ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

おとうさん、親父、チチ。

2005年10月05日 | ファミリーイベント
 

 おとうちゃん、父、親父。自分の父親が亡くなって、もう36年になる。

 幼児の頃から中学生の頃までは「おとうちゃん」と呼んでいた。中学を卒業する15歳の頃からは「おやじ」と呼ぶように自然になっていた。あらたまった時とかには「父」と呼称していた。

我が娘は何故か、ある時期から、私自身のことを「チチ」と呼ぶようになって、チチの父、すなわち娘の「おじいちゃん」は、こういう人やったと伝えなければならない時期になっている様に思う。

 明治生まれの私の父は、大阪で育ち、大高、三高の出身で、大阪市役所に勤め、戦時中は海軍技術職として徴用され、主に土木関係の道路や橋の設計、建設に従事していたらしい。

 岡山出身の母と結婚して後、戦後の新制大学に招ねかれて、工学部土木工学、橋梁研究室の教授として20年間をおくり、工学博士として研究と教育に専念していた。

 子煩悩な父で、少しのお酒をたしなみ手頃な山歩きが好きだった。

 ちょうど私が大学生になった頃、親父は70年日米安保の自動延長と言う政治的課題と大学の自治、学園闘争の渦中の時期に、気軽に受けた手術のために69年2月に急逝してしまったのである。

 私の20歳の時の出来事であった。

 贅沢は出来なくとも何不自由のない普通の楽しい家庭生活が、正月明けの「ちょっと念のため胃のポリープ除去手術をしてくる」と言って入院した父だったのだが、手術はうまく終わったはずなのに、術後の腸の癒着のため再度手術となり、再々度別なところの癒着が起こり、三度目の手術後帰らぬ人となってしまったのである。

 私は、その当時大学の寮生活をしており、入院中の父を幾度と見舞いながらも、父の死が、このような形で訪れることになろうとは全く予期していなかったのである。

 しかし、三度目の手術承諾書は、もう母は書けないと言い、家族の一員として「助かるためには医師に委ねるしかない」との思いで、私自身が家族を代表してサインした記憶があり、最期の時が近づいた父のベッドの横でのひとつの光景を、今でもくっきりと覚えている。

 2月の病室で、母が入れてくれた暖かいお茶を呑もうとした時である。小さな湯呑み茶碗のお茶に、一本の茶柱が立っていたのである。

 若い20歳の息子の僕の心に、「茶柱が立ったら、願い事をすればいい」と言う、言い伝えがよぎったのである。暫く見つめながら私は何と「父は亡くなるであろう。この死を自らの試練として乗り越えたら、少しは大きな人間になれるかも知れない」なんて気持ちがよぎったのである。

 「父が良くなって、再び元気になれます様に」と祈ったわけではなかったのである。

 亡くなった父と、ゆっくり交わした会話、若い息子とのひとつの議論を覚えている。

 「お父さんが造る橋は、人が人と出会ったり、物資をトラックに積んで行き来して、人の生活が豊かで平和になるためのもの」であるはずである。なのに「戦いで傷ついたり、肉親の死や悲しみに涙する人々が行き来する」ための橋であってはならないと。

 父は黙って息子の意見に耳を傾けて、返事はせずに僕の目の前から姿を隠したのである。

 今も、その父の姿と何も言わなかった気持ちと、無言の言葉を心の中で反芻することがあるから不思議である。

 チチと私を呼ぶ我が娘にも息子が出来て早や4年。義理の息子にあたる婿は偶然土木工事をする会社員であった。孫が自分の父のことを「おとうさん」と呼び、父の仕事を理解出来る様になった時に、自分の祖父、つまり私の父である、ヒイジイサンの人となりをも伝えることが出来るのではないかと思っている。

 お父さん~親父~父と、呼び方は変っても、父は偉大であり大きな存在であってほしい。
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