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銀河鉄道拾遺

SF、かふぇ及びギター

今も思い出の中を走ってる 12

2021-03-30 23:09:22 | 今も思い出の中を走ってる
 2017~8年に城里町と水戸市共同で催された旧茨城鉄道茨城線、通称「茨鉄線」の展示の模様を自分の思い出取り交ぜてシリーズで記述したが、ずっと離れてその第12回。
 全線の中枢駅であり、一時は水浜電車も乗り入れていた上水戸(かみみと)駅、先ごろまでスーパーマーケットの敷地だったが閉店により店舗が撤去されたのだ。駐車場の舗装も全部剥がされ、一面に土が覗いている。
 嘗てこの上に線路が敷かれ駅舎を始めとする数々の建屋が立ち並び、地方交通の要所を為していた。明るい朱色の屋根瓦、赤いポスト、クリーム色の電話ボックス、すべてが懐かしい。おそらく此処もマンションなんかを建ててしまうのだろう、広々とした一角を眺められるのは屹度これが最後と思い、数枚を携帯に収めた。


R123からT字路で折れた先が旧上水戸駅。当時の駅前ロータリーは現在もそれと判る。


向こうに見えるコンクリパネルは恐らく当時のままだ。
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展示二つ

2018-04-09 12:31:46 | 今も思い出の中を走ってる
繁忙期と花粉の絨毯爆撃で未だ立ち直れずにいる私ですが、何とか足を運んでみました。

「生誕100年 清宮 質文(せいみや・なおぶみ)あの夕日の彼方へ」   茨城県近代美術館

写真を見るとナイスな感じの方で、画家然としたところが全くない。明日が最終日という土曜、肌寒い日であったが人気が高いのかお客さんは一杯。何号なんて大きな画こそないが、点数は多い。見切れない。ちょっとさっさか観てしまったが、今の自分とちょうど同じ年の作品があり、そのだいぶ後にその10年後の作品があった。深化とかそういうことではないが、版画家にはちゃんとテーマがあったらしく、自分も見つけんとアカンやろなあ。東京のひとだったが、墓は所縁の常盤共同墓地に、ってそれ三夜尊とこだよね?探しちゃいました。

総集編 茨城鉄道 第2期 ー今も思い出の中を走ってるー  期間:平成30年4月1日(日)~5月27日(日) 水戸市立博物館

もう暫く前からやっていたが中々行けなくて(言い訳)。昨年夏に城里町の役場と温泉施設で展示されたのの第2期、所蔵の鉄道遺品と合わせ総集編にふさわしい展示であるが、ちょっと狭いかも。それでもこの展示を聞きつけた、主にお年をお召しになった方々が次々と入って来られて、みな思い出に浸っていた。会期は長いので是非みなさんも。それと今回はオマケあり。【図録】茨城鉄道ー今も思い出の中を走ってるー、である。頒布価格500円、A4判18ページのちょっとした冊子だ。各駅舎及び車両の写真と、茨城鉄道沿線の現況調査の成果も掲載されており、関連書籍が少ない茨城鉄道に関する貴重な記録である。早いもの勝ち?
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今も思い出の中を走ってる 11

2017-08-06 20:10:58 | 今も思い出の中を走ってる
土曜午前、城里町役場で催されてる茨城鉄道の展示に再び行った。気になる写真がある。上水戸(かみみと)駅から常盤小学校に向かう通学路には踏切がふたつある。そのひとつを学童が大勢で渡っている。夏休みのプール登校か、付添いの母親たちは日傘を差している。その集団の最前列のひとりをよく知ってるような気がする。。。要するに、ソレ、オレ?念のため携帯で撮って親に見せてみたが、ちょっとハッキリしなかった。とにかく幸せな時代の幸せな写真だから、いいとしよう。添付したのはそれじゃなくて、藤井(ふじい)駅から那珂川まで敷かれていた砂利採取線が、西田川を渡った橋。もちろん掛け替えられて今は立派なコンクリ製だが、橋の名前に当時が偲ばれる。この上をトロッコが行き交っていたことだろう。

