ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

不条理な死をケアする。

2005年10月02日 | 感じたこと
 私の古き知人の一人に高橋和尚こと高橋卓志住職がいる。偶然、今日の昼過ぎの教育テレビの「宗教の時間」で、日本のフォークシンガーの元祖のひとりである、小室等氏とのインタビューを中心に、彼の人となりと考え方と活動について、1時間ほど放映されていたのである。

 彼は、長野市浅間温泉卿にある妙心寺派の禅寺である、神宮寺の前住職、高橋勇音老師の長男として生まれ、宿命的な住職の後を告ぐ人生に導かれたのであるが、学生時代には何とか寺から脱出したくて勉強したが、スキーの競技に参加しだして経費などをバイトだけでは捻出できなくなり、止むを得ず「寺を継ぐからお金を出して」と母親に懇願したことから僧侶の修行に入ったというのである。

 そんな、あいまいでいい加減な動機というか成り行きから僧侶の道を歩んだ、高橋卓志師が、最初に大きな死の重みに出会ったのが29歳の時に、同門の尊敬する山田無文老師の誘いで同行した、インドネシアのビアク島の遺骨収集慰霊の旅だったというのである。

 太平洋戦争での敗戦色の濃い1944年夏から秋にかけて、約1000名もの日本兵士たちが、この島で最後の抵抗を銃器も爆弾もない日本刀のみの野蛮なゲリラ戦で戦いながら、大きなサンゴ礁の島の洞窟で痛々しい最期を迎えていたのである。

 高橋和尚や、この地で最期を遂げたと思われる兵士の遺族たちが、この洞窟に入ったのだが、通訳の言葉で下のどろどろの土を掬ってみれば、それがほとんど遺骨であったという驚くべき状況を体感して、彼は遺族の号泣、慟哭と共に、立ち直ることすらできないと思うほど落ち込んだというのである。

 戦後30年以上も経っていたが、多くの若き兵士たちが家族、恋人、友人、知人を思いつつ、「不条理な死」をここで迎えざるを得なかったのである。しかも、その亡骸は全く祀られることもなく、異国の洞窟の泥の中にグチャグチャに放置されていたのである。

 こんな非業の死を、国家権力の指示で強制的に迎えるしかできなかった、ひとりひとりの人生にも、各々の人生観や夢や希望もあったことだろうが、それが叶わぬまま、米軍の火炎放射か銃弾にあえなく崩れてしまったのであろうと思うと、耐え切れない命の最期の無情観を感じざるを得ないのである。

 それからの彼は老師である父、高橋勇音師の死を身近に看取り、この地域と世界中の死と直面している多くの人々とのNGO活動に関わりながら、神宮寺という寺を、死と向き合うターミナルケアの出来る拠点としようと活動されているのである。

 私は、彼とチェルノブイリの原発事故による、ベラルーシ、ウクライナの被爆放射能で苦しむ子どもたちの医療救済支援のグループで一緒に現地を訪れたりもしたが、彼はタイのHIV患者支援から、地元松本での地域福祉活動まで幅広く、また文化、平和、まちづくり活動にまでアクティブな活動を続けているのである。

 「共感、共苦」をテーマに、若き頃から体感と共に多くの死に直面してこられた寺の住職としての職業意識を超えて、3人称から2人称に意識が変化してきた、「人の死」が、60才を前にして一人称としての「死に向かっての生」の大切を実感しつつ生きようとされているのである。

 ある関西の癌ホスピスの医師は「あの世とこの世」は、「あ」と「こ」が違うだけやでぇーと言うたらしいが、「死への恐怖」ではなく、この世を精一杯、感謝と共に楽しく生きるサポートをしたいと、高橋卓志和尚は結んでおられたのである。

 誰にとっても死は不条理であるが、できるだけ条理として納得できる死を迎えられる様な生き方を見つけて、気づく人生を送りたいと思うのである。
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