8月7日、「映画ドラえもん のび太の 新恐竜」が公開された。
本来の予定ならば、3月に公開されているはずであったが、新型コロナウィルスの影響で延期となっていた。それが、ようやく公開されたのだ。例年であれば、名古屋で藤子ファン仲間が集まって映画鑑賞&感想会が開かれるのだが、さすがに今回は開催することができず、今年は一人での映画鑑賞となった。一人でドラえもん映画を鑑賞したのは、「ドラえもん のび太の ワンニャン時空伝」の時以来、16年ぶりのことだ。ちょっと寂しい映画公開日であった。
そんなわけで、公開初日に映画を観てきたので、例年通りにここで感想を書いておく。
いつものことだが、ここから先は映画の内容に思いっきり触れているので、未見の方はご注意いただきたい。
さて、さっそく映画の感想だが、一言で言うと、もやもやの残るすっきりしない作品だった。
導入+中盤までは「のび太の恐竜」、結末部分は「のび太と竜の騎士」を想起させられる過去の映画のツギハギ的展開の中に、のび太&キューの成長という話の芯があったわけだが、この「のび太&キューの成長」という部分に共感できなかったのだ。
のび太がキューをなんとかして飛ばせようとする展開が、観ていて非常につらかった。「ミューや他のみんなは飛べるんだ、だからキューにも飛べるはず」と、飛ぶことを強要していたが、それを観ていて、もしかしたらキューが「飛べない変種」なんじゃないのか、そうだったらどれだけ残酷なことをさせているんだと言う思いが頭をよぎってしまった。
もちろん、キューは最後に飛べるようになるし、その「飛べるようになること」が、話の肝である「ミッシングリンク」につながるという仕掛けになっているのだが、そこまでの話の持って行き方が、私には合わなかったのだ。
そもそも、のび太は山登りするときに「平らな山ならいいんだけど」と言うようなやつだ。しなくてもいい努力はしたくない性格なのだ。それが、自分がまだ逆上がりができてもいないのに、それを棚に上げてキューに飛ぶことを強要する姿には、非常に違和感を覚えた。のび太の危機→キューが飛べるようになるという流れは全くおかしくないが、そこまでの過程がダメだ。
また、本作におけるタイムパトロールの位置づけも、気になったところだ。
単に最後にドラえもんたちを助けてくれるという、これまでの立ち位置ではなかったのは新鮮味はあった。しかし、恐竜の絶滅という超大イベントについて、タイムパトロールたちまでが「ミッシングリンク」と言う言葉を使って何も知らない状態なのは、はっきり言って不思議だ。あのタイムパトロールが何世紀の存在なのかはわからないが、タイムマシンを持っている時代なのは間違いないのだから、恐竜絶滅の真相などそれで見てくれば一発でわかるではないか。現代の恐竜博士(彼はいいキャラだった)とは、訳が違う。
そして、飼育用ジオラマセットで作った「ノビサウルスランド」が、恐竜たちを絶滅から救う場所となったと言う展開についても、「これでいいのか」と思ってしまった。「のび太と竜の騎士」の「聖域はドラえもんが作ったのか」的な展開を狙ったものだろうが、地底世界にある聖域とは違い、地上に存在する場所に恐竜を集めて生かしてしまったら、それが永遠に全く知られないままでいるのはずいぶん無理があるのではないだろうか。
今作は、新型コロナウィルスの影響で公開が5ヶ月遅れた。
基本的に、オリジナルのドラえもん映画を観るときは、なるべく情報を事前に頭に入れないようにしているのだが、この5ヶ月間に色々と断片的な情報が入ってきていた。それを元に内容を想像して、どんな映画になっているかと楽しみにしていたのだが、正直言って期待外れだった。
監督・今井一暁&脚本・川村元気のコンビによるドラえもん映画は、「のび太の 宝島」に続いて2作目となったが、どうやらこのコンビは私の好みには合わないようだというのが、今作であらためてよくわかった。『ドラえもん』という作品のとらえ方、考え方が、私とはかなり異なるようだ。
あと、この際だから言っておくが、ピー助を出してしまったのは、作品の独立性を考えると失敗だったのではないか。「ピー助っぽい首長竜」ならまだいいとは思うが、エンディング・クレジットではっきりと「ピー助」と名前を出してしまっているので、言い逃れはできない。するつもりもないだろうが。
