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ラヂオデパートと私

ロックバンド“ラヂオデパート”におけるギタリストとしての津原泰水、その幾何学的な幻視と空耳。

津原泰水の本棚

2012-04-02 16:45:00 | マルジナリア
 リブロ渋谷店にて先々月から先月いっぱい開催され、好評を得ました「津原泰水の本棚」。そこで配布されましたリーフレットの内容を、ここに転記します。
 実際に書棚を眺めることはせず、すべて記憶から引き出しておりますので、もし内容にまつわる勘違いなど御座いましたら、陳謝致します。

   ***

 好きな本を列挙しているときりがないので、基本的に一作家一作、二十代までに読んで「津原泰水」を形成してくれた本、という制約をみずから設けました。三十以降に読んだけれど、いまなお入手可能であることを知り、つい嬉しく……という本もすこし加わっています。
〈国内篇〉はまるで教科書の文学史年表のようなセレクション、〈海外篇〉はSFが結構な比率を占めるという、自分でも意外な結果となりました。まず父親が集めていた文学全集で小説に触れ、大学時代は「二日に三冊」のペースで海外SFを勉強していたことを思い出すに、順当な結果とも申せますが、よほど特殊な本を読み漁ってきたのだろうと期待なさっていた方々には、やや申し訳なく感じています。
「品切れ」によって挙げられなかった本につきましては、その作家の別の傑作を挙げ本来挙げたかった作品はコメントにて示すことにしました。――津原泰水

