前回の続き。
・のび太の日本誕生
はじめて藤本先生が「制作総指揮」としてクレジットされた10周年記念作品。「日本の誕生」というスケールの大きさと、7万年前の雄大な自然描写が心地よい。原作にない映画オリジナルの演出で、やけに「ラーメンのおつゆ」への拘りが見られるが、これは芝山監督の拘りなんだろうか。
なお、原作の最終ページでは、ククルがウンバホとなったことが語られるが、これは単行本化時の描き足しであり、連載時にはない。だから、映画では触れられておらず、別れのシーンで終わることになる。描き足しによって、この作品が『チンプイ』とつながったわけだ。
ギガゾンビは原作だけだと、そんなに印象の強い敵ではないのだが、映画では永井一郎氏の好演によって、原作よりアクの強い敵役になったと思う。山田博士本人もノリノリで「ギガゾンビ」というキャラを演じている感が伝わってくる。
そう言えば、タイムマシンがしゃべるようになったのは、前作「パラレル西遊記」からだった。映画オリジナルで生まれた設定を、逆輸入したと言うことか。そのあたり、藤本先生は妙に律儀だ。
・のび太とアニマル惑星
ママが自然環境保護に目覚める話。今までになく、メッセージ性の強い作品となっている。原作と比べると、映画は最後の戦闘での絶望感が弱い感じがする。もっと、徹底的にニムゲに攻めさせても良かったのではないか。
原作にないアニメオリジナルの描写に、裏山のゴルフ場開発が中止になったと最後に触れている点がある。原作では、最後にママは登場していないが、ここははっきりさせておきたかったんだろう。
なお、「アニマル惑星」よりも後に描かれた短編エピソード「ドラえもんがいなくてもだいじょうぶ!?」にて、10年後の世界が登場しており、自然環境がいい方向に向かったことが描かれている。藤本先生も、自然保護のテーマについては気になっていたのかな。
本作には、前年の「のび太の日本誕生」でククルを演じた松岡洋子さんがまた出演しているが、その役が「豚の少年」という端役なのが、何とも言えない。映画ドラえもんで、メインのゲストキャラの翌年に端役を演じた例は、他にはないのでは。
・のび太のドラビアンナイト
本作の導入となる、絵本入りこみぐつで入ったアラビアンナイトの世界が現実とつながっていると言う設定は少し苦しい気もするが、そんなこともあるかもと思った方が、夢があっていいのかもしれない。
敵役として登場するアブジルとカシムは、これまでの映画ドラえもんの敵と比べると小者だが、シンドバットが自力で倒せる相手と言うことで設定されたのだろう。強大な敵が出てきそうな世界観でもない気もするが。
シンドバットについては『T・Pぼん』でも描かれているし、藤本先生がいかにも好きそうなテーマだ。そう言えば、のび太役の小原乃梨子さんは以前にテレビアニメ『アラビアンナイト シンドバットの冒険』で主役のシンドバットをやっていた。いろいろとアラビアンナイトに縁があるのだなあ。
・のび太と雲の王国
「のび太とアニマル惑星」に続いて自然保護をテーマにしており、過去の短編エピソードのキャラも登場するなど、『ドラえもん』におけるこのテーマの集大成的作品となっている。作中では天上人や密猟者たちと対立はするが、明確な敵という感じではない。
本作では、「さらばキー坊」に登場したキー坊や、「ドンジャラ村のホイ」に登場したホイ達小人族が再登場している。ホイの声は、テレビ版と同じ松尾佳子さんだが、キー坊は成長して大人になっているため、テレビ版と声優は異なる(テレビ版では島本須美さん)。
フィルムコミックのあとがきによると、「正義は天上人にあり、悪いのは地上人」なので、描きにくかったと藤本先生は語っている。それはそうなのだが、個人的には天上人はジャイアンやスネ夫が感じたように「お高くとまっていていやな感じ」という印象だ。正しければ何をしてもいいというわけじゃないんだよな。