以前に、ある人が「映画ドラえもんは、一作ごとにパラレルワールドだと思う」と言っていたのを聞いたことがあって、なるほどそれなら納得できることが多いなと思ったが、そのように今作が「のび太の恐竜」(2006含む)とは独立した一個の作品だとするなら、余計にピー助を出すべきではなかったと思う。
と、言ったところで感想は終わり。なんだか、否定的なことばかり書いてしまって恐縮だが、いいと思ったことも書いておこうと思っても、これはと思いつかないのだ。何しろ、話の芯になる部分に共感できなかったのだから。ああ、ひみつ道具の「ともチョコ」はよかったんじゃないか。ネーミング含めて。
おまけ映像の内容から推察して、来年の映画(公開時期は今のところ不明)は、「あれ」でおそらく間違いないだろう。来年には期待したい。
本来の予定ならば、3月に公開されているはずであったが、新型コロナウィルスの影響で延期となっていた。それが、ようやく公開されたのだ。例年であれば、名古屋で藤子ファン仲間が集まって映画鑑賞&感想会が開かれるのだが、さすがに今回は開催することができず、今年は一人での映画鑑賞となった。一人でドラえもん映画を鑑賞したのは、「ドラえもん のび太の ワンニャン時空伝」の時以来、16年ぶりのことだ。ちょっと寂しい映画公開日であった。
そんなわけで、公開初日に映画を観てきたので、例年通りにここで感想を書いておく。
いつものことだが、ここから先は映画の内容に思いっきり触れているので、未見の方はご注意いただきたい。
さて、さっそく映画の感想だが、一言で言うと、もやもやの残るすっきりしない作品だった。
導入+中盤までは「のび太の恐竜」、結末部分は「のび太と竜の騎士」を想起させられる過去の映画のツギハギ的展開の中に、のび太&キューの成長という話の芯があったわけだが、この「のび太&キューの成長」という部分に共感できなかったのだ。
のび太がキューをなんとかして飛ばせようとする展開が、観ていて非常につらかった。「ミューや他のみんなは飛べるんだ、だからキューにも飛べるはず」と、飛ぶことを強要していたが、それを観ていて、もしかしたらキューが「飛べない変種」なんじゃないのか、そうだったらどれだけ残酷なことをさせているんだと言う思いが頭をよぎってしまった。
もちろん、キューは最後に飛べるようになるし、その「飛べるようになること」が、話の肝である「ミッシングリンク」につながるという仕掛けになっているのだが、そこまでの話の持って行き方が、私には合わなかったのだ。
そもそも、のび太は山登りするときに「平らな山ならいいんだけど」と言うようなやつだ。しなくてもいい努力はしたくない性格なのだ。それが、自分がまだ逆上がりができてもいないのに、それを棚に上げてキューに飛ぶことを強要する姿には、非常に違和感を覚えた。のび太の危機→キューが飛べるようになるという流れは全くおかしくないが、そこまでの過程がダメだ。
また、本作におけるタイムパトロールの位置づけも、気になったところだ。
単に最後にドラえもんたちを助けてくれるという、これまでの立ち位置ではなかったのは新鮮味はあった。しかし、恐竜の絶滅という超大イベントについて、タイムパトロールたちまでが「ミッシングリンク」と言う言葉を使って何も知らない状態なのは、はっきり言って不思議だ。あのタイムパトロールが何世紀の存在なのかはわからないが、タイムマシンを持っている時代なのは間違いないのだから、恐竜絶滅の真相などそれで見てくれば一発でわかるではないか。現代の恐竜博士(彼はいいキャラだった)とは、訳が違う。
そして、飼育用ジオラマセットで作った「ノビサウルスランド」が、恐竜たちを絶滅から救う場所となったと言う展開についても、「これでいいのか」と思ってしまった。「のび太と竜の騎士」の「聖域はドラえもんが作ったのか」的な展開を狙ったものだろうが、地底世界にある聖域とは違い、地上に存在する場所に恐竜を集めて生かしてしまったら、それが永遠に全く知られないままでいるのはずいぶん無理があるのではないだろうか。
今作は、新型コロナウィルスの影響で公開が5ヶ月遅れた。