〈国内篇〉

『槐多の歌へる』村山槐多(講談社文芸文庫)
 槐多は存在そのものが詩なので、小説も日記も短歌も絵も、みな散文詩として面白く、そして物悲しい。
『文鳥・夢十夜・永日小品』夏目漱石(角川文庫クラシックス)
 神経症の人に神経症の文章はきわめて読み易い。「倫敦塔」辺りも佳いが「永日小品」が好きでならない。
『定本久生十蘭全集1』久生十蘭(国書刊行会)
 十蘭はぽかんと明るい。深刻さ抜きに大上段に構えていて、これがあの時代の空気だったのかと思う。「魔都」を是非。
『尾崎翠集成(上・下)』尾崎翠(ちくま文庫)
 本当は旧仮名で読んでもらいたいが、入手し易さでこちらを。「歩行」が僕のベスト。
『百日紅(上・下)』杉浦日向子(ちくま文庫)
 これ以上の北斎伝は、永久に描かれも書かれもしないだろう。
『残酷な神が支配する(全10巻)』萩尾望都(小学館文庫)
 比較的近作だが、偉大な作家の到達点としてこれを挙げる。
『澁澤龍彦初期小説集』澁澤龍彦(河出文庫)
 彼の小説は純粋な創作としてではなく、換骨奪胎の妙を愉しむべきもの。それを「マドンナの真珠」ほど磨き上げられたら、もはやケチの付けようがない。
『犬神博士』夢野久作(角川文庫)
 体裁の整えが面白さを殺ぐことが多々ある。本作は徹底して面白さを優先してある。
『蝶』皆川博子(文春文庫)
 短篇でも長篇でも頂点を極めた作家は滅多にいない。長篇なら何はともあれ『冬の旅人』を推す。
『完全復刻版 リボンの騎士(なかよし版)スペシャルBOX』手塚治虫(講談社)
『ジャングル大帝』とどちらにしようか迷った挙句、こちら。
『とらんぷ譚』中井英夫(創元ライブラリ)
 小学生の頃、雑誌「太陽」に載っていた数篇を読み、大学生になってから残りを読んだ。体質が近いらしく、水を飲むようにするすると読める。
『豊饒の海(全4巻)』三島由紀夫(新潮文庫)
 戯曲と迷ったが、『春の雪』と『天人五衰』の魅力には抗えなかった。
『旅のラゴス』筒井康隆(新潮文庫)
 小中学校時代、夢中になって読んだ作家の、目下最高傑作。
『雪の断章』佐々木丸美(創元推理文庫)
 基本的に同じ話ばかり書く人で、すなわち世に出た瞬間から完成形だったことになる。こういう人を天才という。
『警視庁草紙(上・下)』山田風太郎(角川文庫)
 忍者ものの痛快さは知れ亘っているが、明治ものには更に情感が溢れ、身も世もなく切なくなる。
『永遠も半ばを過ぎて』中島らも(文春文庫)
 照れとアフォリズムの文学。ユーモアのなんたるかを熟知した人。
『聖少女』倉橋由美子(新潮文庫)
 晩年の作品も佳いが、若いころ純粋にびっくりした作品を、正直に挙げる。
『半七捕物帖(全6巻)』岡本綺堂(光文社時代小説文庫)
 あらゆる捕物帖、そして時代劇の基盤となっていることが、もっと世に知られていい。
『小泉八雲集』小泉八雲(新潮文庫)
 改めて読むとその気品に愕かされる。ギリシャ生まれアイルランド育ちアメリカ経由の、日本の文豪。
『小川未明童話集』小川未明(新潮文庫)
 幼いころ「赤いろうそくと人魚」が好きでならなかった。長じてから読んで、やっぱり好きでならなかった。
『犬神家の一族』横溝正史(角川文庫)
 嘗ては圧倒的な『獄門島』派だったが、歌舞伎を観るようになってから、この芝居がかった面白さが解るようになってきた。
『乱れからくり』泡坂妻夫(創元推理文庫)
 造本そのものが魔術である『生者と死者』も、直木賞受賞作『蔭桔梗』も入手困難なのは、残念至極。もちろん本作も大傑作。こんな推理小説を書いてみたい、と僕に思わせた、唯一の推理小説。
『西遊妖猿伝(全16巻)』諸星大二郎(希望コミックス)
 案外に原作に忠実なのだが、それを現出させた奇蹟の画力に平伏する。もう、こういう面白い漫画しか読みたくないと思い、実際、あまり読まなくなってしまった。
『わたしは真悟(全7巻)』楳図かずお(小学館文庫)
 科学的にどう、なんて小さいことを考えてはいけない。欧米黄金期SFの勢いと感動を凌駕する、唯一の国産SF。
『東京のカサノバ(全2巻)』くらもちふさこ(集英社文庫)
 少女小説作家時代、少女文化を究めればここまで素晴しい、恥ずかしい仕事ではない、と固く信じさせてくれた作家の、きわめて少女漫画的な逸品。
『K』谷口ジロー(Action comics)
 なぜ登山もの? 面白いのだから仕方がないし、これを読まれればきっと、関川夏央と組んでの文学者ものや、『犬を飼う』にも辿り着いてくださることだろう。
『新版 絶滅哺乳類図鑑』冨田幸光(丸善)
 新版が出ていたことに愕いた。こういう本があるから、図鑑コーナーについつい足が向く。
『大誘拐』天藤真(創元推理文庫)
 筋書といい軽妙な語り口といい、とにかく面白かった記憶しかない。百年近く前に生まれた作家だというのが信じられない。
『竹久夢二(別冊太陽 日本のこころ20)』(平凡社)
 夢二のことは、グラフィック・デザイナー、装丁家としての彼を最も評価し、今も刺激を受け続けている。
『冥途・旅順入城式』内田百ケン(ちくま文庫)
 百ケンは随想も佳いが、そのつもりが小説になってしまった、というのが最も面白いと思う。文章の切れが素晴しい。
※津原註:ケンの字が文字化けを呼んでしまうので、片仮名で代用しました。
『銀の匙』中勘助(岩波文庫)
 清冽な本作も佳いが、本当は『鳥の物語』か『犬』を挙げたかった。より研究、評価されるべき作家だと思う。
『春昼・春昼後刻』泉鏡花(岩波文庫)
 いちばん面白かろうに、あんがい代表作として挙げられないこれを挙げる。
『久山秀子探偵小説選1』久山秀子
 本当は男性である。未だ無名の作家と云っていい。なにしろ版元が間違って別人の近影を載せている。作品? まあ〈隼お秀〉をお読みなさい、痛快無比だから。
『パノラマ島綺譚』江戸川乱歩(光文社文庫)
 乱歩で一冊、というと昔からこれを挙げている。「津原さんという人がよく分かった」と綾辻行人さんに云われたが、僕には未だその意味が分からない。
『山月記・李陵 他九篇』中島敦(岩波文庫)
 僕が書く短篇は、たいそう中島敦に似ていると思っている。むろん僕が真似をしているのだが、十代の頃から読み込みすぎて、どこにどこまで影響されたのかももはや分からない。
『刺青・秘密』谷崎潤一郎(新潮文庫)
 捻った選択にしようかと思ったが、ここに収録された数篇の、頑なな完成度をやはり好む。
『人間人形時代』稲垣足穂(工作舎)
 足穂は散漫に読まれるべき作家であって、それを熟知した造本に敬意を表する。
『浅草紅団・浅草祭』川端康成(新潮文庫)
 昭和初期の東京を描くとき、この文豪の記録的描写に大いに助けられてきた。感謝を込めて。
『虹色のトロツキー(全8巻)』安彦良和(中公文庫)
 歴史漫画の金字塔。
『帝都物語(全6巻)』荒俣広(角川文庫)
 看板に偽りなしのベストセラーは案外にして少ない。これは偽りなし。続刊を心待ちにしては夢中で読んだ。
『無能の人・日の戯れ』つげ義春(新潮文庫)
 つげの新作!? と当時でさえ驚いて手に取った。既に伝説の作家だった。より驚いたことに、つげ義春は進化を遂げていた。
『死の棘』島尾敏雄(新潮文庫)
 まさか実体験を基にしているとは思えない、冷静な構成と静謐な文章。影響を受けたと申し述べるもおこがましい気がする。
『東海道四谷怪談』鶴屋南北(岩波文庫)
 初めての歌舞伎は同じ南北の『繪本合邦衢』で、幕間に弁当を食べながら手の震えが止まらなかった。小説なる輸入文化を猿真似しているという劣等感が、一夜にして掻き消え、書くべきものが生じた。
『百億の昼と千億の夜』光瀬龍(早川文庫SF)
 日本でしか書かれえなかったSF、ここに在り。まさに不朽の名作。
『荷風随筆集(上・下)』永井荷風(岩波文庫)
 軽妙洒脱のなんたるかを体現している。いつ読んでも心地好い。
『十二支考(上・下)』南方熊楠(岩波文庫)
 熊楠の文業のなかでは、これがいちばん取っ付き易く読み解き易い。それでもまるで異界の百科辞典。
『大島弓子セレクション セブンストーリーズ』大島弓子(角川グループパブリッシング)
「金髪の草原」が読めるということで、この一冊。

