ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

痴呆でなく認知症

2005年02月18日 | 地域の話題

 今日、私はわが町に出来る初めてのグループホームの建設工事現場に行った。

 今年3月オープン予定なので、ほとんど建物は完成しており、内外の付帯工事や内装的工事がされていて、全体的にはこじんまりした目立たない建物で、あと一ヶ月もすると、ここにいわゆる痴呆性高齢者が入られるのかとイメージすることすら出来ない感じであった。

 計画によれば、介護保険に適用した、痴呆対応型共同生活介護をする施設として、1ユニット9名の入所が可能な施設として、京都府で十数箇所の実績のある医療法人が開所する準備をすすめていると言う。

 「痴呆」はお年寄りに失礼だとして、最近「認知症」なる用語が使われるようになってはいるが、要は物忘れというか、日常生活にも支障が生じるような事態に及ぶような、自分の行為や言動も、時間的経過もわからなくなるような症状が出たかと思うと、全く次の瞬間にはまともであったりするから、確かに家族や介護する人たちにとっては厄介な部分があるのである。

 実態は「痴呆」であり、いくら「認知症」と称しても、現実的対応は変わらないのである。

 先日、この「認知症」の入所施設である、ある地方のグループホームで痛ましい事件が起きた。
 12名の痴呆症状のある入所者がおられる施設で若い男性職員が、夜間一人で勤務していて、ある女性入所者に腹を立てて、温風ファンヒーターを顔のすぐそばに長時間あてて、やけどによる失血死に追いやった、痛ましい殺人事件であった。

 5年前の介護保険法による、介護保険サービスの進展の中で、多くの在宅サービスと施設入所サービスがうなぎ上りの数量で増加し、それに伴う介護ビジネスの業界も以上拡大しているし、この介護に携わる視覚を持った職員も急遽、急増、急造されているのである。

 こうした介護職員になるための養成機関、専門学校、資格取得講座などは目白押しで、何処でも開催されているし、これまた大きな収益をねらったビジネスとしても林立しているのが現状である。

 この事件を起した青年が、どういう人であったかではなく、多くの急造された、いや資格は取得されているが、人間関係の基本的イロハや、特に介護サポートやビジネスに関わる人間性や人権意識など、学習、研修の有無だけではなく、人としての思いやりや配慮、きづかいなど、忍耐強く、また愛情をもって為すことは、並大抵の精神力だけでは大変困難な場合があるのである。

 私が知っている、ある特別養護老人ホームの理事長は、私達がその施設を見学している最中に、大きな声で、施設の入所者の部屋から「おーい、誰か○○さんもらしとるぞ、オムツ替えたれや」と叫んでいたのである。私はこの一言で、この施設は介護サポート、入所施設としてふさわしくないと断言したい気持ちになったことがある。

 どう考えても、高齢者介護施設を運営する理事長とは思えない、暴言であり、人権意識などさらさらないのである。一時が万事とはこのことではないかと思えたのである。こうした対応をする責任者では、現場の多くの職員が誠意的に高齢者等に接していても、何かあった時の対応に、ぼろが出ること間違いなしではないだろうか。

 私は「痴呆」を「認知症」と言い換えることよりも、もっと根本的な高齢者ばかりではないが、障害者や多くの社会に存在する差別や偏見のベースに、しっかりとした人権意識、つまり人としてこの世に生まれたたくさんの人を、平等かつその人の個性とキャラクターを尊重して認めたうえで、必要な関係を誠意をもって築くことが大事なのである。

 わが町に出来る最初の「認知症」のひとたちのための「グループホーム」が地域の人々共に、しっかりした人権意識とケアの学習と技術と経験だけでなく、人としての忍耐強く、明るい、思いやりのある職員の皆さんによって担われることを心から念願し、入所者自身はもとよりご家族にも喜ばれる施設として、稼動することを祈る心境である。

 決して憎まれたり、嫌われたりしたい人はいない。しかし老いることで他人に憎まれたり、嫌われたりするのは、憎む人、嫌う人の度量がないことと、人としての尊厳や愛情がないからである。

 誰もが老いるし、誰も物忘れは小さい頃からしているのだ。年老いたために出る痴呆も、見方や考えによれば、子ども帰りの表れなのかも知れないのだ。

 誰もが、痴呆を笑ったり、軽蔑したり、怒ったり、暴力行為でいさめたりしない世の中にしなくてはならない。そのためには「痴呆症は「認知症」などと言い換えずに、痴呆のままの方がいいのかもしれないと私は感じているのである。

 
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「かぁさんの下駄」

2005年02月17日 | ガリバー旅行記
 突然ですが、「かぁさんの下駄」って歌を聴いたことありますか?

 実はガリバー旅行記・音楽エピソード第4弾として、「中村ブン」を紹介します。

 昔、昔、その昔、いや、それほどではないが30年ほど前に、宇津井健が主役のテレビドラマに出演していた、中村俊男という小柄で目のくりっとした存在感のある役者さんを覚えていませんか。

 彼が70年代半ばにシンガーとしてデビューした頃、私が暫くマネージメントをしていたのですが、彼との最後の仕事が、この「かぁさんの下駄」というシングルレコードだったのです。

★中村ブン「かあさんの下駄」

 世界中で 一番きらいなものは かあさんのおこった顔
 世界中で 一番うれしいのは かぁさんの笑った顔
 世界中で 一番つらいのは かあさんの泣いた顔

 隣のおばさんと出かける時も 父兄会で学校へ行く時も 
 かあさんはいつでもすりへった男物の下駄をはいて行った
 これしかないんだから仕方ないって 大きな声で笑ってたけど
 僕にはどうしても かあさんのように 笑う事ができなかった
 