そんな天上人に対抗するためにドラえもんは「雲もどしガス」を用意して、それを密猟者たちに悪用されたため、エネルギー州は消滅した。じゃあ密猟者が悪役なのかというと、そんな感じもしない。悪役としては小者過ぎるのと、あくまで地上人の論理(悪人ではあるが)で動いているのに過ぎないせいだろう。
原作の最終ページで、天上人達は植物星へと旅立ち、天上世界は「からっぽ」になってしまう。大長編ドラえもんでいちばん寂寥感の漂うエンディングだ。この最終ページがあったからこそ、原作としての独自性が出たように思う。石頭のドラ特攻は、映画版からの逆輸入なので。
原作も映画も、ガスタンクの破壊はドラの石頭特攻だが、「ぼくには石頭という、最後の武器があった!!」というドラのセリフは原作のみ。芝山監督は、「何であれに気付かなかったのだろう」と、このセリフを映画の時点で入れられなかったことを悔やんでいた(「ネオ・ユートピア」会誌19号より)。
・のび太とブリキの迷宮
高度に発達した文明社会で人間がロボットに取って代わられるという展開は、藤子先生のデビュー単行本「UTOPIA 最後の世界大戦」を思わせる。ある意味、そのリメイクと言える。メルヘンチックな世界観であるが、内容は重いものがある。
本作では、ナポギストラーの渋すぎる声が印象に残る。さすがは森山周一郎氏だ。あの声での「イートーマキマキ」は実に笑える。声と言えば、ミニドラはエンディングクレジットになかったが、おそらく佐久間レイさんが二役をやっていたんだろう。
フィルムコミックのあとがきは、ひたすらアイディアを生み出す苦しみについて書かれていて、この時の藤本先生の心境を想像すると、実に興味深い。映画ドラえもんも14作目になって、本気で次はどうしようと悩んでいたんだろうな、きっと。
・のび太と夢幻三剣士
短編ドラえもんでさんざん描かれた「夢」ものの集大成。「かくしボタン」によって夢と現実の逆転が起こり、今までの異世界とは一風変わったムードのある冒険が描かれている。どこまでが夢カセットによるもので、どこからがのび太たちの意思によるものなのか、はっきりしないのが怖い。
フィルムコミックあとがきによると、当初の構想では「夢の暴走」を描く予定だったとの事で、トリホーが現実世界に出てくるあたりは確かにそれを想定して描かれていたのだろう。結局、夢は夢と言うことで話がまとまったが、それでも映画版ラストでのみ描かれているお城のような学校は、「現実世界への夢の影響」を表したものと言える。
本作は声優が豪華だ。妖霊大帝オドロームに家弓家正さん、龍に石丸博也さん、スパイドル将軍に屋良有作さん、等々。個人的には、神山卓三さん声の熊が「そうでがんす」と言ってくれるだけで、もう感涙だ。
・のび太の創世日記
この作品では、のび太達は「神様」として、一歩引いた立場で新世界の歴史を眺めてゆく。時代ごとのエピソードが描かれていくので、大長編と言うよりは短編のオムニバス形式に近く、映画ドラえもんとしては他にない味わいを持った作品だ。各時代ごとのエピソードがつながっていく作品なので、長編作品としての盛り上がりにはやや欠ける感がある。のび太の作った地球なので、変な方向に進化してしまったというのは、ドラえもんらしくて好きな展開ではあるのだが。
本作にも、色々なドラえもんの道具が登場するが、個人的に好きなのが「伝書バット」だ。バットに羽を付けただけの安直なデザインとネーミングセンスがすばらしい。こういうバカバカしい(褒め言葉です)道具は、大好きだ。
・のび太と銀河超特急
藤本先生が「制作総指揮」として完成させた最後の作品。ドリーマーズランドのアトラクションに多く時間が割かれており、特に最初のダーク・ブラック・シャドウ団(この安直なネーミングもいい味だ)の襲撃にまつわるエピソードは、「映画になるとかっこいい」のび太の存在など、映画ドラえもん自体のパロディみたいになっていて面白い。
本作では、西部劇の星での活躍や最後のヤドリ天帝との対決など、のび太の格好良さがクローズアップされている。前作ではほぼ神様として歴史を見守るだけだったのび太を、その反動のように思いっきり活躍させたと言うことだろうか。特に、最後の対決はのび太らしからぬ落ち着き様で、やけに頼もしさがある。
