銀河鉄道拾遺

SF、かふぇ及びギター

まだまだ遠い

2016-03-31 12:48:11 | 日記
名だたるミュジシャンの話に続くは、愚にもつかぬ我が家の練習のこと。John Renbourn の有名な My Dear Boy 。このたった1分11秒の作品に血道を上げるギター弾きは世界中にゴマンといるが、その末席を汚す私にも年に三回くらい閃く瞬間があって、先日来たのはポジション移動を早くしたらよかろう、というやつだった。なるほど左手がネックを行ったり来たりする回数やら距離やらが結構あるではないか。ポジションの移動はタイミングや握力の入れ加減抜き加減が微妙で、うまい人というのはこういう見えないところこそ上手いんだろうな。それでも気を付けてやってみれば効果があったように思う。そんな私のグラドス・アド・パルナッスムなのでした
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反動進行

2016-03-30 12:47:22 | 日記
昨晩の‘レイラ’進行(Layla Progression)は少し飛ばし過ぎでしたね、若干の補足を。Pearl of the Quarter の主部は key in C ではあるが、その終わりは並行短調であるAmだ。オリジナル進行はB♭7→Cだが、ここではB♭7→Am。なのでB♭7は、レイラ進行におけるドミナントというより、半音上からアプローチするE7の裏コード(代理コード)と考えた方が適切かもしれない。そもそもB♭7→CにおけるB♭7は、本来のドミナントより淡い感じの解決感を持ってる所に特徴がある。三度と七度であるレとラ♭がそれぞれミとソに進むわけだが(前者は半音進行でないけれども)、主音ドに解決する音がないというのが‘淡い’の大元と言えそうだ
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レイラ進行

2016-03-29 21:59:18 | 日記
社内の引越しでえらい疲れた。早く帰っては来たがもう寝ないと。その前にひとつだけ、デレク&ザ・ドミノスがデュエイン・オールマンを迎えて制作した‘レイラ’(1970)は誰しもお聴きになった名盤と思うが、どん詰まりに来るタイトルチューンはいわゆる長尺曲で2部構成を取っている。激しい前半と打って変わって後半は、ピアノをフィーチュアした始終穏やかな楽曲だが、時折ものすごく切ない気持ちが胸にこみ上げてきて困ったという経験をお持ちの方も多いのでは。はー、青春だねい!とその一人である私はそう思ったが、一方でその気持ちが何処に起因するか、当時あれこれ考えてみたものである。いや正しくは耳コピの過程で自然とそれに思い至ったのだが、答えはピアノソロの締めに来るドミナント・モーション、B♭7(9) → C。 B♭7は本来のドミナントG7とほぼ同じ立ち位置にあり、和声法でいう所の代理コードである。
ピアノは誰あろうバンドのドラマー、ジム・ゴードンが弾いているのだそうだ。一夜の狂騒を描く1部が完成した後、ジムはやがて至るであろう諦念を伴った穏やかな境地を思い描いて、ひとりピアノに向かったのだと思う。その後ジムを見舞った悲劇やベーシストのカール・レイドルの死を思うに付け、私たちはこの深い悲しみを背負った美しい曲をいつまでも聴き続けることだろう。
さて何でそんな昔の時分のことを書き出しているのかというと、この‘レイラ進行’ (B♭7(9) → C、命名はモチロン私) が Steely Dan の Pearl of the Quarter(1973)にも使われていると気付いたからだ。ドナルド・フェイゲンはこの曲をレイラと同じハ長で書いている。自称ソングライターであるこの青年はサビをEから始めてリスナーをはぐらかし、直後、巧みな半音進行でやるせない歌詞をばっちりリスナーのツボにねじ込んでくる。しかし実は主部の締めに仕掛けられたレイラ進行が、見事なサビをいっそう際立たせるのに一役買っている、と私は睨んでいる。フェイゲンもジムのピアノにヤラれた口かあ、そう想像するだに愉快な気持ちになる
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それでもやりますが

2016-03-28 12:40:26 | 日記
割と困ってるのは、オタルナイ・チューニングのポジション呼称だ。ギターでもヴァイオリンでもいちばんネック寄りの指、つまり人差し指がどこにあるかで2ポジとか3ポジとか呼ぶのだが、レギュラーチューニングのCコードはその人差し指が2絃1ポジションに来るので、これは明らかに第一ポジションである。Gコードは中指が5絃2フレットに来るから第二ポジションかというと、実は人差し指が空いていてこれを1絃1ポジションに置けばG7コードになることもあって、やはり第一ポジションに含めるべきでしょう。Fコードはセーハが1ポジに来るから、これは間違いようがない。斯様に標準チューニングは第一ポジションを基本に置いていることが、以上から判る。
さてオタルナイ・チューニングではどうか?いっとう基本であるトニックのA♭コードは、3絃3ポジと4絃3ポジを押えて取る。これに薬指、中指を充てると人差し指が余るから、これを2ポジのどこかに持って行けるとすることで第二ポジションに認定、ってことでいいかしら?これに対しドミナントのE♭7やE♭9コードは、ネック方向に1ポジ分後退して取る。これはそのままを見れば第一ポジションということになるが、でも私の経験則から言えばいわゆるハーフ・ポジション、つまり第二ポジションのハーフ・ポジションに当たる、という主張をしたい。ひとつのポジションでトニック、ドミナント、サブドミナントが押えられないチューニングというのは、ちょっと如何なものかというのがこれらの観察の背後にありまして、しかしサブドミナントに当たるD♭は5ポジをセーハで押えるのが、オタルナイでは、まあ基本である(いや、半セーハを使えば2ハーフで押えられるぞ!)。
こう書いてきて、オタルナイ・チューニングは第二ポジションにその基本が置かれていると言えなくもなさそうだが、ハーフが混じってくる辺り、慣れるには時間が掛かりそうだ、というのはファンとしても認めざるを得ない所でして。。
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大ぼけ