 新聞紙に包んだ新しい下駄を 両手にかかえて息を切らして
 ただいまってエバって戸をあけたら かあさんは今日も内職してた
 かあさんこれって包みを渡したら 何だいって少し頭をかしげた 
 いいから早くあけてみてよ 僕のプレゼントだよ  

 包みをあけるとかあさんは こわい顔して僕に言った
 お前これどうしたの この下駄どこからもって来たの
 いくら貧乏してても 人様のものに手をかけるような 子に育てたおぼえはないよ
 情けないってふるえながら 下駄と僕をにらんでた

 違うよ かあさん僕買ったんだよ 
 嘘をつきなさい お前にどうしてそんなお金があるの   
 こづかいだってあげた事ないのに 
 弁当代ってもらう中から 毎日五円ずつためてたんだよ  
 タコ糸に通してずっと前からためてたんだよ    

 赤いはな緒の下駄を買いたくて かあさんをビックリさせたくて
 内緒にしていただけなんだ 悪い事なんか僕してないよ
 下駄を包んだ新聞紙の上に 大きなしずくがポトポト落ちた
 悪かったわねって言って 子どもの僕に何度も何度も頭を下げた
 すまなかったねって も一度言って あとは言葉にならなかった

 僕がはじめて 生まれてはじめて 
 かあさんの涙をみたのは それは小学六年生の冬
 

 お読みいただいた方の年齢、性別、また今まで生きてこられた環境などの違いによって、感じられた思いや感想は異なるかもしれませんが、私達はこの「かあさんの下駄」は多くの日本人、特に25年ほど前の日本では共感を得て、少しはヒット曲になるのではと一生懸命プロモーションしましたが、大して売れませんでした。

 しかし私が東京での音楽出版の仕事を離れ、現在の京都の地に移り住んで初めて出逢った酒屋のKさんが意外にも、この曲に偶然涙したことを話してくれたのでした。

 それは彼が配達の途中にラジオから流れてきた「かあさんの下駄」を偶然聞いて、その歌詞に引き込まれて聴くうちに、ご自分の心の中の思い出や心境とだぶったらしく、涙がとめどなく流れ出して、JRの踏切を渡った所で車を寄せて停車し、暫く聞き終わった後の余韻と感動で胸いっぱいになったと言うのです。

 私は、その当時既に彼のマネージメントから離れていたので、ちょっと残念な気持ちになりましたが、私達たちは、作者であり歌手である中村ブン本人と共に、一生懸命プロモーションしていた曲が、たとえセールスでは大して売れなくても、このような感動をしていただいた方が全国に何人もいること、また身近にいたことを大きな喜びと感じたのでした。

 今の時代の物の豊富さ、また子ども達にとっても何不自由ない暮らしの中では、この歌は昔話にしか聴こえないかもしれませんが、日本人の心と親子のせつない情愛がにじみ出ている秀作として、私ガリバーの仕事としての関わり、過去のガリバー旅行記の一ページに明記しておきたいと思っています

 もし皆さんも,中村ブンとかあさんの下駄という曲に出会われたら、じっくりと耳を傾けてやってほしいと心から願っています。
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「もったいない!」から始まる。

2005年02月16日 | 世界の問題

 今日、京都議定書が発効した。地球温暖化防止への気候変動枠組み条約の「京都議定書」が米国など未批准国を除く、世界141ヶ国、地域の批准で、COP3以来7年数ヶ月かかって、ようやく実質的に発効したのである。

 「もったいない」と思う気持ちと行動が、地球環境を少しでもいい状態で次代に残すキーワードになるのではないかと、外国からの来賓女性も語っておられた。

 昨年度のノーベル平和賞を受賞したケニヤの環境副大臣、ワンガリ.マータイさんは、「私達はまだ、世界に違いをもたらす世代です」と、まだ間に合うよ、あきらめず地球環境保全のために全力で努力しようと訴えておられた。

 私達の国「日本」はCOP3の議長国として7年前の12月、私も参加した記念イベントの会場である、同じく京都宝ヶ池の国際会議場で「日本は90年と比較してマイナス6パーセントの削減目標」を決めているのであるが、それから約8%以上CO2排出量が増加しており、90年ベースから目標値に達するためには現在の14パーセントもの削減が必要という大変な現状となってしまっているのである。

 しかし私にはどうも解せないのだが、この京都議定書には、「排出量取引」なるものがあって、「京都メカニズム」と呼ばれている、どう考えてもずっこい裏取引のようなものがあるのである。

 つまり、日本など先進国と言われる国々の実質的なCO2削減を目指しながら、発展途上国の削減に寄与する投資を行ったり、植林や削減プラントの設置などに協力し、その結果がでれば、その削減量を援助した国の目標削減量に加えるというもので、どう考えても先進国が金でごまかす制度となっている。

 もうひとつの大きな問題は、アメリカ、ブッシュ政権が、この枠組み条約の批准から離脱し、石油資本などと結託し莫大な利益をあげることを優先した、エネルギー消費世界一の国が、いまだ世界各国との協調による、地球環境保全のための担い手としての一員に加わっていないことである。

 次には経済成長と共にエネルギー消費においても著しい人口13億人ものアジアの大国、中華人民共和国、中国が発展途上国として、削減目標値をもっていないことも大きな問題である。