原作は、最後「巻き」で終わらせたような印象がある。映画ではちゃんと描かれたアストン達との和解のシーンがないのは、残念なところだ。そこは当然、単行本で加筆されるものと思っていたが、実際にはその部分の加筆はなかった。それだけ、藤本先生の体調が悪かったのだろう。てんとう虫コミックスのカバーイラストも藤子プロの作画になってしまったし、加筆も少なかった(ヤドリ天帝との対決シーンが少し変わっただけ)。藤本先生が亡くなる直前に出た単行本だけに、仕方がないところか。
・のび太のねじ巻き都市冒険記
藤本先生の遺作となった作品。本作に登場する「ホクロ」の存在は、どんな悪人にも良心はあると言うことを表していたのだろう。結果的に大長編ドラえもんの最終作となったが、造物主とも言える「種まく者」の登場により、最終作らしい作品になった。
原作は、連載第3回までが藤本先生の下絵より描かれて、第4回以降は遺されたアイディアノートなどより藤子プロによって描かれた。はたして、どこまで藤本先生の意図していた展開となったかはわからないが、作品をまとめ上げた方々には敬意を表したい。
連載が始まった時は、第1回を読んで「なんだ、これは」と思ったものだった。明らかにそれまでの藤本先生の絵とは違うタッチで、何事が起きたのかと思った。実際には、カラーページのペン入れはされており、よく見ればそれは確かに藤本先生の絵であったのだが。当時は、藤子プロによる作画になったことまでには頭が回らず、何か漠然といやな予感がしていたのだが、残念なことにそれは現実となった。連載第3回の下絵を遺して、藤本先生が亡くなられたのだ。当時の衝撃は、本当に大きなものだった。
遺されたアイディアノートは色々なところで紹介されているが、それを見る限りは雑多なアイディアの断片を書き留めた感じで、良く話がまとまったと思わずにはいられない。芝山監督が展開について話を聞いていたそうなので、そちらも合わせてまとめられたのだろうが。
以上、「のび太のねじ巻き都市冒険記」までの18作の感想をまとめた。
今回、約一ヶ月間という短い期間の中で18作を立て続けに観たことで、どのように映画ドラえもんが作られていき、そしてどのように変わっていったかがよくわかったように思う。貴重な体験だった。
願わくば、WOWOWには次は同時上映作品のHDリマスター版をやって欲しい。もちろん、A先生の作品も含めてだ。高画質でよみがえる「怪物ランドへの招待」なんて、考えただけでわくわくしてくる。
・のび太の日本誕生
はじめて藤本先生が「制作総指揮」としてクレジットされた10周年記念作品。「日本の誕生」というスケールの大きさと、7万年前の雄大な自然描写が心地よい。原作にない映画オリジナルの演出で、やけに「ラーメンのおつゆ」への拘りが見られるが、これは芝山監督の拘りなんだろうか。
なお、原作の最終ページでは、ククルがウンバホとなったことが語られるが、これは単行本化時の描き足しであり、連載時にはない。だから、映画では触れられておらず、別れのシーンで終わることになる。描き足しによって、この作品が『チンプイ』とつながったわけだ。
ギガゾンビは原作だけだと、そんなに印象の強い敵ではないのだが、映画では永井一郎氏の好演によって、原作よりアクの強い敵役になったと思う。山田博士本人もノリノリで「ギガゾンビ」というキャラを演じている感が伝わってくる。
そう言えば、タイムマシンがしゃべるようになったのは、前作「パラレル西遊記」からだった。映画オリジナルで生まれた設定を、逆輸入したと言うことか。そのあたり、藤本先生は妙に律儀だ。
・のび太とアニマル惑星
ママが自然環境保護に目覚める話。今までになく、メッセージ性の強い作品となっている。原作と比べると、映画は最後の戦闘での絶望感が弱い感じがする。もっと、徹底的にニムゲに攻めさせても良かったのではないか。