2016-03-27 07:27:27 | 日記
投稿回数にちなんでJAZZレーベル Blue Note の話をしようと思ったが、調べるのも思い出すのも億劫なので止めにした。しかも手許にある盤は#1570だけという体たらくであります、そのうちその番も廻ってくるでしょうから、その時に。
さてギターで弾くラグタイムの古典シリーズ、同じ曲ばかり弾いてても通るようにもなりゃしない。ので、偶には裾野を拡げるかと久しぶりにジェイムズ・スコットに帰って約半日、優雅なジョプリンとどこがどう違うのか、ようやく判りました。いやー、メロディの右手指付けがなんだか上手くないような気がして、人差し指を当ててた何箇所かを中指に置き換えたらいいやねとやってたら、そこって全部アクセントが来るトコではないかっ、なるほどそんな風に作られてたのかと、遅ればせながら理解した次第。
後のポピュラー音楽でフィーチャーされていくリズム性というものが、この作品にはしっかり刻まれているのでした、それにしてもそんな自明のことに気がつかないで練習してるとは、如何に普段、ぼんやりと音楽を聴いているかという証左であるのだけど、自分らしいといえば自分らしいかも
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いまここ

2016-03-25 12:33:16 | 日記
小さい頃は耳に入ってくるものが好きだった。森を歩こう、とか。クルマ専用のカセットから流れてくる、映画音楽の類。海辺の保養所にふたつの卓球台とジュークボックスがあって。中学に上がった辺りから「主体的な」聴き方をするようになるが、あれは所詮、周囲に流されただけ。ロック好きという程のめり込んでもおらず、フォークはないがしろにしてた。そのせいか、十代後半によく聞いてた音楽をこのトシになって再度耳にすると、毎度、熱狂のインフレーションと反動である極端な収縮がやってくる。うまく折り合えばいいが、なかなか付き合いづらいもんだ。その後、ジャズからバロック~初期ロマン派の古楽、ラグタイムを基調としたギター音楽と聞いたり付き合ったりしてきたが、回帰するだろう地点はやはりライトなジャズ、昔懐かしいインストゥルメンタルの世界ではなかろうかと思っている、春この頃です(イージーリッスニングてことばは、何とかならないのか)。ではコール・ポーターのビギン・ザ・ビギンをどうぞ
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音の素材

2016-03-23 12:26:40 | 日記
昨日、宮内悠介さん「アメリカ最後の実験」を読了した。音楽を軸にした小説で、ここまで囲碁(その他いろんなゲーム)、ロボット、精神医学とテーマが変遷するなか、遂にど真ん中来た~、じっくり読んだろと思ったがテンポが速いのでつい、読み切ってしまったという訳である。JAZZのそれもピアニストに的を絞ってる感があり、これが難関音楽大学の門をくぐれるかということで、受験生たちの友情と努力と勝利が描かれる。それを取り巻く大人たちも、ひとりひとりひっくり返すとぢつは皆。。(ネタばれになるのでやめます)という軽井沢シンドローム・スプラウト的展開がいいです。ま、ゴタクはツイッターの方へこれから書こうと思ってるんですが、一部フルートやベースが登場するとはいえ、鍵盤ものが主流ですので何か違う発音構造を持つ楽器が聴きたい、ということで、久しぶりにライブラリから無伴奏ソナタとパルティータをチョイスしました。シギスヴァルト・クイケン(Vn)による'81年の録音。ガット絃による造形とは何故こんなにも私の生活に馴染むのか、とほんとびっくりするシロモノ、まあ、自分も以前、それに触ってた時代があるからこそなのかも知れないけど。たぶんもう鍵盤に帰ることはないだろうなあ、と思うのは、まったくあの経験があるからなのです、あのザラザラ感がきっと私の脳を覆っているのだ
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たしかに

2016-03-22 17:41:28 | 日記
楽器バカのわたしにしてからが、弾きたくないって日もあるのだ。連休なんて余暇のカタマリに見えるけど、土日を適宜挟み込んだ日常の方がよほど過ごし易い。いろいろあった中から、Steely Dan の Can't buy a Thrill(1972)を買ってきたことだけ記しておく。A面とB面の最初はよく覚えていたが後は全くブラック・ボックス化していて、それが1曲ずつ裏返える度に懐かしくて困った。それでもB面ラストはハーモニーが全然ズレた記憶となっていて、こういうのは極く珍しい現象である。シティ派みたいに言われる Dan だが、ワタクシ的にはフォークへの傾倒が特に強いと思ってる。ドナルド・フェイゲンの歌唱なども、結構ディランをお手本にしてるんじゃないか?さて昔ばなしではしゃぎ過ぎると必ず反動は来るもので、そのあといろいろ落ち込んだり、となかなか面倒な休日だった
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これも早春