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今も思い出の中を走ってる 10

2017-07-22 21:29:06 | 今も思い出の中を走ってる
水戸市立博物館と城里町の共催展「茨城鉄道 第Ⅰ期」。きょうは第二会場であるホロルの湯へお邪魔した。ちなみに風呂には入らなかった。こちらの展示では、全駅の写真と線路図の付いた大判パネルの路線図がすばらしい。これによると終点御前山(ごぜんやま)駅には乗降線と機廻し線(先頭の機関車を列車の反対側に移動させるための線路)を半周するように貨物線が敷かれていたこと(確かにスペースは十分だが、本当か?!)、藤井(ふじい)駅から那珂川に向かうトロッコ線跡がおよそ確認できたこと、砂利採取用のトロッコ線は阿波山(あわやま)駅にも存在したこと等々、知らなかった話がどんどん出てくる。先の動画はプロジェクターでロビーの壁におおきく映し出されていた、映像が揺らめく様がいかにも記憶のヴェール越しという感じで、ただただ呆けるように見ていた。
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今も思い出の中を走ってる 9

2017-07-21 12:36:09 | 今も思い出の中を走ってる
茨大前(いばだいまえ)方面から上水戸(かみみと)に進入するとき、最初のポイントで分れた線路がやんわり右手へ折れて行く。際には三本のポプラ、うち一本は今も見ることができる。これが駅の裏手にあった製材所への引き込み線である。線路延長2~300メートルといった所であろうか。7/18付のブログでは触れなかったが交差点Bから上水戸駅Cに通ずる道路があって、引き込み線はこれを踏切りで渡り、製材所の敷地内へ消えてゆく。駅のそばを通りかかると、たまにディーゼル機関車が入れ替え作業を行っていた。製材所から引き出した貨車を構内に留置するには、件のポイントから本線に入り、一旦停止して構内に折り返す。そんな作業が昼下がりに行われていた、今となっては正に白昼夢である。
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今も思い出の中を走ってる 8

2017-07-20 20:33:09 | 今も思い出の中を走ってる
上水戸(かみみと)駅は大きな駅だった。駅舎に隣接して木造の大型倉庫があり、貨車から積み降ろしが出来るよう、立派な側線が設えてあった。小ぶりだが蒸気機関車用の給水塔も立ってたし、ヤード(操車場)があった関係で乗降用のホームが尽きても駅の果て迄まだかなりの距離があった。そんなわけで線路が駅に進入するいちばん最初のポイント(線路が二股に分岐する装置)は駅舎からかなり離れている。これを操作するため、錯綜するレールの隙を縫ってポイント操作用のロッドが一筋伸びていた。そしてこれを操作する音がまた、結構大きい。駅構内にこだました、と言っても過言ではないだろう。あれはロッドをジョイントで繋いでいたのだ、だからガシャンガシャンという金属音が連続して地を這っていったのだ。
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今も思い出の中を走ってる 7

2017-07-19 12:38:50 | 今も思い出の中を走ってる
ここから暫くは、うちの周辺を走っていた茨城鉄道の様子を話すことにしよう。昨日、話に上った曙町(あけぼのちょう)は停留所扱いの駅。上水戸(かみみと)駅の標識は、茨大前(いばだいまえ)←上水戸→西原町(にしはらちょう)となっていて、ちょっと無視されてるのが最寄駅だけに悲しい。むかし、茨城大学附属中の生徒たちはここに停車した車両からぞろぞろと降りてきて、学校に向かって歩いていった。中坊もあの頃は大人びて見えたもんだ。一面しかないホームの背面が銀星(ぎんせい)映画館であり、よく怪獣映画を観に行った。映画「日本海海戦」では沖を通過するバルチック艦隊の報が方々から伝わって、緊張感が増してゆくシーンが好きだった。館内に中華料理屋があり、上映中にラーメンをすすってる客もいたと思う。なお、この映画館は現在も営業を続けている、立派な現役である。興味のある方は是非に。   小学校の低学年だったころ、ほうきと塵取りを持って清掃に出掛けたことがあった。きっと胸に崇高な目的が宿ったのであろう、でも実行に移すとハズイものはハズイ、父親に付き合って貰ってもそれらは消えず、ほんのひと掃きふた掃きして一目散に家に帰った。両親がこのことをすっかり忘れているので、かろうじて私は生き永らえている。
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今も思い出の中を走ってる 6

2017-07-18 12:37:46 | 今も思い出の中を走ってる
小学校へ通う片道2キロの通学路には、ふたつの踏切りが存在した。ふたつ越さないと学校に辿り着かない。けれどそれらは同じ鉄道のものなのだ。   四角いかたちを思い浮かべてほしい。右下の点Aが曙町(あけぼのちょう)停留所。銀星映画館の裏手にある。右上の点Bは地元で五差路と呼ばれる交差点、左下Cが茨城鉄道の中心だった上水戸(かみみと)駅で、残り左上Dが二番目の踏切、これを渡ると常盤小学校だ。学校へはA→B→Dの順に進む。もうお判りと思うが、Cに位置する上水戸駅で鉄道は90度その向きを変えるのだ、国鉄と接する駅を本当は水戸駅にしたかったが、住民の反対でやむなく赤塚駅としたことが原因と聞いている。朝、踏切りDの手前50メートルくらいで、赤塚行きの三両連結を見送るのが習慣だった。
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今も思い出の中を走ってる 5