原作にないアニメオリジナルの描写に、裏山のゴルフ場開発が中止になったと最後に触れている点がある。原作では、最後にママは登場していないが、ここははっきりさせておきたかったんだろう。
なお、「アニマル惑星」よりも後に描かれた短編エピソード「ドラえもんがいなくてもだいじょうぶ!?」にて、10年後の世界が登場しており、自然環境がいい方向に向かったことが描かれている。藤本先生も、自然保護のテーマについては気になっていたのかな。
本作には、前年の「のび太の日本誕生」でククルを演じた松岡洋子さんがまた出演しているが、その役が「豚の少年」という端役なのが、何とも言えない。映画ドラえもんで、メインのゲストキャラの翌年に端役を演じた例は、他にはないのでは。
・のび太のドラビアンナイト
本作の導入となる、絵本入りこみぐつで入ったアラビアンナイトの世界が現実とつながっていると言う設定は少し苦しい気もするが、そんなこともあるかもと思った方が、夢があっていいのかもしれない。
敵役として登場するアブジルとカシムは、これまでの映画ドラえもんの敵と比べると小者だが、シンドバットが自力で倒せる相手と言うことで設定されたのだろう。強大な敵が出てきそうな世界観でもない気もするが。
シンドバットについては『T・Pぼん』でも描かれているし、藤本先生がいかにも好きそうなテーマだ。そう言えば、のび太役の小原乃梨子さんは以前にテレビアニメ『アラビアンナイト シンドバットの冒険』で主役のシンドバットをやっていた。いろいろとアラビアンナイトに縁があるのだなあ。
・のび太と雲の王国
「のび太とアニマル惑星」に続いて自然保護をテーマにしており、過去の短編エピソードのキャラも登場するなど、『ドラえもん』におけるこのテーマの集大成的作品となっている。作中では天上人や密猟者たちと対立はするが、明確な敵という感じではない。
本作では、「さらばキー坊」に登場したキー坊や、「ドンジャラ村のホイ」に登場したホイ達小人族が再登場している。ホイの声は、テレビ版と同じ松尾佳子さんだが、キー坊は成長して大人になっているため、テレビ版と声優は異なる(テレビ版では島本須美さん)。
フィルムコミックのあとがきによると、「正義は天上人にあり、悪いのは地上人」なので、描きにくかったと藤本先生は語っている。それはそうなのだが、個人的には天上人はジャイアンやスネ夫が感じたように「お高くとまっていていやな感じ」という印象だ。正しければ何をしてもいいというわけじゃないんだよな。
そんな天上人に対抗するためにドラえもんは「雲もどしガス」を用意して、それを密猟者たちに悪用されたため、エネルギー州は消滅した。じゃあ密猟者が悪役なのかというと、そんな感じもしない。悪役としては小者過ぎるのと、あくまで地上人の論理(悪人ではあるが)で動いているのに過ぎないせいだろう。
原作の最終ページで、天上人達は植物星へと旅立ち、天上世界は「からっぽ」になってしまう。大長編ドラえもんでいちばん寂寥感の漂うエンディングだ。この最終ページがあったからこそ、原作としての独自性が出たように思う。石頭のドラ特攻は、映画版からの逆輸入なので。
原作も映画も、ガスタンクの破壊はドラの石頭特攻だが、「ぼくには石頭という、最後の武器があった!!」というドラのセリフは原作のみ。芝山監督は、「何であれに気付かなかったのだろう」と、このセリフを映画の時点で入れられなかったことを悔やんでいた(「ネオ・ユートピア」会誌19号より)。
・のび太とブリキの迷宮
高度に発達した文明社会で人間がロボットに取って代わられるという展開は、藤子先生のデビュー単行本「UTOPIA 最後の世界大戦」を思わせる。ある意味、そのリメイクと言える。メルヘンチックな世界観であるが、内容は重いものがある。
本作では、ナポギストラーの渋すぎる声が印象に残る。さすがは森山周一郎氏だ。あの声での「イートーマキマキ」は実に笑える。声と言えば、ミニドラはエンディングクレジットになかったが、おそらく佐久間レイさんが二役をやっていたんだろう。
