晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 雁の寺 12/19

2014-12-19 | 雨読

2014.12.19(金)曇り

  金閣寺放火事件で林養賢がなぜ犯行に及んだかを考えるには、「金閣炎上」を読むだけでは済まない。もちろんそれは誰にも解らないことなんだが、考えを及ぼすことは出来る。「金閣炎上」の中で水上先生は金閣寺の慈海住職に対する反抗心を考えておられる。佐波賀養徳寺の江上大量氏への取材に端的に表れている。(雨読2014.12.13参照)
 ところが水上先生は自らの思いを林養賢に託して書いたのではないかというわたしの考えが、「金閣寺の燃やし方」(酒井順子著)にもはっきり書かれていてとても心強く感じているところである。問題は水上先生の自らの思いであり、それは「禅宗坊主の虚偽世界に倦きがきた」(「わが六道の闇夜」)と言わしめている、禅宗の僧侶の色欲、金銭欲などのことである。禅宗僧侶の妻帯に対し強烈な批判意識があり、だいこくに対して性具という言い方がしばしば現れる。「山寺」に登場する加奈子さんも、林養賢の母志満子でさえ性具という表現がなされている。これはひとえに妻帯する住職に対しての強烈な批判なんだけど、わたしは性具という表現には嫌悪感を憶えてしまう。
 先生そりゃあ言いすぎではないですかという風に思うのだが、それほどに水上先生の禅宗僧侶の腐敗ぶりには辛辣な思想がある。それが何なのか、「雁の寺」を読む理由はその一端に迫りたかったからである。
 新潮日本文学59 「水上勉集」 昭和47年1月発行 古書 霧と影、雁の寺、五番町夕霧楼、越前竹人形を収納

 本書を読む動機は別にもあった。「金閣寺炎上」の金閣寺住職も「雁の寺」の孤峯庵住職も同じ慈海なのだ。前者は実在の人物であり、後者は架空の人物である。しかし水上先生の意図が両者を同名にしたのか確かめたい気がしたのだ。
 「雁の寺」はずいぶん後味の悪い読み物であった。救われる者がいないのである。好色の限りを尽くす住職慈海、こき使われるだけの滋念、そして滋念は巧妙な手口で慈海を殺し、闇に葬る。内妻の里子こそ性具と表現されてもいたしかたない。新しい住職が来て滋念も里子も孤峯庵にはおられなくなる。誰も救われない哀しい話だ「雁の寺」は第45回の直木賞に選ばれている。ひとつの再出発でもあるのだろう。本書のことをミステリーとして評する者もいる。ミステリーとして読むにはあまりにもお粗末である。殺害の方法や遺体の処理についてもアイデアは奇抜だが、成立しない筋書きである。水上先生は本作品について「子どもの時のイメージをそのまま小説に移したもので、僕の心にたまりたまった四十年間のウラミツラミを吐き出し、復讐するのが目的でした。」と述懐している。(解説、尾崎秀樹から)
 舞台となる孤峯庵は水上先生が10才のおり最初に入山した相国寺(しょうこくじ)の塔頭(たっちゅう)、瑞春院(ずいしゅんいん)で、住職は山森松庵(しょうあん)といった。この瑞春院は上立売烏丸を東に入ったところにあり、立派な建物である。小説とは言え、好色な住職が居て殺害されるというなんとも不名誉な立場にされ、憤慨されていると思いきや、門標には「瑞春院 雁の寺」と小説をも売り物にされている。なんとも京の寺の商魂を垣間見るような気がするのである。つづく


【今日のじょん】じょんはいくみちゃんが大好き。でも猫がいるので一晩しか居られない。散歩も遊びも全然覇気が違う。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 鬼もあきれる新年会 12/... | トップ | 雨読 続・雁の寺 12/20 »

コメントを投稿