2017-07-16 22:13:34 | 今も思い出の中を走ってる
話が桂村から始まったので、次は城北(じょうほく)⇔常陸岩船(ひたちいわふね)間の大ループについて触れる。而して鉄道は田んぼを渡り、桂村の中心、阿波山(あわやま)駅へと進入するが、大ループの名を奉じたのは他ならぬ私だから文献等に何も出ては来ない。それはともかくとして、那珂川の下流域に沿って平地を進む茨城鉄道にトンネルはない。しかし大河川の形成する河岸段丘は侮り難い、25キロの線区中それなりの坂が連続する。その最たる例がこの区間である。川を遥かに見下ろす高台にある城北駅を出た線路は大きく右に湾曲する台地のへりに沿い、川面とさして変わりない平地へと降りてゆく。線路の右手は藪に覆われた崖、そして坂を暫く下ったところで茂みの向こうにぬっと現れるのが送電鉄塔だ。丘を離れた路盤は途中で切れ、高さを失うまいと築かれた築堤は依然右カーヴの中途にあり尚も北へ向かおうとするが、一路西進する送電線はここで線路をオーバークロス、次の鉄塔を経て丘の稜線を越えて行く。城北駅を発った列車の進行方向右に座す者はジョイントを渡る列車がゆるりと坂を下るのを感じながら鉄の巨人の連なるを見、やがてローリングしつつ築堤を右へカーヴするその上空に、きらめき跨ぎゆく高圧線を仰ぎ見たことだろう。また、田の中程に位置し俯瞰する者は、丘の左手の小高い位置に姿を現した列車が高圧線と戯れながらゆるゆると右手へ下りゆく姿を眺めたことだろう。。  ところで以上が妄想に過ぎないことが展示ではっきりした。大ループを走行する列車の見事な写真(カーヴで車体が内側に傾いでる)に鉄塔のての字も見えないのだ。城北町の台地の北を掠める鉄塔群の設置時期に差があるのか、いや廃止直前に二つの鉄路の邂逅はあったかもしれない。。。

中央を縦にうねっと走るラインが線路跡。「航空写真」でどうぞ。
http://tower.30maps.com/map/110232
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今も思い出の中を走ってる 4

2017-07-14 12:40:46 | 今も思い出の中を走ってる
一年前に練習してたヘリオトロープ・ブーケを久しぶりに取り出して、みたいな話は置いとくとして、茨城鉄道を語るなら貨物列車に遭遇した旧;桂村の件がオープニングにふさわしい。父が公務員だった関係で冬は塩原にあった保養所に泊まりに行くのが習わしだった。私は結構長いこと、旅行というのは塩原に行くことだと思ってた。うちには車が無かったので父が同僚から借り出したやつで、一家四人がドライブに出た。朝早くだったのか、それとも夕方遅くに出たのか、その辺も既に定かでないが、クルマが桂村に差し掛かった辺りで踏切りに足止めされた。朝もやから抜け出てきたのか、宵闇から現れたのか、そこらもいまいち曖昧であるが、左手からディーゼル機関車がぬっと現れ、そして右手に消えていった。いま思えば、おそらくあれはロッド駆動のケキ102であったろうと推測される。展示で知ったのだが、当時R123はまだ整備されていなかったとのことで、現在の国道から旧桂村役場方面に逸れたT字路(線路跡だった路盤の片側が崩されたため、現在はそうなっている)がその場所と云うことになる。水戸の街を離れて山方面に向かうと藤井で最初に線路と接触するのであったが、現在R123になっている所が実は旧線路跡で、道路はその手前で一旦藤井川を橋で渡って集落を抜け、その後那珂西の丘に上っていく。だから藤井川付近に踏切りは無かったのではないかな?なお塩原には化石園という展示施設があって、入り口に模型鉄道のレイアウトがあったのを記憶している。
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今も思い出の中を走ってる 3