フィルムコミックのあとがきは、ひたすらアイディアを生み出す苦しみについて書かれていて、この時の藤本先生の心境を想像すると、実に興味深い。映画ドラえもんも14作目になって、本気で次はどうしようと悩んでいたんだろうな、きっと。
・のび太と夢幻三剣士
短編ドラえもんでさんざん描かれた「夢」ものの集大成。「かくしボタン」によって夢と現実の逆転が起こり、今までの異世界とは一風変わったムードのある冒険が描かれている。どこまでが夢カセットによるもので、どこからがのび太たちの意思によるものなのか、はっきりしないのが怖い。
フィルムコミックあとがきによると、当初の構想では「夢の暴走」を描く予定だったとの事で、トリホーが現実世界に出てくるあたりは確かにそれを想定して描かれていたのだろう。結局、夢は夢と言うことで話がまとまったが、それでも映画版ラストでのみ描かれているお城のような学校は、「現実世界への夢の影響」を表したものと言える。
本作は声優が豪華だ。妖霊大帝オドロームに家弓家正さん、龍に石丸博也さん、スパイドル将軍に屋良有作さん、等々。個人的には、神山卓三さん声の熊が「そうでがんす」と言ってくれるだけで、もう感涙だ。
・のび太の創世日記
この作品では、のび太達は「神様」として、一歩引いた立場で新世界の歴史を眺めてゆく。時代ごとのエピソードが描かれていくので、大長編と言うよりは短編のオムニバス形式に近く、映画ドラえもんとしては他にない味わいを持った作品だ。各時代ごとのエピソードがつながっていく作品なので、長編作品としての盛り上がりにはやや欠ける感がある。のび太の作った地球なので、変な方向に進化してしまったというのは、ドラえもんらしくて好きな展開ではあるのだが。
本作にも、色々なドラえもんの道具が登場するが、個人的に好きなのが「伝書バット」だ。バットに羽を付けただけの安直なデザインとネーミングセンスがすばらしい。こういうバカバカしい(褒め言葉です)道具は、大好きだ。
・のび太と銀河超特急
藤本先生が「制作総指揮」として完成させた最後の作品。ドリーマーズランドのアトラクションに多く時間が割かれており、特に最初のダーク・ブラック・シャドウ団(この安直なネーミングもいい味だ)の襲撃にまつわるエピソードは、「映画になるとかっこいい」のび太の存在など、映画ドラえもん自体のパロディみたいになっていて面白い。
本作では、西部劇の星での活躍や最後のヤドリ天帝との対決など、のび太の格好良さがクローズアップされている。前作ではほぼ神様として歴史を見守るだけだったのび太を、その反動のように思いっきり活躍させたと言うことだろうか。特に、最後の対決はのび太らしからぬ落ち着き様で、やけに頼もしさがある。
原作は、最後「巻き」で終わらせたような印象がある。映画ではちゃんと描かれたアストン達との和解のシーンがないのは、残念なところだ。そこは当然、単行本で加筆されるものと思っていたが、実際にはその部分の加筆はなかった。それだけ、藤本先生の体調が悪かったのだろう。てんとう虫コミックスのカバーイラストも藤子プロの作画になってしまったし、加筆も少なかった(ヤドリ天帝との対決シーンが少し変わっただけ)。藤本先生が亡くなる直前に出た単行本だけに、仕方がないところか。
・のび太のねじ巻き都市冒険記
藤本先生の遺作となった作品。本作に登場する「ホクロ」の存在は、どんな悪人にも良心はあると言うことを表していたのだろう。結果的に大長編ドラえもんの最終作となったが、造物主とも言える「種まく者」の登場により、最終作らしい作品になった。
原作は、連載第3回までが藤本先生の下絵より描かれて、第4回以降は遺されたアイディアノートなどより藤子プロによって描かれた。はたして、どこまで藤本先生の意図していた展開となったかはわからないが、作品をまとめ上げた方々には敬意を表したい。