〈海外篇〉

『ノーストリリア』コードウェイナー・スミス(ハヤカワ文庫SF)
 彼なかりせば現代のSFはありえなかった。なのに本名ではSFを批判していたという奇人中の奇人。
『10月はたそがれの国』レイ・ブラッドベリ(創元SF文庫)
「幻想と怪奇」の蠱惑を教えてくれた人。
『地球の長い午後』ブライアン・W・オールディス(ハヤカワ文庫SF)
 ガジェットこそSF。能弁にして無言の文学の体現。
『虎よ、虎よ!』アルフレッド・ベスター(ハヤカワ文庫SF)
 これがつまらないという人の顔を見てみたい。
『サキ短篇集』サキ(新潮文庫)
 時代が許すなら、僕はこういう人になりたかった。
『怖るべき子供たち』ジャン・コクトー(角川文庫)
 残念ながら『阿片』が手に入らない。わずか二週間で書かれたという本作も、むろん大傑作。じっくりと読んでほしい。
『口に出せない習慣、不自然な行為』ドナルド・バーセルミ(彩流社)
 入手可能と知って快哉を叫んだ。ぽかん、とさせられる快楽。
『逆転世界』クリストファー・プリースト(創元SF文庫)
 SFに於けるミステリ構造で、最も驚かされた作品。改めて脱帽。
『ナボコフ全短篇』ウラジーミル・ナボコフ(作品社)
 一冊の本としては高いが、死ぬまで読み続けられるのだから安いもの。
『完全な真空』スタニスワフ・レム(国書刊行会)
 レムでこれ? これでしょう。
『ハローサマー、グッドバイ』マイクル・コーニイ(河出文庫)
 翻訳されたコーニイはぜんぶ読んでいる。ジブリ好きにも村上春樹好きにも絶対に売れるから、ぜひ一切を復刊してほしい。
『詩人と狂人たち』G・K・チェスタトン(創元推理文庫)
『ポンド氏の逆説』と迷ったが、入手できるのはこちらだった。最初はとっつきにくいかもしれないが、じっくりと読み進むペースさえ掴めれば極楽。
『氷』アンナ・カヴァン(バジリコ)
 完璧な小説。
『シェリ』コレット(岩波文庫)
 通俗小説の金字塔。頁をめくる手が止まらないとは、こういう小説のことを云う。
『幸福の王子』オスカー・ワイルド(バジリコ)
 綺麗な本。果敢なる出版に敬意を表して、ワイルドではこの一冊を。
『夜の樹』トルーマン・カポーティ(新潮文庫)
 好きだ。
『暁の死線』ウィリアム・アイリッシュ(創元推理文庫)
 コーネル・ウールリッチ名義の作品が全滅だったので、アイリッシュ名義でのこれを挙げる。本当は『喪服のランデヴー』を挙げたかった。
『デッドアイ・ディック』カート・ヴォネガット(ハヤカワ文庫SF)
 ほかはあまり読まれていないのか『タイタンの妖女』ばかりが取り沙汰されるが、ヴォネガットで一冊を挙げるならこれでしょう。
『予告された殺人の記録』G・ガルシア=マルケス(新潮文庫)
 作家として影響を受けた。まさかこんな手法があったとは。
『11の物語』パトリシア・ハイスミス(ハヤカワ・ミステリ文庫)
 拙著『11』はここからタイトルを拝借しています。
『あなたに似た人』ロアルド・ダール(ハヤカワ・ミステリ文庫)
 小説を語るならまず「南から来た男」を読んでほしい。テーブルに着くのはそれからだ。
『名探偵カッレくん』アストリッド・リンドグレーン(岩波少年文庫)
 初めて夢中になった小説家の、初めて読んだ本。
『完訳 ファーブル昆虫記(1~7巻/全12巻)』アンリ・ファーブル(集英社)
 子供のころ抄訳に熱中したのみ。完訳が出るのは初めてなので、読者の皆さんと共に完結までの時間を楽しみたい。
『ポップ1280』ジム・トンプソン(扶桑社ミステリー)
 転んでもただでは起きないペイパーバック・ライターの心意気に励まされた。かつて僕の心は貴方と共にあった。
『詩人と女たち』チャールズ・ブコウスキー(河出文庫)
 じつは森鴎外なみに巧い。彼には文豪の名が冠されるべきだ。
『ダブリナーズ』ジェイムズ・ジョイス(新潮文庫)
 翻訳の妙もあるが、情感に満ちたこれがいちばん好き。
『香水――ある人殺しの物語』パトリック・ジュースキント(文春文庫)
 よく思い付いたものだ、と唖然。のちに映画版の宣伝に携わる僥倖に巡り会った。
『アメリカ』フランツ・カフカ(角川文庫)
 退屈。でも忘れられない。何度でも読み返せる。
『ポオ小説全集2』エドガー・アラン・ポオ(創元推理文庫)
 詩も小説も評論もすべて読む価値のある作家だが、「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」が入っているのでこの一冊。
『笑う警官』マイ・シューヴァル、ペール・ヴァールー(角川文庫)
 現代の多くの警察小説はここから始まっているのに、著者はそれに言及しない。残念な風潮である。
『蜘蛛女のキス』マヌエル・プイグ(集英社文庫)
 正直に云って映画版のほうが好きだが、プイグで一冊というとこれか。
『バベットの晩餐会』イサク・ディーネセン(ちくま文庫)
 映画のほうが勝っていると思っていたが、歳をとると共に静謐なこちらが好きになってきた。
『完訳 釣魚大全』アイザック・ウォルトン(角川選書)
 少年の頃の僕は釣りが好きだった。長じて、郷愁と憧憬を込めて読み続けた本。
『鼻行類――新しく発見された哺乳類の構造と生活』ハラルト・シュテュンプケ(平凡社ライブラリー)
 こういう本を書きたいものだ。こういう本だけでいいんじゃないかとさえ思う。
『蠅の王』ウィリアム・ゴールディング(新潮文庫)
 とにかく面白かった。よくぞお書きになりました。
『死者の書』ジョナサン・キャロル(創元推理文庫)
 作家を「かっこいい」と感じさせてくれた初めての本。
『溺れた巨人』J・G・バラード(創元SF文庫)
 入手可能ななかでは〈ヴァーミリオン・サンズ〉が入っているこの一冊。
『嵐が丘(上・下)』エミリ・ブロンテ(光文社古典新約文庫)
 実のところ僕はE・ブロンテの熱狂的なファンである。翻訳の面ではこの版が最もお勧めしやすい。
『山椒魚戦争』カレル・チャペック(岩波文庫)
 小学生のころ初めて読んで、大人になっても読み続けている。兄ヨゼフの美術家としての仕事も素晴しく、いわば兄弟揃って僕の人生を支え続けてくれている。
『ガリヴァー旅行記』ジョナサン・スウィフト(岩波文庫)
 誰でもタイトルは知っているが、きちんと読んでいる人はあんがい少ないんじゃないかと思う。皮肉が効いていて面白いですよ。
『心臓抜き』ボリス・ヴィアン(ハヤカワepi文庫)
 狂騒的になりきれないヴィアンと、どうにも静謐たりえないヴィアン。どちらも魅力的だが、後者のなかでは『日々の泡』よりこれ。
『みずうみ 他四篇』シュトルム(岩波文庫)
 どういう作家だかまったく知らないまま、静かに整った文章が好きで、少年時代からずっと読んでいた。
『新装版 ムーミン谷の十一月』トーベ・ヤンソン(講談社文庫)
 これが最終話とされている。ムーミン一家は知人たちの記憶のなかにのみ棲んでいる。ムーミンを読み損ねてきた大人たちが、ここから再入門なさるのも一興かと思う。
『トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇』トルストイ(岩波文庫)
 トルストイを読まされ、それから四十年かかって「土の枕」を書いた。父の仕掛けた時限爆弾は、なかなかの精度だった。