2017-07-13 17:44:50 | 今も思い出の中を走ってる
先日、城里町役場で展示を見てきたわけだが、かつて茨城鉄道を利用された方々から寄せられた思い出を編集した小冊子が頒布されていた。微笑ましいものから駅で機銃掃射を受けたという戦時体験まで掲載されていて、一読の価値がある。4月末が寄稿の締め切りだったかな?実は私も応募しようと思っていたのだが、グータラな性格につき結局見送ってしまったのだ。今回の展示は折角の機会でもあり(水戸市立博物館は1987年に同様の展示を行っている。この年の3/31、関東鉄道筑波線が廃止となっている。)、こっそり書き付けてみよう。なにしろウロ覚えの上に妄想が混じり、体験記のハンチューを軽々はみ出す無責任さ故、ブログに書く位が丁度よいのだ。では、そのうち
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今も思い出の中を走ってる 2

2017-07-12 12:47:27 | 今も思い出の中を走ってる
過去のブログから、茨城鉄道茨城線について記述したものをチョイスしました。読んで見て下さい。結構、恥ずかしいのもあるな。で、しばらくは茨城線に関する思い出を自分なりに綴っていこうと思う。

さようなら 2009.12.19
http://blog.goo.ne.jp/halcyon1772/e/e8834f76a4bcac14bb6f8017458a4482

ローカル線に乗って 2010. 1.27
http://blog.goo.ne.jp/halcyon1772/e/ed6b41931d9f08bd4d0d17aa476d5a15

haunted heart 2010. 3. 6
http://blog.goo.ne.jp/halcyon1772/e/1c132de86c53d01c85b42fe375f4469e

遂に謁見 2014. 4.17
http://blog.goo.ne.jp/halcyon1772/e/0778d4eb4f759bfce02ae5b9ef51fbe9
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今も思い出の中を走ってる

2017-07-11 12:36:45 | 今も思い出の中を走ってる
土曜日午前中、水戸からR123で城里町方面へ。途中、那珂西の台地へ上り坂になるところで左の田んぼ道へ離脱。ここが茨鉄線の線路跡なのです。ゆっくり走って城里町の立派な役場へ。ロビーの衝立には何十枚もの写真が展示されている。目玉はなんといっても動画2本。廃線直前の大学前から赤塚駅まで行って折り返してくる様を撮った、なんとカラー映像。小学校に通う途中にあったガラス工場の煙突とガスタンクが窓から見えるシーンは感激です。もう一本はそれより少し前のもので、上水戸から御前山までピクニックに行く家族の記録。終着駅御前山で列車を待っているとディーゼル車が彼方に姿を現し、しずしずとホームに入線してくる。これに乗って水戸方面に折り返すのだが、車窓風景や車内のクロスシートでくつろぐ様子が見られるという、まさにお宝映像。ホロル館の方はまだ行ってないけど、どちらも8月いっぱい展示が続くので暫く通うことにします。帰りももちろん、線路跡を辿って帰ってきた。

http://www.town.shirosato.lg.jp/page/page003101.html
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ことし最大のイベント

2017-02-28 12:39:50 | 今も思い出の中を走ってる
昨年秋~冬は県北芸術祭一色という感じのライフであったが、此処で水戸市立博物館からお知らせ。

かつて赤塚駅ー御前山間を走り,昭和46年に廃線となった茨城鉄道線。博物館は,この茨城鉄道線に関する展覧会を,平成29年度に,城里町との共催で開催する予定です。それに伴い,茨城鉄道線の写真や映像,切符などのほかに,茨城鉄道線にまつわる思い出も募集します。お心当たりのある方は,ぜひ博物館へお問い合わせください。

【募集するもの】1.茨城鉄道線の車両,駅舎,沿線風景などの写真・映像 2.茨城鉄道線の切符,列車で使っていたもの(部品・銘板)など 3.茨城鉄道線にまつわる思い出

期限は平成29年4月30日となっている。ウチには現物は何もないので、ひとつ投稿をしようかと考えている。ここからすべてが始まったのだ、何とかせねば。

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貯木場

2012-04-20 12:39:33 | 今も思い出の中を走ってる
家からすぐのところに建材屋のでっかい倉庫があったが、先の震災で使用不能となり一年間捨て置かれていた。これが最近、重機4台による大取り壊しの末、建物は跡形もなく撤去され、真っ新の更地になってしまった。この一角が平らになってるのを見るなんて、何十年ぶりだろう。ライブラリが幼少のころ、ここは貯木場であった。切り出されたそれこそ三抱えくらいありそうな木がうず高く積まれていた。少し向こうの国道を渡ると材木屋が道の両脇にあったし、少し離れた茨城鉄道上水戸駅の裏手には製材所があって、そこまで引込線が引かれていた。震災を機にあちこちの老朽家屋や施設が消え去っているが、その現場を見る度、記憶の糸がほどけたり、ああ、あそこはああなっていたのかと長年の謎が氷解したり。何にしろ街は姿を替えつつあるらしい
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