 ロシアは削減目標をを0パーセントとしているが、86年4月のあのチェルノブイリ原発の大事故による国家経済の破綻もあって、旧ソビエト連邦が崩壊しロシア共和国となったのだが、目標値は全く自然削減で、政府や国民の努力目標値にはなっていないのである。

 この様に世界中の国々の利害や政治的思惑も背景にあるが、ヨーロッパEU15ケ国全体ではを削減目標値を先進国の中で一番高く8%に決め、中には努力目標を15パーセントに設定した積極的な国もあるのが現状で、既に大きな成果と削減を実現している地域である。

 世界の中で日本は実は恥ずかしい実態のままである。それなのに今日の議定書発効記念行事では、小池百合子環境大臣?も出席し、小泉純一郎首相もいつもの政治的パフォーマンスで日本は率先して世界をリードして行く、などと大見得を切っているのである。

 先程の「排出量取引」だけでなく、アフリカ、南米、アジアの多くの地域で過去から現在に至るまで、多くの森林伐採やODAなどの政府資金援助などで、自然破壊のダム建設や多くの地球環境負荷に携わっている国であることを、改めて私達は確認した上で、国民ひとりひとりが、もう一度自らの日々の暮らしや地域社会やまちづくりで「無駄やもったいない」を無くす努力を、各々が肝に銘じてしなくてはいけないと思うのである。

 世界に「KYOTO」が、この議定書の発効で、より有名になるのは結構なことではあるが、会場からの市民の質問、疑問にもあったように、「キレイごと」に済まさず、問題点は厳しく指摘しながら、本当に世界に胸を張って、私達日本が先駆的に示し、行動し、実質的なCO2の削減、抑制を目標値にとらわれず、思いきった発想と科学技術と国民の意識と行動で実現しようではありませんか。

 「もったいない!」を地球温暖化防止への日本からの、庶民のメッセージとして世界にこだまさせて、地球と人類の明るい未来のために大きく叫ぼうではありませんか。
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「顔」が変わる!

2005年02月15日 | とんでもない!

 また、とんでもない事件が・・・。大阪寝屋川市の小学校に17歳の少年が刃渡り20数センチの包丁を持って侵入し、応対した52歳の男性教師を背中から切りつけて殺してしまった。他に二人の女性教職員にも重傷を負わせたという。

 ここ数年、またか!と思わす事件が続出し、神戸の少年による幼児殺人事件以来、全国各地で未成年者を中心に、対象が学校教師、幼児、小学生などに及ぶ、いわゆる「言われなき殺人」が急激に増加している。

 今朝もテレビのワイドショーで弁護士、教育評論家たちとキャスターたちが、この事件を取り上げて、いろいろと推論と解説を繰り返し述べていた。

 その中で、キーワードとして、「不登校」と「ゲーム」や「ネット」を異句同音に上げて、この青年の殺人に至る過程と背景を解説されているのだが、私にはどうも上滑りの解説、コメントに過ぎないと感じ、何とも空しい思いが募ったのである。

 「引き篭もり」や「不登校」そして「パソコンゲーム」や「インターネット」が如何にも、彼らの犯罪的行為を引き起こした原因の如く語るのは簡単だろう。しかし、こうした現象の奥底に、いかに現代社会が失って病んでいる「社会の病状」が語られていないか、と思ってしまうのは私だけだろうか。

 「人が他人を信用できない、愛せなくなった」社会病理は、戦後日本社会の進展の中で、経済優先の価値観が台頭して、学校、教育現場、家庭においての一番大切なことが、全て「お金」を得るための進学、大学、会社となっていることに大きな起因があると私は感じている。

 すなわち、人間の価値は「お金」を持っているかいないかで決まるかのような「価値観」に包まれてしまって、人間本来の自然と共生した生き方の中での、謙虚に感謝して自然をいただきながら、人々の協調、協力の下で、知恵と思いやりで暮らす、素朴でもたくましく生き合う精神が欠落してしまっているのではないだろうか。

 昨日、「同志社大学の学生支援センター」で若いスタッフと話した。彼らは18歳からの学生たちが大学に入って、「何を目指す」か「何に興味を抱くか」に関して、「エンパワーメントプログラム」と称する独自の学生参加型、自然体験プログラムを実施しているのである。

 世界遺産「熊野」での滝体験と農業や土木作業やダイナミックな作陶家のいる里「備前」での登り窯による作陶芸体験などをプロモーションビデオとして編集し、学内数箇所で放映していると言う。
 昨年実施した、こうしたプログラムに沖縄も含め3ヶ所で各15名の学生が参加したらしい。

 彼らが各々4泊5日のプログラム体験を通して、何が一番変わったのか?と担当者に問えば、それは「顔」だそうだ。納得である。小さい頃から、否応なしに「受験戦争」といわれる日本の学校進学ベルトコンベアーに乗せられて、一応やっとたどり着いた場所が、たまたま彼らには「同志社大学」だっただけなのである。

 大学に入学はしたけれど、自分は本当に「何に興味があって、何がしたいのか」が分からないまま、乗せられていたレールは、行き先を示してはくれない。そんな混沌とした日々、大学生にはなったけど、何故この大学に来たのか、明確に意識できている学生など1割もいないのではないだろうか。

 彼らの「顔」「顔」「顔」は、たぶん食事、自由、楽しさなどを求めて母親や父親に今まですがっていた子ども時代が終焉し、大人へと野に放たれたのだが、何処へコンタクトして、何を求めたらいいのかを模索している、「不安」と「迷い」の顔だったに違いないのである。