冬支度

2011-09-30 13:22:00 | マルジナリア
『11』やらなにやらで印税が入り、僕にしてはたいそう買物をしている。といっても生活必需品のみ。
 白山眼鏡店に古い眼鏡、素通しと色付きの二本を持っていき、今の視力に合ったレンズに交換してもらった。これが最大の贅沢。僕の視力だと、レンズだけでも簡単に四万五万を超えてしまう。持っていった眼鏡はどちらも十年以上前の物だが、さいわいどちらも使えた。

 ハズキルーペという眼鏡型の拡大鏡を買う。眼鏡の上からも掛けられ、ものが1.6倍程度に見える。いざ使ってみて、このところの本離れ雑誌離れは視力低下の所為であったと気付く。とりわけ読みにくかったのはカタログや商品ラベル。母にも買ってやろうと思い立ち、やがて、もう死んでいることを思い出す。こういう現象や感情にも慣れてきた。

 さらに屋内作業用の眼鏡。量販店をひょいと覗くと変わった素材の眼鏡フレームが陳列してあり、店員が近寄ってきてぐにゃぐにゃと曲げて見せる。これは凄い。僕のように「自分で開けたドアで顔面を強打する」人間には打って付け。「テレビCMで人気です」と云われるもテレビは見ないのでよく分からない。ともかく凄い。そして安い。
 上述の白山で頼んだレンズは、辛うじて映画を観られるようにまで矯正したもの。それでパソコンを見たり文字を書いたりはできない。度が強すぎるのだ。屋内で使っているのは、ずいぶん昔の壊れてしまった眼鏡の、レンズだけ周囲を削って別なフレームに填めた代物。殆どの女性が綺麗に見える魔法の眼鏡。
 後日同じ量販店を訪れ、凡てぐにゃぐにゃではないものの、蔓だけはそうなった眼鏡を買う。単純に、そちらのほうが顔に似合ったから。
 検眼の結果、魔法の眼鏡と同じ度数で良かろうということになった。それでも僕の視力では追加料金一万円也。

