十七音のアンソロジー★。・.:・゜'☆,。.:・゜'★

虚と実のあはひに遊ぶ  Since 2008 by Midori♡ H

葡萄

2010-05-16 | Weblog
蜜蜜と隙間締め出してゆく葡萄     中原道夫

俳句は一瞬を切り取る文芸だと言われているが、この作品は違っている。
球体であるはずの一粒一粒の葡萄が、「隙間締め出してゆく」過程は、
擬人化によって、とてもリアルで迫力がある。句集「緑廊」に所収。
「俳句」5月号より抄出。「銀化」主宰。


*緑廊(パーゴラ)の「緑」は旧字体となっています。

ごきぶり

2010-05-15 | Weblog
ごきぶりや幾万年をただ逃げて     本井 英

ごきぶりが出現したのは、約3億年前の古生代石炭紀で、
「生きた化石」といわれている。人類絶滅後は、ごきぶりが地球を
支配するとも言われている。それでは地球があまりにも可哀相。
人類の知恵で撃退しなくては。句集「八月」に所収。(Midori)

薔薇

2010-05-14 | Weblog
バラの名はマチルダ君は山田さん    坪内稔典

バラは、それぞれに個性的な美しさを誇っているが、
「マチルダ」と名付けられたバラは、どこか英国風で高貴だ。
そこへ、「君は山田さん」とは、山田さんには気の毒だが、
ちょっと笑える。2010年版「俳句年鑑」より抄出。(Midori)


紙魚

2010-05-13 | Weblog
遁走の紙魚に人差指届く   小宅容義

「人差指届く」の中七から下五への句跨りに
紙魚とは対照的な動きが見えてくる。
それは、大きな人差指が、ゆっくりと
逃げる紙魚を捕える瞬間だ。
2010年版「俳句年鑑」より抄出。(Midori)


陽炎

2010-05-11 | Weblog
      少年の昆虫図鑑かぎろへり    加藤信子

昆虫図鑑は、かつて少年が愛した図鑑なのだろう。少年にとって昆虫図鑑は、心の友でもあったはずだ。そして今、ここに図鑑だけが取り残されている。少年は、すでに大人になっているのかもしれない。省略の効いた作品は、「かぎろへり」という季語の斡旋によって、郷愁を覚える一句となっている。「滝」5月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

樟若葉

2010-05-10 | Weblog
先週末は、日本伝統俳句協会九州支部研修大会が鹿児島で開催された。
新緑の磯公園を散策し、鹿児島が誇る薩摩切子の展示を見て回った。
翌日は、桜島までフェリーでわたり、大正3年の大噴火を物語る溶岩原に
自然の驚異を目の当たりにした。吟行の難しさを再認識した研修会だったが、
数十年ぶりの鹿児島の旅は、とても楽しかった。(Midori)


樟若葉維新の光こぼしけり    平川みどり

2010-05-08 | Weblog
     神々のおはす山より芹の水   酒井恍山

ふる里の山だろうか?固有名詞でなく、「神々のおはす山」という飾らない表現に、山への信仰心が感じられてとてもいい。山から流れてきた「芹の水」は、掬えばきっときらきらと零れたことだろう。平明な作風の中に、アニミズムが息づいているのを感じた。「滝」5月号〈渓流集〉より抄出。(Midori)

落花

2010-05-07 | Weblog
     惜しみなく宇宙の余白より落花   石母田星人

なぜか桜の花は、次元を超越した世界がよく似合う。桜の混沌とした無機質な情感がそう思わせるのかもしれない。「宇宙の余白より落花」にそんな異次元空間へと想像が膨らんだ。「惜しみなく」が落花のラストシーンを飾るようで、華やかさの中にも、どこか寂寥感を覚える。独自の美しい心象世界に惹かれた。「滝」5月号〈渓流集〉より抄出。(Midori)

2010-05-06 | Weblog
     糠雨に薄墨たらす桜かな   菅原鬨也

春爛漫と咲き誇る桜は、誰からも愛されている花だ。しかし、ひと言に桜といっても、朝桜、夕桜、夜桜とその美しさと趣は、それぞれに違って見える。そして、ここでは糠雨に濡れそぼつ桜だ。「薄墨たらす桜」は、まるで無言の慟哭のようだ。しかし、やがて雨が上がった時、雨の雫に洗われた桜の花びらが、薄紅色に光っていそうな気がした。「滝」主宰の幻想的な桜の一句だ。「滝」5月号〈飛沫抄〉より抄出。(Midori)

日脚のぶ

2010-05-05 | Weblog
 日脚のぶいつも誰かが沖を見て   西 美愛子

沖へと遠ざかるもの、そして沖よりやってくるもの・・・
そこには、人と人との出会いと歴史があった。
「いつも誰かが沖を見て」には、日本人特有の
ロマンティシズムが隠されているような気がした。
「阿蘇」5月号より抄出。(Midori)


寒明

2010-05-04 | Weblog
 乱切りのじやがにんじんや寒の明け   加藤いろは

まな板の上のじゃが芋とにんじんが、微妙に混じり合って、
色のコントラストも美しい。乱切りは、形はそれぞれ違っていても、
その大きさはほぼ同じだ。カレーをつくっているのだろうか?
寒明けの解放的な気分が伝わってきて、楽しい一句だ。
「阿蘇」5月号より抄出。(Midori)

釜始

2010-05-03 | Weblog
  きゆつとなかす大好きな帯釜始    高本よしえ

帯を「きゆつと締める」のではなく、「きゆつとなかす」だ。
大好きな帯を「泣かす」とは、相反するようだが、「締める」よりも
ずっと情が深い。「大好きな」の飾らない形容が、釜始への心の
高揚が感じられてとても新鮮。「阿蘇」5月号より抄出。(Midori)

梅椿

2010-05-02 | Weblog
     御僧に女客あり梅椿    荒牧成子

「御僧に女客あり」のちょっとした事件?に、読む者は好奇心でいっぱい
にさせられる。しかし、それ以外には何も触れていないところが、また
心憎いところだ。「梅椿」の上品な中にも、どこか可愛らしさのある花に、
若々しい艶っぽさを感じた。「阿蘇」5月号より抄出。(Midori)

待春

2010-05-01 | Weblog
       水の上に待春の枝差しのぶる   上村孝子

水の上に伸びている一枝を詠んだ一句一章の作品だ。しかし、まるで春を
掴もうとするかのような「枝差しのぶる」の擬人化に待春の思いが伝わって
きた。写生は、決して、見たままを写しとることでなく、対象と見るものの心を
一つにすることであるということを、あらためて実感した。
「阿蘇」5月号より抄出。(Midori)