 彼らにとって、初めての体験ではないかも知れないが、長い間忘れていた人間本来の感性、人間としての心に、彼ら自身が自らの体験を通して「気づき」だしたのである。「気づいた」顔は、以前とはうって変わった、求める何かを見つけたり、人間的感性を取り戻した明るい自信に満ちた「顔」へと大きく変わっていたのである。

 この「気づき」こそ、人間を生かす、大きなエンパワーメントそのものではないだろうか。

 私は「包丁を持って、誰かを切りつける」行為に至った青年を弁護したいのではなく、彼らをこうした行動に追いやった「非人間的社会」が現代社会であり、こうした最悪の「自殺的行為」を起すまでに、家族、地域、学校が「気づく」必要があったのに、全く「知らんぷり」や「関わりを拒絶」していたのではないだろうか。

 亡くなった熱血教師と言われた先生には全く罪も対応のまずさ等があったとは思わない。全くの降って沸いた様なご不幸以外のなにものでもないことは言うまでもないのだが。

 先に述べた学生サポートの様な機会が、現在小中学生対象には辛うじて児童相談所という行政組織の中にあるにはある。しかし義務教育を終えた年齢以降の15歳以上の青年たちの、こうしたサポートやエンパワーメントを引き出すケアを行う機会や場所がほとんどないのが現状である。

 民間機関やNPOが主導的役割を目指して、こうした青年達の社会参加への大きな試練の経験をしながら同年輩やちょっと先輩たちとの交流機会を通して、自分らしく自分の将来へのベクトルを見つけるチャンスを体験出来るようにしなくちゃならないのではないだろうか。

 こうした犯罪が発生するのは、私達大人社会の「価値観」と「人間哲学」の欠落も大きな要因であることに「気づき」ながら、地域社会における、「引き篭もり」や「不登校」状態にある少年、少女たちを温かくサポートすると共に、「責任逃れ」の学校や行政にも対策、対応に「思いやり」を加味することを心から願っている。


 


 
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一本でもニンジン!

2005年02月14日 | ガリバー旅行記

 「一本でもニンジン」って歌をご存知ですか?

 「1本でもニンジン,2足でもサンダル、3艘でもヨット、4粒でもごま塩・・・」と続く数え歌風の童謡で70年代にフジテレビ系の「ひらけポンキッキ」の挿入歌のひとつとして、歌われていた曲なんですが、結構現在30代以上の人たちは知っているはずですよ。

 この曲は、実はあの「なぎら健壱」が本名でフォークシンガーとして頑張っていた頃に、私がマネージメントをしていて、フジテレビで収録されたものなんです。

 かわいい数遊びのアニメ付きでテンポよく歌える歌なので、よく口づさみやすく子ども達にも大人にも親しまれる曲として完成度の高い作品だったと思います。

 この曲が何と、あの世紀の大ヒット曲「泳げたいやき君!」のB面に採用されたんです。

 ご存知「およげタイヤキ君」は空前の大セールスを記録して、その当時400万枚を超す記録的数値を達成し、その当時のキャニオンレコードが建てた新社屋を、私達は「たいやきビル」と称していたほどの大儲けだったと思われます。

 この曲を歌っていた「なぎら健壱」は、その当時の話として、テレビや雑誌等ではこの様に話しているんです。「僕はたった3万円の歌唱料だけでした。」とね。

 しかし事実は違います。私はその当時、彼のマネージメントをしていましたので、タイヤキ君の大ヒツトに黙ってはおれずに、たとえB面とは言えレコードセールスについての「歌唱印税」を大キャニオンの「たいやきビル」へ出かけて行って、交渉をして1枚当たり何と50銭という破格?の印税をいただくことになったのである。

 つまり当時既にタイヤキ君は400万枚以上のセールスをしていたので、何と200万円以上の臨時収入が入り、当時のタレント、ミュージシャンとの基本的マネージメント契約により、事務所とは折半で、なぎら健壱本人には100万円余の支払いがなされているのである。

 「なぎら健壱」氏は、現在はタレントとしてバラエティ番組や俳優としてもNHKの朝ドラ「こころ」では船料理屋の酔いどれおやじなどを演じる俳優としても活躍しているが、その当時はまだまだ大ヒットには恵まれないフォークシンガーだったのである。

 でもご存知の方もおられると思うが、あの海援隊の大ヒット曲「母に捧げるバラード」つまり「こらっ鉄也!なんばしょっとかいな・・・」の博多弁のコミカルソングの後、次はと発売したメイキョク「悲惨な戦い!」や「葛飾にバッタを見た」「四月十日の詩」など名作を歌うシンガーソングライターとして活躍していた人でもあるのだ。

 幸いか不幸か知らないが、なぎらけんいち氏は現在、昔話として、このタイヤキ君の裏面「一本でもニンジン」を歌った話を面白く伝えるために、「たった3万円伝説」を作り上げて語っているわけだが、やはりここにも「事実は小説より奇なり」の本当のエピソードがあるのである。

 私は現在テレビなどで、彼の活躍ぶりを見るにつけて、「ほんまあの当時の百万円は貴重な大金だったのに、彼は忘れてしまつたのか、それとも宵越しの金はもたない!と言う、東京下町のおっさん気質で、酒好きな仲間達と、一夜で呑みほしたのかもしれないなぁと、今も「おいおい」と突っ込みを入れながら、喜んでいるのである。

 今も名曲として、ある世代以降の記憶に残る「一本でもニンジン」である。

 