 贔屓の古着屋を巡る。
 一店目で'70年代の物と思しいコーディロイの、リーヴァイスのジージャンを見つける。くたくたになっていて逆に着心地がいい。袖は少し短かったが購入。
 次の店でやはり'70年のリーヴァイスの、裏革ジージャンを見つける。汚れが多いわりに高い。「高い時期に仕入れちゃったんですよ」との弁。交渉不成立。代わりに目に付いていた淡い煉瓦色のデニムのイージーパンツを買う。家で穿ければいいと思い試着もしなかったのだが、帰って穿いてみるとこれがぴったり。長く穿き続けるだろう。ラベルにGRAMICCIとあるので検索してみたら、アウトドアの有名メイカーのようだ。
 三軒目では仏軍のジャケット。新品同様なわりに安かった。さすが仏蘭西はフィールドジャケットさえ洒落ている。喉元を開けると背広衿になり、ネクタイも締められる拵え。僕は身長のわりに腕がやたらと長く、前述のリーヴァイスなど店員が「たはは」と笑うほど手首が出てしまうのだが、この仏軍ジャケットは袖が長くて助かった。こういうのは暑い時に涼しく寒い時に暖かいから重宝する。

 冬支度。

シモンさんの服

2011-02-27 03:27:00 | マルジナリア
 先日一緒に飲み歩いたときの、四谷シモンさんの服装。
 細いストライプの入った白地の綿タートル。サックスブルーの綿シャツ。淡い若草色の、カシミアのクルーネック・セーター。オフホワイトの細畝のコーデュロイ・ズボン。
 全体に白いのに、どれ一つとして真っ白ではない。
 外に出るとき羽織るのは、チロリアン風の茶色い毛糸のジャケットで、茶色いウォーキング・シューズと色や質感が合っているという寸法。

 よりお若い頃はコントラストの強い服装でいらした印象だが、だいぶ白くなってきた御髪に合わせていらっしゃると思しい。どの衣料も新品然とはしておらず、清潔ながらも適度にくたっとなっているのが、なんとも云えず気持ちがいい。
 またシモンさんに欠かせないのがマフラー。対談のあいだは外しておられても、撮影となるとひょいとそれを巻かれる。シモン巻きとでも称すべき独特の巻き方で、緩く一重に結んでから余った片方をくるくると更に二、三回くぐらせて、長さを調節する。
 金子國義さんもたいがい頸になにか巻いておられるし、並記するのは僭越ながら僕も寒がりだからよく巻いている。全員、巻き方が違う。各々身長も体格も違うので、人を真似てもちっとも似合わないのである。

 今後はこんなことも、思い立てば記していこうと思う。

比較検証

2010-10-01 00:00:00 | マルジナリア
 下は、一読者が匿名掲示板2ちゃんねるに投稿なさった、拙作「黄昏抜歯」と川上未映子作「わたくし率 イン 歯ー、または世界」との比較検証です。比較者の許諾のもと、ここに転載させていただきます。
 類似の発見者や告発者が、善意の読者であるにも拘わらず、著者(津原)共々に、多数もしくは多数を装った匿名者から、私生活にまでわたる、根拠なき誹謗中傷の弁を浴び続けるという、異常事態への対処です。
 これ以上の精神的被害を避けられればよいのであって、糾弾の意図はありません。経験則に過ぎませんが、このような場合、なるべく大勢の方に事態を知っていただくことが、有効な自衛策となります。

 比較検証を拝読しての、僕自身の所感をあっさりと述べておきます。
「物足りないが、フェアである」
 例えば、すぐ下にリンクするような「わたくし率 イン 歯ー、または世界」の着想への賛辞を読んだとき、予め苦労を重ねて自力でそこへと到達していた者は、どのように感じるか。
 まず生じるのは、怒りではない。恐怖です。もし貴方がスポーツ選手で、肉体を酷使して記録を樹立され、ところが表彰台には別の人が上がっていた……そんなふうにでも御想像ください。最初の感情は、恐怖です。と、このくらいは記す権利があるでしょう。
http://donguri.moe-nifty.com/bungaku/2007/07/20070_2502.html

「黄昏抜歯」の初出は2002年の小説現代(この時点では「かわたれ抜歯」)、2004年に改題のうえ『綺譚集』に収録されて、これは現在、創元推理文庫に入っています。
「わたくし率 イン 歯ー、または世界」の初出は「早稲田文学2007年0号」、それ以前の著作「感じる専門家 採用試験」は“問答詩”とのことなので、川上氏、初の小説ということになり芥川賞候補ともなりました。2007年に「感じる専門家 採用試験」を加えて単行本化され、現在は講談社文庫に入っています。

 なお別件ですが、以下二件の部分的酷似につきましても、一般の方から指摘がなされたところ、同様の誹謗中傷、挙句、尾崎翠フォーラムに恫喝めいたメールが届くという事態まで生じており、何処のどなたか存じませんが、そういう事は本当に已めていただきたい。
 フォーラムのサイトに転載された記事の初出は、2001年5月13日付「日本海新聞」であり、こちらが先行しているのは勿論のこと、あくまで「第七官界彷徨」をアレンジした映画の評です。
http://www.osaki-midori.gr.jp/_borders2/EIGA/3-EIGA/3-EIGA/HYORON.htm
http://www.mieko.jp/blog/2005/03/post.html

   ***

黄昏抜歯とイン歯―を比較してみた。

類似(1) 思考は脳でなく歯に宿る
類似(2) 歯の鳴る音が作品内で独特の存在感を出している
類似(3) 辛い感情を歯に閉じ込めることで自己救済しようとする
類似(4) 医師に抜く必要のない歯を抜いてもらう
類似(5) 診察台の上で、過去の忌まわしい記憶がよみがえる