連載が始まった時は、第1回を読んで「なんだ、これは」と思ったものだった。明らかにそれまでの藤本先生の絵とは違うタッチで、何事が起きたのかと思った。実際には、カラーページのペン入れはされており、よく見ればそれは確かに藤本先生の絵であったのだが。当時は、藤子プロによる作画になったことまでには頭が回らず、何か漠然といやな予感がしていたのだが、残念なことにそれは現実となった。連載第3回の下絵を遺して、藤本先生が亡くなられたのだ。当時の衝撃は、本当に大きなものだった。
遺されたアイディアノートは色々なところで紹介されているが、それを見る限りは雑多なアイディアの断片を書き留めた感じで、良く話がまとまったと思わずにはいられない。芝山監督が展開について話を聞いていたそうなので、そちらも合わせてまとめられたのだろうが。
以上、「のび太のねじ巻き都市冒険記」までの18作の感想をまとめた。
今回、約一ヶ月間という短い期間の中で18作を立て続けに観たことで、どのように映画ドラえもんが作られていき、そしてどのように変わっていったかがよくわかったように思う。貴重な体験だった。
願わくば、WOWOWには次は同時上映作品のHDリマスター版をやって欲しい。もちろん、A先生の作品も含めてだ。高画質でよみがえる「怪物ランドへの招待」なんて、考えただけでわくわくしてくる。
この当時はほとんど毎年、映画館まで観に行ったのを今でも鮮明に覚えています。
映画上映終了後もスペシャルでテレビで放送されますが、それでも映画館でドラえもんを観るのは別格ですね。それに来場者全員にプレゼント進呈も良い思い出ですね。
マンガ史の局所的な年表をつくりました。
https://s3731127306973.hatenadiary.com/entry/2020/04/22/213625
「さようなら、ドラえもん」の前後になにがあったのか知りたくて作りました。
作っていて気がついたのですが、『ドラえもん』の打ち切りが本格的に検討されたはずの1974年1月、『ドラミちゃん』シリーズがはじまっていたんですね。この中に収録されている話には、「海底ハイキング」「公園のネッシー」など、のちの大長編につながる話がある。
時間があれば、このへんをていねいにしらべてみる予定です。
90年代は、一時期劇場に行かずにテレビですませることもあったくらいなのですが、その頃の作品を今回のWOWOW放送版では、劇場と同じ画角で観ることができたので、劇場のような雰囲気があってよかったです。
来場者全員プレゼント、一時期バリエーションが多くなりすぎたのも、今では笑い話ですね。私がもらったものは、すべて取ってあります。
1974年に打ち切りが検討されたという説は、テレビ番組などで紹介されて広まったと思いますが、個人的にはやや眉唾かなと思っています。テレビアニメも終わっており、時期的には全く話がなかったと言うことはなさそうですが。
ただ、「さようなら、ドラえもん」にしても、掲載号に「次号に続く」とはっきり書かれていて、別に読者の反響で再開を決めたわけではありません。
「さようなら、ドラえもん」は、「帰ってきたドラえもん」とセットで、藤本先生なりの四月バカジョークだったのではないかと個人的には考えています。
「さようなら、ドラえもん」のすこし前に、編集部で打ち切りが検討されたらしいが、結局連載継続という結論になった。
これが、わたしたちが知っている『ドラえもん』の歴史ですよね。
ところが、いろいろ資料を読んでみても、一貫した説明がみつからない。
「さようなら、ドラえもん」という作品はその性格上、F先生だけの判断だけでなく、編集部の判断もないと発表できないですよね。
それなのに、当時の編集部が、そのときどきで、どういう判断をしていたのか、よくわからない。念のために資料をもう一度確認してみても、すべてF先生の独断だった、とは書いていない。歴史の空白となっている部分を、少しでも明らかにしたい、ということで、上の表をつくりました。
ご理解いただけるとさいわいです。