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「山口さんちのツトム君!」秘話

2005年02月13日 | ガリバー旅行記

 みなさん!、「山口さんちのツトム君」って覚えていますか?と聞いて、すぐに歌える世代と、おぼろげに知ってる世代、また全く興味のない方、うんと若くて知るよしもない世代がありますよね。

 突然「山口さんちのツトム君」秘話を思い出したのは、昨夜のフォーク名曲集にも関連してるんですが、私が20代から30代にかけて関わっていた、音楽出版の仕事で、その当時は今は中年登山やエッセイストとしても活躍中の「みなみらんぼう」さんのマネージメントをしていた頃の話なんです。

 その当時と言っても、今からおよそ30年前、みなみらんぼう氏は「酔いどれ女の子守唄」の作詞作曲者で自らも「ウイスキーの小瓶」をシンガーソングライターとして歌ってデビューされた直後でした。
 フジテレビの子ども番組の童謡的な曲と共に、NHKの「みんなの歌」に曲を提供することになり、彼はこの曲でどうかと「まだ見ぬUFO」という秘蔵の曲をデモテープに吹き込み打診したのである。

 「まだ見ぬUFO」なる曲は、その当時も今も関心のある人々には、いろいろと話題になっているUFO、つまり未確認飛行物体を、愉しく夢のあるお話として取り上げて、編曲的にもその当時としてはカッコよくシンセサイザーで飛んで行く様をイメージさせる秀作であった。

 しかし暫くしてのNHKの担当者からの返答は「NO!」であり、何故不採用かと問えば、何と「NHKは科学的根拠のないものを扱うテーマの曲を取り上げられない」との驚くべき内容の返事がきたのである。

 ちょっとビックリ!したけれど、天下のNHKさんがおっしゃるのならば止む得ないと、この曲の提供は断念し、私がそうだ、「さっちゃん」のようなほのぼのとした童謡ぽいのがあれば、いいのではと提案し、彼が生み出したのが、「山口さんちのツトム君」だったのである。

 「山口さんちのツトム君、この頃少し変よ、どうしたのかな?」で始まる、この名曲はNHKテレビでは田中ケイコさんの可愛いアニメと共に、たぶん川橋啓史君という男の子が歌っていたのだが、レコードとしては斎藤こずえちゃんが歌ったのが一番売れたので、彼女のヒット曲となってしまったのである。

 しかし実は、今は個性的俳優として活躍する、あの「北の国から」「寅さんシリーズ」「ドクターコトー」で名を馳せた、吉岡秀隆君も、この「山口さんちのツトム君」を歌っていて、彼の芸能界デビューは、たぶん6歳の時の、この歌だったはずである。

 また、この「山口さんちのツトム君」が各社競作で都合100万枚以上の大ヒットになったため、「柳の下のどじょう」よろしく第2弾としてのアンサーソングを作ることとなり、あの「みんなの歌」のかわいいアニメとしても登場している、ツトム君を「遊ぼう!」と誘っているお姉さん役の女の子を主人公にした曲を制作することとなったのである。

 出来上がった曲は、とってもラブリーな曲で、ツトム君の元気がなかったのは「田舎に行ってたママが帰ってきたら、たちまち元気になっちゃって・・・」と歌詞で歌われるような、かわいい男の寂しい心境を明かしているのだが、さてこの女の子の名前は?と言うことで、実は私の娘の名前から「ユミちゃんの引越し」という「山口さんちのツトム君」の続編が出来上がったのである。

 「今日はユミちゃんがね、遠い町に引越しだよ、・・・」と歌いだす、この「ユミちゃんの引越し」を知る人は、「山口さんち・・」を知っている人の中でも少ないと思われるが、私達にとっては「山口さんち・・」より身近な曲になってしまって、その後私達ユミちゃんを含む一家は、実際に「山口さんち・・」の印税のおかげもあって、「引越し」たのである。

 みなさんにとっても、記憶に残る歌、歌詞、またその歌がきっかけで、人生の大きな転機になった曲がおありかもしれないが、少なくとも「みなみらんぼうさん」にとっては、この「山口さんちのツトム君」が大きな転機になったであろうし、私たち家族にとっても大きな人生の岐路のひとつになったような気がしているのである。

 懐かしい名曲「山口さんちのツトム君」と「ユミちゃんの引越し」である。

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永遠のフォーク大全集!

2005年02月12日 | テレビマスコミ
 ここ数ヶ月、「NHK、日本放送協会」をめぐる問題は尽きなく、プロデューサーの詐欺的経費、海老沢前会長の退任、放送受信料の不払い、そして政治家の圧力の有無、朝日新聞との攻防など、話題提供度は放送内容以上にニュースやネタになっている様である。

 放送受信料の不払い者は以前から相当数いるので、今回を機に不払いを始めた人たちを含めば数百万世帯が「放送受信料」なるものを払っていないばかりか、NHKという媒体「日本放送協会」なる放送局を基本的には信じていない国民やテレビ視聴者が多くいることは間違いないのである。

 私自身も「紅白歌合戦」や「大河ドラマ」などもほとんど見ないのであるが、「ニュース」や「スポーツ中継」は民放他局がやっていない時は観させていただくが、特にニュースは民放との比較のために見ている時がある。

 話はNHKの諸問題になってしまったが、今夜は久しぶりに2時間、NHK衛星第二放送を観てしまったのである。それは「永遠のフォークソング名曲集」なる番組であった。

 60年代後半から70年代にかけての、日本のフォークシーンに度々登場していた、懐かしいシンガーたちが登場し、次から次へと懐かしい日本のフォークを歌っていたのである。