※投稿者の私見です。疑問を感じる方は是非ご自身でお読み下さい。
※再考・修正すべき個所はご指摘歓迎します。
※両作品のネタバレ注意

参考までに、(1)~(5)について該当箇所を引用する。


類似(1) 思考は脳でなく歯に宿る

【黄昏】
記憶というのは本当は、脳で憶えるものなんかじゃなくて、三十二本の歯にやどっているのだ。

【イン歯】
――(略)記憶にしても思想にしても(略)それはとりあえず脳髄でどうぞ、ということで決着がついているようであって、(略)働くんならば脳外科などがいいんではないでしょうかと。
――今のところ、わたしに脳はあんまり関係ありませんで、なんとなればわたしは奥歯であるともいえるわけです。(略)」
――あなたは脳じゃないところで思考もろもろをしているというような実感を持つとこういうわけであるのですか。


類似(2) 歯の鳴る音が作品内で独特の存在感を出している

【黄昏】
・かちかちという音がかたわらに聞え(略)なんの音に似ていたのだろう(略)かちかちかちという幼児の跫音が
・吸入器の内部が振動して、かちかちという音を立てた。(略)かちかちかち。やがて収まった。
・あれは、富樫瑞穂の歯の鳴る音だ。かちかちかちかち。
・彼女が寒さに歯を鳴らしていたのは、二人掛けのリフトの上だ。かちかちかち。
・金属の器具でその歯を叩いた。かちかち。陶子は怖気だち(略)
・瑞穂は黙っていた。寒さにか、怒りにか、かちかちかちかち、ただ歯を鳴らしていた。

【イン歯】
・わたしはベッドから起き上がって奥歯をかちかちいわせて歩き回り(略)
・わたしはあの時も奥歯をかちかちいわせて青木の歩数を数えてたんやった。
・いったいどうしたんやろうと、奥歯を小刻みながら黙ってると、
・いつだって、明確な終わりの期日を教えてほしくていっつも歯を鳴らしてた、


類似(3) 辛い感情を歯に閉じ込めることで自己救済しようとする

【黄昏】
住みなれた家を、実の父から追われた日、その引越の最中、陶子はしきりに親知らずの孔を舐め、痛いのはここ、痛いのはここ、と頭の中で繰り返していた。(略)
「どうしました。どこか痛い?」近づいてきた看護婦に問われて、自分が涙ぐんでいることに気づいた。眼を指で拭って、頭を左右に振った。痛くも悲しくもない。あの親知らずはもうないのだから。ほら、あるのは肉のくぼみだけ。

【イン歯】
そうや、わたしは、いつもこうやって来たんやった、痛かったり悲しかったりどうしようもないもんがわたしに入ってきたときは、
誰にも絶対潰されへん、わたしがどんなに傷つけられてもぜったい傷つけられへん私を入れた、勝手に決めた奥歯の中に、
痛みの全部を移動させてぜんぶ閉じ込めて来たんやった、わたしは歯が痛くなったことがないのやから、そこに痛みを入れてしまえば、わたしはどっこも痛くなくなる、


類似(4) 医師に抜く必要のない歯を抜いてもらう

ちなみに直前の流れは【黄昏】【イン歯】共通
初診の歯科を来院→アンケートの項目にしっくりこない→現れた医師の顔の描写
→診察、歯を順ぐりに記号で呼ぶ医師→治療の相談

【黄昏】
「先生」陶子は院長の腕をつかんだ。ささやいた。「その歯も一緒に抜いて」
「え」と院長は言って、視線をちらちらと揺るがせた。しばらくして、「治る歯だけど」
「抜いてほしいんです。抜いてくださったら、わたしはなんでもします」

【イン歯】
どこも悪い歯ないですけど、今日は歯石取りですか、わたしはいえ、いえ、とだけ云って、奥歯を抜きに来ました今日は、
わたしはその、奥歯を抜きに来たんですと告げました、医師はああこれ、この親知らずねと云って、それから抜くの抜かないのとそれにまつわる
色々な見解、勝算、症例など交えてやりとりは混ぜられて、わたしは抜きに来たのやから、抜いてもらいに来たんです、


類似(5) 診察台の上で、過去の忌まわしい記憶がよみがえる

※ここは両作品とも特に大事な場面なので、引用しません。読んでみて下さい。


オマケ(1)

以下の細部は妙に対称的で、元の設定をアレンジしたようにも見えるがまあ邪推かもしれない。

【黄昏】どちらかというと歯を磨きすぎ
【イン歯】歯を磨いたことがない

【黄昏】歯が痛む
【イン歯】歯が痛んだことがない

【黄昏】虫歯になりにくい
【イン歯】虫歯になったことがない

【黄昏】女女男の三角関係(主人公女は、ライバル女に攻撃をする)
【イン歯】 同じく (主人公女は、ライバル女に攻撃される)


オマケ(2)

【黄昏】作品前半、ケータイの長い会話シーンで主人公と恋人との関係を描写
【イン歯】 同じく (ただし妄想オチ)
※両作品ともケータイは恋人との関係を表す道具として頻繁に出てくる

