ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

ええかっこせずに。

2005年02月19日 | 日本の課題

 
 私の友人である小学校の女性教師は、「嘘を言うストレスは予想以上にきつい」と言う。

 何を言いたいのかと言うと、今週彼女の学校で研究があったそうで、日常のクラスの実態や様相とはかけ離れた、外部向きの嘘で固められた、作られた報告をしなければならない立場に立って、「そんなこと私には言えません」と断っても、研究授業の総括として話をすることになり、自分のクラスの実情を話したそうである。

 しかし大きなプレッシャーがかかり、他のクラスや学年全体の実情は必ずしもそうではないのに、いわゆるキレイごとと言うか、学校にとってええかっこの嘘を言ってしまった後悔と共に、大変疲れたと正直に告白されたのである。

 現代社会に生きる私達は大なり小なり何らかの組織に属したり、お世話になっていると思うが、その組織や会社、学校などの中での多種多様な問題が大なり小なりあるに違いないと思う。だが対外的には世の中の常と言うか、常識的には「うまく行っている」「何ら問題はなく順調です」と答えてしまっているのではないだろうか。

 国、都道府県や地方自治体においても然りであり、先月から問題が噴出したように報道されている、大阪市の職員厚生互助会や市職員に対する厚遇ばら撒き手当などの現状も、「未だに何ら問題はない」、正当な労働や勤務に対する報償や手当だと言い張っている幹部や組合役員もいる。

 いつのまにか全く一般庶民、納税者の常識や普通の感覚が見えなくなって、麻痺してしまったかの様な、あり得ない様な言動が、告発された後も長く続いているのである。全くあきれてしまう様な公務員特有?の感じ方なのだろうと初めは思っていた。

 しかし、最近そうではないことに気づいたのである。どうしてかと言うと彼らにとっては今までの長い歴史と慣習によって作り上げられた、いや獲得した特権は当たり前であり、庶民や外部から批判されたり怒られたりするごとき問題ではないのである。

 つまり彼らにとっては常識であり、あたり前の実態なのに、「おかしい」「改めるべきだ」などと批判や変更、中止を求められること事態が不愉快であり、時には不当な力であり、当然の労働者の権利や既得権の剥奪という行為として、断罪すべきだとの極端な意見、対応まで出てしまうのである。

 実は彼らには、こうした問題提起に対して「気づく」感性がもはや退化して、喪失しているのではないだろうかと、最近感じているのである。

 つまり普通の一般人が難しく考えたり、いろいろ調査や研究をした上で考察しなければ結論や結果が出ないような問題ではないのだが、彼らは「気づく」ことが、もはや出来ない状態、立場に陥っているのだ。

 先に述べたように、多くの政治家、大企業の会長、社長、役職者、そして学校の校長、教頭などの管理職の皆さんなど、社会的組織や団体の責任を担ったり、長になってしまった人々は、その組織の維持、継続が一番の使命であり勉めになり、何が何でも内部の不祥事や問題、課題等、社会に負のイメージになる問題は、事の良し悪しではなく、ともかく内々に隠すか、蓋をして外部に漏れないようにするのが、仕事だと思っているふしが大いにある。

 責任者は、自分が責任をとるためにいるのではなく、責任問題が社会や関係者から問われないように、精一杯事実や問題を漏洩しない、また問題の隠蔽やなかったことにする術に長けた人が、いい上司であったり、責任者?であったりするのである。

 学校の教師にとっては一番大切なのは「子どもが主人公」の児童、生徒のはずである。しかし実際は違っていて、学校の多くの校長、教頭、教務主任などの管理職は、教育委員会や文部科学省のお偉い人々の方が大切であり、子どもに評価されるよりも、教育委員会やお偉ら方の評価や認知の方が勝るのであろう。

 素直に現実を直視して、「出来ないことは出来ない」と言う勇気や、「出来てもいないのに、出来ている」などとええかっこで嘘を言うような教師にだけはなって欲しくないのだが、実際の教育現場に立っている多くの先生方は、自分達の職業的立場の保全のためを第一優先として、多くの「嘘」を大人向けだけではなく、子ども達にも日常的に毎日のように言っているのではないだろうか。

 ぜひ嘘や建前での言動を慎み、事実や現実に知らん顔せずに、ものごとに立ち向かっていただきたい。

 私の思いは、教育現場だけの問題ではなく、現代日本の大人社会全てに関わる、私達自身の問題であると思っている。

 「ええかっこをせずに、本音で素直に事実を述べたり、誤りや間違いは隠さず認めよう」それが大人としての私達に出来る、真実を見ている現代の子ども達へのメッセージではないだろうか。


 
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1 コメント

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建前と実態 ( 竹ノ脇遍路)
2005-02-20 14:10:41
その通りですね。組織として建前で物事を処理しますと、その時はシャンシャンで良くても、現実との乖離が顕著になり、ますます改善や当り前に戻すのに相当なロスと労力コストがかかって、かえってマイナスです。現場担当者等に建前と現実とのクッションとしてのしわ寄せがいって気の毒です。特に行政等は過去とのしがらみが強固にあって、一般社会の常識が通用しにくい環境にあるのでしょうね。
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