 私が10代後半にアメリカンポップスに出会った直後、60年代の後半から日本でもシンガーソングライターと呼ばれるギターを携えて自分で歌を作り歌うスタイルの若いミュージシャンが続出し、私達の青春の数々のページを彩ったり、景気付けてくれたりしたのである。

 今日、登場したアーチストたちでは、小室等、かまやつひろし、加藤登紀子、西岡たかし、杉田二郎、南こうせつ、伊勢正三、イルカ、高田渡たちだが、忘れてはおけないアーチストとしては、他に岡林信康、吉田拓郎、谷村新司、中島みゆき、松任谷由美、山下達郎、さだまさし、なぎら健一らもいる。

 実は、私自身が70年代を、こうしたフォークミュージシャン達との仕事に携わっていたので、今日の衛星放送テレビ企画は、懐かしさだけではなく、旧知のミュージシャンたちの今、現在の表情や生き様を知る上でも、見なくちゃいけないプログラムと思って観ていたのである。

 71年正月の「岡林信康」の復活コンサートがきっかけで、このフォークソングに関わる業界に入った私の最初の仕事が、あの「遠い世界に」で有名な「五つの赤い風船」のバンドボーイ的役割だったのである。
 
 大阪北区の小さな事務所から、その当時の「風船」の楽器類、ウッドベース、ギター、リコーダー、オートハープ、ビブラフォンなどをライトバンに積み込んで、コンサート会場や放送局、サテライトスタジオの公開録音などにも走っていたのである。

 北海道や東京のコンサートの際にも長距離やフェリーも使って、車で楽器を運んだ記憶もあり、彼等の歌を聴くと数々の場面を思い出すのである。

 30年経って、リーダーの西岡たかしは初期の風船のメンバーだった中川イサト、それにボーカル青木えみこ、キーボード竹田裕美子で「五つの赤い風船」を再結成させ、今日もそのメンバーでテレビに登場し、あの名曲「遠い世界に」を歌っていたが、どうも私にはピントこないし、藤原秀子のボーカルと東祥高、長野隆の旧「五つの赤い風船」を思い出してしまうのである。

 しかし今は今、私自身も30数年前から歳を同じように重ねているのだが、、テレビを通して見る西岡たかしや小室等、高田渡、杉田二郎、イルカ、山本潤子さんたちが、どう見ても彼等の方が歳をとったように見えて仕方がなかったのである。

 NHK、日本放送協会は、大変多くの問題を抱えている公共放送ではあるが、私にとっては今晩放送されたような、時代を超えての記録的なVTRや歴史的な記録をともなった企画番組は見る価値があると思い、さすがNHKならではだなぁ、なんて勝手な感謝で見させていただいているのが実情である。

 これからも、我が青春時代を色濃く彩った、数々のフォークソングやニューミュージックと呼ばれた時代のシンガーやアーチストの過去の映像、歌と共に、今現在も歌い続けている人たちの今の歌も聞かせて欲しいと願っている。他の民放ではなかなかやれない企画「永遠のフォークソング大全集」に感謝。

 
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春を告げる「竹送り」

2005年02月11日 | 地域の話題
 節分、立春が過ぎて、間違いなく「春」に向かっているのだが、まだまだ寒い日が続きます。

 今朝私の町の「普賢寺・大観堂、観音寺」を拠点に山城松明講による「二月堂竹送り」が行われました。
写真は、今朝の孟宗竹の掘り出しのスナップですが、竹齢約5年の真っ直ぐな竹を根ごと掘り出して、前日に掘り出してあったものも含めて,計7本を奈良東大寺、二月堂のお水取り行事の際の、松明として使われる竹を献上するための掘り出し、運搬の日だったのである。

 「二月堂竹送り」のそもそもの由来は、奈良東大寺二月堂において、毎年3月1日より14日間行われる、修ニ会「お水取り」の行法は、天平勝宝4年(752)に実忠和尚によって始められ、今年2005年で1254回目を数えますが、この間一回も途絶えることなく続けられてきました。
 
 この東大寺あげての大行事に、少しでもお役にたてればと始めたのが「二月堂竹送り」の風習の復活だそうです。

 「お水取り」は別名「お松明」とも言われるように、あの二月堂を舞台に駆け抜ける松明の炎はあまりにも有名ですが、その松明に使われる真竹は昔、山城地方を初め高山や月ヶ瀬方面から送り竹の風習「お水取りの行が近づくと奈良に通じる街道筋に寄進竹を置いておくと、善良な村人や旅人、信者達によって、二月堂までリレー式に運ばれた」とのことで、その他の品物と共に調達されましたが、いつの頃からか、こうした風習は忘れ消えていました。

 昭和50年頃当時の老人会で、伝説や昔話を収録し書き残そうとの話の中に、「二月堂の竹」があり、このあたりからも戦前までは竹の寄進をしていたことが分かりました。

 昭和53年当時近畿一円は60年に一度と言う花枯病によって、真竹は壊滅的な被害でなくなってしまい、二月堂では四国、九州と手を伸ばして竹の調達に苦労されたことを聞き、竹送りの行事を40年ぶりに復活させて、今年で28回目の「竹送り」となったようです。

 普賢寺の大御堂、観音寺は、1300年前天武天皇の勅願で義淵僧正が開基され、次いで聖武天皇の御願により、良弁僧正が伽藍を増築された寺であり、良弁僧正の高弟で、有名の奈良のお水取りを始められた実忠和尚を第一世としており、良息山普賢寺教法寺と称して、その盛んな姿を見た人は「筒城の大寺」と申したそうです。