【黄昏】充電するためにケータイを探すが見つからず、そのままぐったりと寝る
【イン歯】ケータイを充電したあと急な眠りに襲われる

【黄昏】主人公に、詰め物が取れかけて何年もほうった歯がある
【イン歯】恋人に、詰め物が取れて七年ほうった歯がある

【黄昏】口内で歯を順に舐めて親知らずの抜歯跡にたどりつく
【イン歯】夢の中で前歯のない感触を舌でなんども味わう

【黄昏】歯科院長の名が青野(最後に恋人と混同される)
【イン歯】恋人の名が青木


読んだ感想
・文体やストーリーが違うので、小説としての全体的な印象は似ていない。
・イン歯ーの方が枚数が多く、その分哲学的なテーマ(永井・西田的な)や日記など別の要素も多い。
・しかし歯については、似ている箇所が多く見つかる。
・黄昏の作品世界を切り刻んであちこちアレンジして埋め込んだ、という印象。

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 読み易さに配慮して、比較者が初出メディアを考慮して度々置かれている「------以下引用------」は省略させていただました。
 また、一部のブラウザでは丸付き数字が表示されないとの御指摘がありましたので、括弧付きの数字で代替させていただきました。

【追記/2010.10.11】
 上の投稿から十日余り。ウェブ上に単純な誤解や、間接的な御質問が見られるようになりましたので、補足、強調しておきます。
 二つの「***」で挟んだ検証文は、津原によるものではありません。またこの検証者は、類似の発見者とは別人です。「第七官界彷徨」紹介にまつわる発見者も、また別人です。いずれも一般の方々です。
 津原が彼らからのメールやBBS投稿によってこれらを知り、実際に読み比べたのは、本年九月、乃ちごく最近のことです。

テレグラム

2010-09-25 15:42:00 | マルジナリア
 久々の投稿です。随分と昔、ユリイカのビョーク特集に寄せた文章を、こちらに再録します。どちらかと云えばプリファブ・スプラウトに肩入れしていた自分が、妙に懐かしい。

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2001.12.6

  月の女神の三つの高楼

 肉声であることがふと疑わしくなるほど透きとおった歌声で、才人パディ・マクアルーン若かりし日々の歌曲を彩っていたのは、ウェンディ・スミスという可憐な金髪女性だった。かつて、ふたりを含むシンプルなギターバンド〈プリファブ・スプラウト〉が東京公演をおこなっている最中、ウェンディ嬢は不意に、思いあまったように履いていた靴を脱いだ。そのまま歌い続けた。足が痛いと、つい脱いでしまう癖がある人なのかもしれない。演出にしては愛想のかけらもない所作で、実際、まだ痩身だった頃のマクアルーンにばかり見蕩れて、彼女の身長が変わっていることに気づかずにいた客は少なくなかったはずだ。
 さて、この原稿を書いている現在、まさに来日公演中であるビョークは、はたしてどのような衣装と化粧で聴衆の前に現れたものだろうか。私が肉眼でビョークを見たのは、一九九六年、『ポスト』発表後の日本武道館公演においてのみである。お世辞にも音響の良い会場とはいいがたく、また短いプログラムは、おおむねCDの「かろうじての再現」の域にとどまっており、印象は芳しくなかった。しかし書きたいのはそういった苦言ではない。当夜、ビョークは、銀紗のワンピースを着ていた。最初から裸足だった。こちらは、間違いなく演出である。それなりの効果を奏していた、と思う。
 広いステージをぺたぺたと動きまわるビョークを眺めながら、私はしきりにウェンディ・スミスのことを思い起こしていた。ウェンディの粗忽さとビョークの周到さは、私のなかでみごとに陰陽をなしていた。アングロサクソン然とした金髪を揺らしながら、ハイヒールを痛がって捨てたウェンディと、イヌイット然とした野性的容姿に合わせ、最初から靴を履かなかったビョーク。まるで拮抗するふたりの女神を見合わせるようではないか。いうなれば、日神と月神。
 ちなみにウェンディ・スミスというのは、〈ヤング・マーブル・ジャイアンツ〉の後身グループ〈ウィークエンド〉のレコードジャケット画を手掛けたりもしていた、なかなかの才媛であり、「育ちのいいコーラスガール」というだけの存在ではけっしてなかった。〈シュガーキューブス〉というポップス・コラージュ的なバンドにあって、ぎこちないアンサンブルを破壊せんばかりの野太い声を張りあげていたビョークが、願っても至りえぬ境地に、往時の彼女はいた。マクアルーンの宝石のような歌曲を飾るプラチナ細工でありえた。しかしスターにはならなかった。〈プリファブ・スプラウト〉というバンド自体、その位置へと昇るには懐古的すぎた。音楽として懐古的すぎるというわけではなかったが、時代との共振は難しかった。
 一方、歌唱技術は確かなものの、陰翳に乏しい不器用な声の持ち主であるビョークが、次々と背景を置き換え自己イメージを立体化していく手法によりおさめた商業的成功については、周知のとおりである。
 そこそこ売れて手堅いファン層を持ちえた音楽家と、大衆を扇動しうるほどの名声を獲得した音楽家の、どちらが幸とも不幸とも申しがたいが、単純に歌姫のイコンとしての両者を見比べるに、ビョークのほうが不自由そうで、息苦しく感じられるのは確かだ。それだけ我々がビョークを「知ってしまった」ということかもしれない。ビョークをとりまく幻想の霧は、やけにうっすらとして、辛抱づよく待っていれば晴れあがりそうにも思える。彼女の実像を知っているわけではないから、あくまで印象として、なのだが。
 無用な誤解を避けるために明言しておくけれど、私は〈シュガーキューブス〉のかなり早い時期からのファンであり、独立してからのビョークの音楽も愛聴し、周囲に勧めてもきた。彼女の声も、音楽的センスも、なぜかときどきジャック・ニコルソンに見えてしまう容姿も、好もしく感じている。ものすごく好きだ、といっていい。そのうえでの所感である。