2016-03-19 01:09:11 | 日記
話は2月末に遡る。大手系列に属する24時間営業の大型スーパーマーケットが、閉店した。全品5%引きになる土曜朝7時、ポテトサラダと8枚切りの食パンを買いにてくてく出掛けるのが楽しみだった。マーガリンといっしょにポテトを薄く塗りつけ、とろけるチーズで挟み焼き。コーヒといっしょに流し込めば立派な朝食だったし、そういえば京都から取り寄せたコーヒーもいっしょに売ってたっけ。休日早朝の買出しはその昔、父親と発売されたばかりの紙パック牛乳を連れ立って買いに行った遠い記憶を呼び覚ますらしい。それになんてったってこの店、かつては御前山まで通じていた茨城鉄道茨城線の廃線(現在は道路になっている)沿いの敷地に建っていたのだ、縁とゆかりがまたひとつ消えていった。そうして私もそういうものの最後になるのだろう
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驚愕

2016-03-17 12:48:08 | 日記
ジョシュア・リフキンの演奏するストップタイム・ラグを聴いて、はたとデイヴ・レイブマンがマーチンD-18で演奏する同曲を聴いてみる。うそっ!何がって、クリソツなんである。片やピアノで弾かれるぶ厚いテクスチュアを、たった絃6本しかなく、他にも色々と制約の多いギターで弾いて、全く聴き劣りしないなんて!それから確かこの曲、ハ長調だと思ったけど、そこもピッタリ合わせてギター編曲しているのですね。まあ、ハ長はギターでだって最もポピュラーな調ではあるけれども、ラグタイマーの浜田さんがラグタイム曲に多い変イ長調を基調としたチューニングでわざわざ取り組む姿勢も理解できました。オリジナルのキーで弾いてみたい気持ち、判る判る。   メイプル・リーフ・ラグも変イ長調、トリオは変ニ長に転調する。しかし浜田版アレンジはそれに対応しているので、レコードを掛けながら、いっしょに弾ける。たくさん弾いて、演奏のメリハリを吸収していこう。   ところでレイヴマンは'71年、リフキンは'70年の録音だが、映画スティングでラグタイムがリヴァイバルを図るのはその後の'73年。この辺も学究肌の二人にふさわしいということか(実際、レイヴマンは経済学者である)
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境目

2016-03-15 23:16:35 | 日記
仕事が一段落したので、古本屋でCDを漁ってきた。ジョシュア・リフキンが演奏するスコット・ジョプリンのラグタイム集があったので、勉強用に買って来た。勉強用というところがトホホであるが、ジョシュア・リフキンと聞いて私の両側の知り合いは同時にピン!と来たことであろう。古楽の側ではバッハのロ短調ミサ曲をコーラス隊各パート一人ずつという最小ユニットで演奏したことでセンセーションを巻き起こした張本人である。ところがこの方、ジャグバンドでは米国随一のジム・クウェスキン・ジャグバンドに在籍していた経歴があり、ジェフ&マリア・ムルダウアー夫妻ともお友達と言う、ルーツミュージックと深いトコで関わる人物でもあるのだ。実を言うと英国古楽界の重鎮、エンシェント・ミュージックを指揮してモーツァルトのシンフォニー全集をものしたクリストファー・ホグウッドも、ペンタングルのジョン・レンボーンとセッションしていた時期があり、皆それぞれ試行錯誤の時代があったのやもしれん。さてその学級肌にしてはねっかえり、リフキンの弾くメイプル・リーフ・ラグに合わせてギターを弾きつつ、の、の、の、乗ってキター!とやってたら、カミさんから寝るので止めてと苦情が。。
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すれっからし感

2016-03-13 01:56:55 | 日記
ごぶさた、元気ですか?前に米国ロック・バンド Little Feat 初期5枚のアルバムでは最後のやつがいい、とか書いたが、そうではなく最初のアルバム「Little Feat」がいいでござるよ、という話。以前、笠間の窯元にわりゃあ、ロックが判るンかい?と改めて問われ、それ以来ロックに対する回答は一切避けてきたが、いまようやくその答えを見出した。十全足る位置から遠く、権威から離れて、それを自由と覚えつつ、不安と希望のない交ぜな境地、それがロックなのだった。71年にリリースされた当該アルバムから、それお如実に感じ取ることができる。安物、手抜きと散々酷評を浴びてきたジャケットからぷんぷんするこの感じ、これおその中身からも見出せるひとは私の友達だ、いっしょに賛歌を夢見よう。これからしばらく続きそうな、わたしの昔話にもお付き合いくだされ。ブログを書いてきてよかったなと思うひとときも近そうな予感がする。
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