居たのだけど、入れるといいアングルにならないので却下。



 

 

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雨読 金閣炎上-1 12/2

2014-12-02 | 雨読

2014.12.2(火)曇り

 亀嵩(かめだけ・島根県)を訪ねて「砂の器」を読み、木津温泉(きつおんせん)のゑびすやさんに泊まり「Dの複合」を読んだように、高野(たかの)の分教場跡を訪ねて「金閣炎上」を読んだ。小説の読み方としては最高のパターンである。小説だけでなく中原中也の誌に会うために湯田の高田公園(現在は井上公園というらしい)を二度も訪ねている。

亀嵩にはこんな碑も建っている。(2007.4.23訪問)高田公園は1975年春にも訪れたが随分様変わりしている、この詩碑も当時のものとは変っている。(2007.4.11再訪)
 分教場で教鞭を執っていた水上勉(私)が金閣寺放火犯となる林養賢に出会ったのは、昭和19年の八月初め、杉山峠から北へ少し行った茅っ原だという。水上先生がこの本を書かれる発端はこの杉山峠での出会いにあったと思う。
高野分教場の跡(高野小分校跡・高浜町)
 もちろんその時には林少年と同行していた、先生の小僧時代の知己、滝谷節宗と出会ったことがきっかけであり、吃音の中学生にはさほど注意することも無かっただろう。ところがその6年後、金閣寺炎上のニュースが入ると、その放火犯が峠で出会った少年だと知ると、それはもう単なる偶然ではなく、因縁めいたものを感じられたに違いない。そしてその後に三島由紀夫の「金閣寺」が発行されて爆発的に売れる。それを見て、水上先生は多分「林養賢の放火の原因は違うところにある」と考えられたのではないだろうか。ただしこれは私のげすの勘ぐりである。「金閣寺」を読んだこともないし、水上先生がそのようなことを書いておられることもない。
 しかし、杉山峠での出会いがひとつのきっかけになっていることは確かであろう。「金閣炎上」はこの出会いのシーンから始まるのである。
 杉山峠に是非とも行ってみたくなった。ところが地図上には杉山峠の表示はない。杉山の集落は松尾寺の北方1Km余りのところにある集落で、杉山峠と言うからにはこの集落から取り付く峠に違いない。「金閣炎上」の最初の数ページを何度も読み直して、どうやら杉山から北に山中に越える峠だろうと想像する。この峠に行けば高野分教場の児童達が岬を望んで、鹿が寝ているようだといったのが解るのだろう。

【作業日誌 12/2】柚大根再度挑戦
これだもんね!

【今日のじょん】じょんは曜日が解るか?
 木曜日の夕方、レジを開けると「ワンワンワン」と吠え出す。お豆腐屋さんが来るので代金を出すために開けるのだが、どうやらお豆腐屋さんが来るのが解っているらしい。そりゃあ単なるじょんけん反射でしょといわれるかもしれないが、レジは何度も開けるものなのにその時は別に知らん顔しているわけだ。木曜日が解ってるのだろうか。ちなみにレジを開けるのは、お豆腐屋さんが来てからではなくて、何十分も前から開けて用意しているのだ。空っぽのレジを公開するのは恥ずかしいのだが、防犯上の効果はあるかもしれない。

 

コメント (2)
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