 二十世紀とりわけ後半のポップ・ミュージックは、それ自体が浅薄な信仰の対象となる過ちを重ねつつも、全体としてはルネサンス風に機能していた。感性の解放を謳いあげてきた。しかし、複雑怪奇な現代の、優秀なサヴァイヴァーたるビョークが、女性のための(厳密には、ビョークのための)ポルノグラフィとでも称すべき大時代な悲劇『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に与さねばならなかったことは、ルネサンスとしてのポップスの行き詰まりぶりを象徴しているかに思える。巧みにつくられた鮮やかな映画ではあるが、そこに新しい解放の発見はなく、定型への執着ばかりがちらつく。
 想像するに『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、ビョーク版『トミー』となるはずだったのだ。そうならなかったのはひとえに、ビョークがブロマイド的でもピンナップ的でもなかったことに依る。実像のビョークならば、主人公セルマの苦境を軽々と乗り越られるであろうことが、観客に頻繁に呈示されてしまう。しかしながら、セルマ的悲愴さえポップ・チューンに変換してしまうビョークだからこそ、現代の国際的スターたりうるのであり、彼女をフィーチュアしたミュージカルが制作されるのであり、つまり『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、最初からそういうディレンマを抱えた映画であったことになる。「ビョーク」でありながら「不自由」なセルマは、宿命的に不条理な存在である。
 ウェンディ・スミスと同じく金髪碧眼のロジャー・ダルトリーが、悲壮かつコミカルに感覚障害者を演じた『トミー』において、主人公が達する素朴な自然回帰志向は、当時の観客に不条理感を与えはしなかったろう。ロックの市場がまだまだ小さく、演奏側も聴衆も均質な時代だった。ロックスター像が、レコードジャケットやポスターの上にしか存在しなかった時代だ。ザ・フーの面々の気分と、観客の夢想との重なりに、トミー青年は佇みえた。
 ミュージカルの古典的手法をふまえるにしても、仮に「ビョーク」映画として制作されたのが、彼女を歌姫に据えた『ファントム・オブ・ザ・パラダイス』だったら、映画としてもっと成功しただろうし、個人的にもぜひ観てみたいと感じる。しかしそれはもはや「ビョークの」映画ではないし、だいいちビョークの運命を自在に操るスワンやファントムなど、いったいどこから連れてきたものか。ジャック・ニコルソン?

〈シュガーキューブス〉でのビョークは「文明にさらわれてきた野性」を演じて、なかなか器用に役割をこなしていた。同時に「これは虚妄である」とアピールし続ける怜悧さも有していた。独立から『ホモジェニック』までの音楽も、やはり同じ構えで制作されてきたと思う。二重の自己演出が築いた二つの高楼の狭間に、彼女はいた。どちらかに登るためには必ずどちらかを留守にせねばならず、そういう、周到さの楽屋裏がかいま見えるごと、むしろ、今のうちにビョークを聴いておかねば、という切迫感に近い思いにかられたのは不思議といえば不思議なことだが、芸術家の「旬」とはそういうものだろう。
 三つめの高楼からの歌声たる『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に対する私感は、すでに綴ってきたような具合だ。じつは昔から「ビョーク」の根底に脈々としていた、いわば「ジュディ・ガーランド趣味」を、私はけっして嫌いではないのだ。のみならず、映画の出来そのものも、たぶん高評している。だが、もし彼女の次の主演映画にも同質の演出がなされるとしたら、そのタイトルが『ジャンヌ・ダルク』ではないことを切に祈る。
 世のいったいどれほどの人達が、ほんとうにビョークの声と容姿を好んでいるのか私には想像がつかないので、彼女にとって、聴衆にとって、望ましい「ビョーク」を思索するも、これといった定見には至れずにいる。ただ、自力では操作しようもないほど強烈な歌声を、他人に手玉にとってもらえるリミックスという方策を、彼女自身が心地よく感じていることは、その種の活動への力の入れようからわかる。ふたたび高楼の譬えを用いるなら、曲ごとに三つの高所を行き来できるこのスタイルは、じっさいビョークを最も解き放つものであるかもしれない。
「イン・アザー・ワーズ」というワルツが、ボサ・ノヴァや4ビートへの変換により「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」という本質を明瞭にしたように、ビョークの歌も、他の才能による秀逸なレシピによってスタンダード化していくタイプの芸術かもしれない。そんな思いがあったからか、本稿を手掛けるにあたり聴き返してみたCDのうち、この一枚、と感じられたのは、リミックス集『テレグラム』だった。

            2001.12.10