基本的に、オリジナルのドラえもん映画を観るときは、なるべく情報を事前に頭に入れないようにしているのだが、この5ヶ月間に色々と断片的な情報が入ってきていた。それを元に内容を想像して、どんな映画になっているかと楽しみにしていたのだが、正直言って期待外れだった。
監督・今井一暁&脚本・川村元気のコンビによるドラえもん映画は、「のび太の 宝島」に続いて2作目となったが、どうやらこのコンビは私の好みには合わないようだというのが、今作であらためてよくわかった。『ドラえもん』という作品のとらえ方、考え方が、私とはかなり異なるようだ。
あと、この際だから言っておくが、ピー助を出してしまったのは、作品の独立性を考えると失敗だったのではないか。「ピー助っぽい首長竜」ならまだいいとは思うが、エンディング・クレジットではっきりと「ピー助」と名前を出してしまっているので、言い逃れはできない。するつもりもないだろうが。
以前に、ある人が「映画ドラえもんは、一作ごとにパラレルワールドだと思う」と言っていたのを聞いたことがあって、なるほどそれなら納得できることが多いなと思ったが、そのように今作が「のび太の恐竜」(2006含む)とは独立した一個の作品だとするなら、余計にピー助を出すべきではなかったと思う。
と、言ったところで感想は終わり。なんだか、否定的なことばかり書いてしまって恐縮だが、いいと思ったことも書いておこうと思っても、これはと思いつかないのだ。何しろ、話の芯になる部分に共感できなかったのだから。ああ、ひみつ道具の「ともチョコ」はよかったんじゃないか。ネーミング含めて。
おまけ映像の内容から推察して、来年の映画(公開時期は今のところ不明)は、「あれ」でおそらく間違いないだろう。来年には期待したい。
また、映画を観れば楽しめたと思いますが、残念ながら、おおはたさん的には、余り評価が良くないと解りました。
来年は映画見れること楽しみにしています。
私は映画ドラえもんは今作が初めてなので他映画作品と比べることは出来ないのですが、それにしてもアニメや漫画で言われているのび太の優しさとは違う無責任な応援で、度々発される「僕なんかに言われても…」に苛立ちました。散々説教垂れてるけど、のび太ですよ〜という制作側の免罪符のような台詞と取れました。
それとテーマ以外の各所にも苦手な点が多くありました。ミューとの触れ合いの少なさ、のび太のエゴを許したミッシングリンク(唐突)などなど。特にミューは扱い切れてないような気がしましたね。添い寝もキューだけ、積極的に関わるのも主にキュー。それこそ出来杉くんとのび太のような対比でミューを生み出したのでしょうが、ミューとの触れ合いも生物を育てる大切さを伝えるのであればもう少し必要だと思いました。
最後の逆上がりも良いのかもしれないですが、私はドラえもんが諦めず努力する強さを説教のように学習させる作品とは考えていなかったので、最後まで消化不良でした…(長文すいません)
地上に残した恐竜達、
脚本家達とのドラえもんという作品、のび太という人物の捉え方の違い。
ここは、激しく同意。
世間がかなり大絶賛だったので、共感嬉しいです。
>残念ながら、おおはたさん的には、余り評価が良くないと解りました。
そうですね。感想については、本文に書いたのが全てですが、半年近くお預けを食った割には、期待外れだったなあと言うのが正直なところです。
ただ、楽しみ方は人それぞれですから、ドラえもん大好きさんが楽しまれているのでしたら、それはそれでいいのではないでしょうか。
◆ルーキーさん:
>ミューとの触れ合いの少なさ
たしかに、これも気になった部分でした。
キューとのび太とのふれあいを主眼にしており、またミューはのび太なしでも自立しているのはわかるのですが、同じタマゴから生まれた双子なのを考えると、あまりにミューの描写は少ないように感じました。
キューが自立して飛べるようになるヒントを、なにかミューからつかむといった形でも、もうちょっとやりようがあったのではないかと思います。
◆Unknownさん:
>世間がかなり大絶賛だったので、共感嬉しいです。
テレビCMによると、共感度96%だそうで、そうなると自分の方がちょっとずれているのかなあ、などと思ったりしてしまいます。
映画ドラえもんがヒットしている、と言う事実自体は、嬉しいことではあるのですが。