ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

リセットしたかった。

2006年06月26日 | とんでもない!
 連日、連夜のワールドカップ、ドイツ大会の中継、報道の一方で、同時に奈良の高校生による、家族殺人、放火事件、東大阪の大学生らによる岡山の生埋め殺人事件、秋田の豪憲君殺害事件、山口県光市の母子殺人事件の最高裁の判定など、数々の殺人事件が多様に報道されている。

 特に奈良の東大、京大などへの進学率の高い有名私立高校で、普通の成績とされる頭のいい少年の、今回の凶行に及ぶ過程と家庭の人間関係などがクローズアップされ、教育評論家たちも交え議論が盛んだ。

 行動や考え方に幼さを感じる、この少年の事件への動機として「自分の人生をリセットしたかった」と言う言葉が強烈に印象的であった。

 一、二年前に現代の小学生たちの意識調査結果として、「いのちはリセットできる」と思っている児童が約四割もいるという報告に唖然としながら、「ゲーム世代」の感覚としては当たり前になっている現実を知った。

 「ファイティングバトル」とでも言うのか、テレビゲームや携帯端末で闘いの遊びの世界は、虚像のモデルが負けそうになったり完全に死んでも、直ぐに「リセットすれば・・・」、また最初からゲームを開始できる。

 将棋やテーブルゲーム、トランプなどでも、昔から負けを察した者が、駒やゲーム台をぐちゃぐちゃにして、「止めた、やめた。もう一回やり直し」と自分勝手にゲームを投げ出したり、再度勝つまで必死になることはあった。

 しかし、「いのち」について、リセットが可能かどうかを見極める価値観と心は、誰もが普通に抱いていたはずである。

 あるタレントが雑誌のインタビューに、家で犬を三匹飼っているのが、子供たちに「死」を体験させるためだと語っていた記憶がある。

 愛する、愛すべき存在の家族や身近な『命』を亡くすことが、如何に悲しいことかを、大切に愛するペットとして飼う『犬』で体感、経験させたいとの思いに、そのタレントの個性以上に関心させられたことがある。

 今、父親、母親、教師たちも「いのちは大切に」とか「命はひとつ」と言葉で語る機会はあるだろう。しかし長寿高齢化社会になった現代社会で、子供たちが生身の家族や愛すべき存在を身近に失うこと、すなわち「死に直面」することは極めて稀になっている。

 テレビや報道を通して多くの「死」が語られはしているが、全て他人事であり、自分との強い絆が失われたり、存在そのものが永遠に消えてしまう悲しみへの実感は皆無なのだろう。

 『死』は、ほとんどの子供たちにはフィクションそのものであり、ドラマで死んだとされる役者が、別のドラマや番組では『生きて』いるから、ゲーム中の人物同様リセットすれば、もう一度生き返る感覚になるのだろう。

 「死」が持つ意味、すなわち永遠に大切な存在が消えてしまう。自分との関わりが途絶えてしまう、恐ろしさ、悲しさ、重さが伝わらないのだろう。

 生きるとは、生かされているのであり、他人も同様に生かされている貴重な存在であることを改めて認識し、「リセットできない」自分と向き合い、語り合い、伝え合い、乗り越える力を育む「愛」が大切なのだろう。
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