 この二月堂竹送りの歴史的経過や普賢寺・大御堂の説明は、山城松明講、講社長 松村茂氏の由来記ならびに、大御堂、観音寺の略縁起によるものですが、年々多くの市民や関心を持つ人たちが集い、普賢寺の竹が繁るお山は大賑わいになりつつあります。

 私もここ数年、竹の掘り出しの時間から、大御堂への竹を運び、ご住職等による清めと祈りが終わった後、奈良町近辺までは車で運搬し、その後は大八車に積み替えて、二月堂へと運ぶそうだが、仕事の関係もあって、車までは肩に背負っての運びのお手伝いをさせてもらっている。

 今日は掘り出した根付きの、約8メートルの長さに切った竹なのだが、掘り出したばかりの真竹は、根と土も一緒に運ぶので、大変重く約80キロ歩度ると言われていて、今日も大御堂から車のある所まで、約2.300メートルなのだが、右肩に食い込む程重量感があり、途中から肩の痛みと重さに耐えられないかもと思うほどの体験をした。

 多くの松明講の人たちだけでなく、大阪からも近いうちに同じく東大寺二月堂のお水取りの竹送りを始めようとされている別の講の人たちも揃いのさ作務衣姿で来られており、山城松明講の方々との交流も始まったみたいであった。

 いずれにせよ、「春を告げる」と言われる、あの奈良東大寺、二月堂のお水取りの始まりを約3週間後に控えて、毎年行われる風習伝統行事としての「竹送り」に少しでも参加させていただいて、季節の移ろいの微妙な変化を日々感じながら、この地に住まい、多くの人たちの願いや思いとリンクしながら、また新しい春を待つことのできる「幸せ」を感じる朝であった。

 もうそこまで、確実に「春」はやってきています。帰り道、大御堂に通じる参道の周辺に植えられた「菜の花」が今か今かと「春」を待つように、今にも咲き誇る日が近いことを感じさせてくれる、緑の輝きが感じられた。二月堂のお水取りを経て、間違いのない本当の「春」が来ることを待ちわびたいと思う。
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頑張ったらアカン。

2005年02月10日 | 感じたこと

 まだまだ寒いですね。入学試験シーズンですし、大学生にとっても後期試験の真っ最中かもしれません。

 春を待つ多くの人にとって、今は寒さに耐えて春が訪れるまで「頑張る」時期かもしれません。
特に、昨年秋の新潟中越地震や暮れのスマトラ沖大地震によるインド洋大津波による被災地の皆さんにとっては、まさしくこの冬を乗り越えるためにガンバらなければと思っている方が多いと思います。

 私はこの表題に敢えて「頑張ったらアカン」と書きました。というのは、私自身も30代半ばまでは、毎年新しい年を迎えるに当たって、年賀状などにも「今年も頑張りましょう!」などと気軽に「頑張ろう」とか「ガンバッテ下さい」「がんばります」などと書いたり、表現したりもしていた。

 しかし、ある体験以降は、この「頑張る」という言葉を封印して、めったなことでは使わないようにと気をつけるようになったのである。

 30代の半ば、ちょうど私が子ども達との遊び場のリーダーとして、仕事に関わりだしていた頃、ある中学校の先生と共に、広域的な地域から小、中、高校年齢のしょう害を持った児童、生徒が通う養護学校を見学し、いろいろと現状を学ぶ機会を得たのである。

 私達はゆっくりと現場の先生達の説明を受けながら、小学部、中学部、高等科と子ども達ひとりひとりの障害の実態や、その個性に合わせた養護学校教師や指導員の対応ぶりなども参考にしながら、いろいろと話ながら、最後は高等科の部屋へとやってきたのである。

 その頃、一台のマイクロバスが学校にやって来て、10数人の教育関係者と思われる中高年の女性たちがバスから降りて、急ぎ足で私達がたどった様なコースを見学して、短時間の間に私達がまだいる高等科の男子生徒の部屋にやってきたのである。

 女子の生徒等は別の部屋で、ミシンがけなどの裁縫や布から簡単なエプロンやタオルなどを作っていたように記憶しているが、男の子たちは大きな木材を原材料に、木工的加工をして机や椅子の製作に取り組んでいたのだ。

 そこへ失礼な言い方かも知れないが、マイクロバスのおばさんたちが部屋にやってきて、口々に「頑張りや」「ガンバッテな」と声をかけて、そそくさとマイクロバスに乗って足早に帰って行ったのである。

 私達が唖然として見ている前を、彼女達の集団は「ガンバレー」の挨拶だけを残音のごとく、合唱のように残して立ち去ったと言っても過言ではなかったのである。

 彼女達の姿がバスに消え、学校から出て行った頃、ようやく静寂と言うか普通の今までの教室、木工作業室に戻った時、ある男の子がポツリと「何で僕等だけガンバラなアカンのや」とため息混じりに言ったのである。

 それは、先程の彼女達の「ガンバレ」が励ましのつもりの声援かも知れないけれど、彼等には「僕等こんなに頑張ってるのに、まだ人一倍、いやニ倍も三倍もガンバランと人並みに、あんた等はなられへんのや」とでも言っているような響きというか、意味にしか聞こえなかったと私には感じて愕然としたのである。

 それ以来、私は自分自身は心の中で、仕事や人との応対や物づくりなど、精一杯努力することは大切なので、自分自身で「頑張ろう」と思う気持ちは必要だが、他人に対しては軽はずみに、また無責任に「頑張りや」などと言うことは、決して言わないようにと肝に銘じたのである。

 また、いろんな方との会話や雑談の中で、私自身に対して「頑張って下さい」と言われる場合は甘んじて受けたとしても、親しい友人、知人が「頑張ります」などと口にしたら、私は必ず「頑張らんでええで」「頑張ったらろくなことないよ」と否定的に返答して、「一時頑張り過ぎたら、ゴムバンドのように伸びてしもて長持ちせえへんし、切れてしまうかもしれへんで」と注釈することにしているのである。

 人は様々の生き方があり、生き様があるだろうが、人の能力や与えられた時間、可能なことには限界があるものである。人ひとりが出来うることをコツコツと一生懸命することは、素晴らしいことだが、頑張ることは一瞬であっても、後々その頑張りが大きなリスクになったり、迷惑になったりする場合もあるのだ。

 自分自身の可能な努力や精一杯の気持ちで何事にも立ち向かったり、働いたり、学んだり、体を動かしたりすることがいけないと言っているのではない。

 「頑張る」には「無理」や「無茶」が付きまとっている場合が多いものだから、適度な精一杯と適当な一生懸命が最適なのではないだろうかと思うのである。

 「頑張ったらアカン」、心優しく、じっくりと、精一杯、一生懸命な自分でありたい。

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「北の零年」に思う

2005年02月09日 | ガリバー旅行記
「北の零年」を見た。何故この作品を見る気になったかと言うと、中学時代から「北」つまり北海道が大好きだったことと、「零」すなわちゼロが私が作った会社の屋号と同じであったこと、そしてやはり、我々にとって「吉永小百合」という女優は特別な存在だからでもある。

 ほとんど前知識や大きな期待もなく、映画館に足を踏み入れた。しかし3時間近い上映時間、めずらしくも眠ることなく観た。今まで数多くの映画を見ているが、大抵は途中で必ず一度や二度は少し眠ってしまうのだが、この作品は最後までちゃんと見れた。

 僕自身が充分疲れが取れていて眠くならなかったのか、作品の充実感が僕を眠くさせなかったのか、いずれにせよ、邦画としては大作と前評判のあった作品とは言え、テーマの大きさと北の大地が舞台になっており、時代背景が幕末から明治にかけての激動期であったので、興味あふれる題材であったためでもある。

 私の北海道好きは、中学時代の社会科の地図帳との出会いから一貫していて、憧れの北の大地であり、初の本格的な旅行も、初恋に似たような高校生時代の思い出も、学生時代のフィールドワークの先も、そして新婚旅行も、何と全て北海道であったのである。

 また「零年」のゼロは、大阪から東京の地で音楽ビジネスの仲間入りをした後、社員として働いていた小さな会社を止めて、新たに若い仲間だけでと一緒に始めた新事務所も数ヶ月で経済的に行き詰まってしまって、止むにやまれず自分で事業を始めることになり、「ゼロからの出発」と言うことで、自分の創設した会社の屋号に「ゼロ」をつけてスタートした思い出に重なっている。

 「吉永小百合」さんについては、私ごときがあぁだ、こうだと言うまでもなく、戦後の日本映画の中に燦然と輝く大女優であることは言うまでもないのだが、日活のまだ白黒画面だった頃の「キューポラある街」や浜田幸夫との「愛と死を見つめて」など淡き恋と若き人生を描いたシリーズが、私達の青春時代の少し前のお手本のような感慨があるのである。

 今年「吉永小百合」さんも還暦の年輪を数え、円熟の期に達していると思われるが、いまだ彼女の美貌と理性的な美しさは、多くの映画ファンを魅了してやまないことだろうと思う。

 さて「北の零年」を観ての感想というか、受け止め方であるが、私にはまだ製作者の本当の意図と狙いが充分理解できないような気がしているのである。

 時代に屈することなく、夢を信じ続けた女、「小松原志乃」を演じた「吉永小百合」に文句もいちゃもんをつける気は毛頭ないのだが、ひとりの女性としての理想像なのか、仏や神様ではないのだから、現実的には、私にはリアリティーが乏しい生き方のような気がしてならなかったのである。

 つまり、江戸から明治の初期という、日本が大きく変わろうとする時代であったとは言え、行定監督自らもコメントされているように、あの激動期の数々の英雄が語り継がれており、そんな多くのエピソードが、プロデューサー、監督、脚本家などによって抜粋されて、かっこいい男達と耐え忍ぶ強い理想の女達が描かれるようになったのだと思っている。

 もともと映画とは、そういうものだと思えば何の問題もないのだが、「吉永小百合」演ずる「小松原志乃」の生き様、生き方は理想的な現代でも通ずる女性像かもしれないが、私はあえて、こんな理想的な女性は現実的には存在しなかったと言いたいのである。

 いつの時代にも、「事実は小説より奇なり」であるかもしれないが、私達男性にとって、都合のいい理想の「女性像」が描かれているような気もしてならないのだ。決して「吉永小百合」の演技や美しき風貌や眼差し、しぐさに嫉妬して言っているのではなく、製作者達の「夢」の心と映像が描かれているのだと思う。

 侍魂を捨てきれない男達とそんな男達を支え耐え偲ぶ女達。それが本当のこの時代の北海道開拓史の中でのリアリティとしてあったとは思わないが、現代に生きる私達にとっては、ある理想の姿なのかも知れないと感じられた。

 「北の零年」は北海道の自然の厳しさと時代を超えて男達の理想の女達を「吉永小百合」に演じさせた、日本映画の今年の秀作であることは間違いない。

 いずれにせよ「夢」はあきらめず、持ち続けたいものである。
 

 

 
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