現代社会において、他人との人間関係がギスギスして、何とも息苦しく思うことはないだろうか。
何故に、ここまで日本の現代社会での一般的な人と人の関係が殺伐としてしまったのか、私は人々が間違いなく自分本位というか、自分勝手になっているからだと感じている。
特に車を運転する機会が多いので、時折全く意に解せないことに出くわすことがある。先日も2車線ある直進車線を走行中に、余裕の車間距離で車線を替えて直進しようと少しスピードを上げ、隣の車線から追い越したところ、後ろの黒い車の運転手の気にさわったらしく、追尾して何度も何度も私の車の前で車線変更を繰り返し行い、邪魔をするというか、いやがらせを繰り返したのである。
一方、お互いが譲り合ったり、譲ってもらったら、会釈やクラクション、あるいは手を上げて、最近は車の割り込みに道を譲ったりするとハザードランプの点灯で、ありがとうの合図をする車も増えている。
ちょっと急いでも、あんまり替わらぬ都会や周辺道路での自動車交通の混雑や行き来に対して、少しでも気持ちよく、お互いが譲り合った交通マナーが当たり前になれば、さぞもっと気持ちの良いカーライフが楽しめるのでないかと、いつも思っているのだが、なかなかそうはいかなくて、気分がめいることもある。
数年前、私が車を運転していて、ささやかなことだが、こんなことがあったのである。
冬の朝方だったと記憶しているのだが、私は大阪方面へ所用があり車で家から広いバス道に出て、一路大阪へとスピードを上げようとした時であった。
バス停付近からバスに乗り遅れたと思われる若い女性が大きな荷物を持って、バスの進行方向、つまり最寄のJR駅の方向へ走り出すのが、目に入ったのである。
私はすぐに、彼女は大事な急ぎの用があって、次のバスを待っている猶予がないので、急いで駅まで走ろうとしていると感じたので、乗せて送ってあげようと思ったのである。
だが、すぐに車をとめることが出来なくて、心の中で見知らぬおじさんが若い女の子に、急に声をかけて、駅まで送りましょうと言ったら、変に思われるかもしれないと、ほんの数秒間自問自答していたのだと思う。
しかし、いいやどう思われ様とも、たぶん急いでいるんだろうから、自分が感じたまま、送りましょうと誘ってみようと、改めて決心して少し行き過ぎた路上で車を止めて、彼女が走ってくるのを待ち、勇気を出して、言葉をかけたのである。「どうぞ、駅へお急ぎなんでしょう、送りましょう」と彼女を促して、車に乗ってもらい、1,2分間で駅に着いたのである。
車内では、二言、三言だが、バスに乗り遅れたことと、駅まで急いでいたことを確認しただけで、何処に住んでいる誰かは全く聞きもしなかったし、知る由もなかったが、無事彼女が素直に誘いに従って同乗し、駅まで送れたので、大変よかったと思ったのである。
私は駅からUターンして元の道に戻って、再び大阪へと車を走らせたのだが、だんだん心の中に、とっても嬉しい、温かな満足感というか、気持ちのいいほっこりとした空気が充満してきたように感じだしていたのである。
よかった、素直になって、最初に思ったように、声をかけられて、相手も応じてくれたし、喜んでくれたことが、本当に嬉しくたまらなく思えるようになっていて、大阪へのひとりのドライブの道中が、ひとりなのに本当にウキウキするくらい、心温まる思いで、よかったを繰り返していたようだ。
ささやかな体験だが、私たちの周りで、いろんな出会いがあって、みんなが気づいたら、自分のできる範囲でのお手伝いや親切を遠慮や気遣いを、あまりせずにし合えたら、どんなにか世の中からギスギスした空気が薄れて、何かすがすがしい温かな空気が充満するのではないかと思っている。
親切をしょう、ではなくて、町で職場で家庭で、誰もが「気づいたら」、自分の出来ることなら、ためらわずすることが、周りの人や相手にとって、とっても助かったり、感謝すべきことになるかもしれないし、素直に喜ばれると思ったら、してあげると、結局自分に、その喜びの二倍も三倍もの気持ちのいい空気が充満してくるものなのである。
ちょっとした小さな親切、手助けをすると、他人に感謝される以上に、自分が感動できるのだ。
全てが自分本位ではなく、相手の気持ち、立場に立って出来ることをする。ただそれだけで何と気持ちのいい感動を覚えることが出来るのだろうか。
素直な行為で喜ばれることをして、自ら感動しよう!
何故に、ここまで日本の現代社会での一般的な人と人の関係が殺伐としてしまったのか、私は人々が間違いなく自分本位というか、自分勝手になっているからだと感じている。
特に車を運転する機会が多いので、時折全く意に解せないことに出くわすことがある。先日も2車線ある直進車線を走行中に、余裕の車間距離で車線を替えて直進しようと少しスピードを上げ、隣の車線から追い越したところ、後ろの黒い車の運転手の気にさわったらしく、追尾して何度も何度も私の車の前で車線変更を繰り返し行い、邪魔をするというか、いやがらせを繰り返したのである。
一方、お互いが譲り合ったり、譲ってもらったら、会釈やクラクション、あるいは手を上げて、最近は車の割り込みに道を譲ったりするとハザードランプの点灯で、ありがとうの合図をする車も増えている。
ちょっと急いでも、あんまり替わらぬ都会や周辺道路での自動車交通の混雑や行き来に対して、少しでも気持ちよく、お互いが譲り合った交通マナーが当たり前になれば、さぞもっと気持ちの良いカーライフが楽しめるのでないかと、いつも思っているのだが、なかなかそうはいかなくて、気分がめいることもある。
数年前、私が車を運転していて、ささやかなことだが、こんなことがあったのである。
冬の朝方だったと記憶しているのだが、私は大阪方面へ所用があり車で家から広いバス道に出て、一路大阪へとスピードを上げようとした時であった。
バス停付近からバスに乗り遅れたと思われる若い女性が大きな荷物を持って、バスの進行方向、つまり最寄のJR駅の方向へ走り出すのが、目に入ったのである。
私はすぐに、彼女は大事な急ぎの用があって、次のバスを待っている猶予がないので、急いで駅まで走ろうとしていると感じたので、乗せて送ってあげようと思ったのである。
だが、すぐに車をとめることが出来なくて、心の中で見知らぬおじさんが若い女の子に、急に声をかけて、駅まで送りましょうと言ったら、変に思われるかもしれないと、ほんの数秒間自問自答していたのだと思う。
しかし、いいやどう思われ様とも、たぶん急いでいるんだろうから、自分が感じたまま、送りましょうと誘ってみようと、改めて決心して少し行き過ぎた路上で車を止めて、彼女が走ってくるのを待ち、勇気を出して、言葉をかけたのである。「どうぞ、駅へお急ぎなんでしょう、送りましょう」と彼女を促して、車に乗ってもらい、1,2分間で駅に着いたのである。
車内では、二言、三言だが、バスに乗り遅れたことと、駅まで急いでいたことを確認しただけで、何処に住んでいる誰かは全く聞きもしなかったし、知る由もなかったが、無事彼女が素直に誘いに従って同乗し、駅まで送れたので、大変よかったと思ったのである。
私は駅からUターンして元の道に戻って、再び大阪へと車を走らせたのだが、だんだん心の中に、とっても嬉しい、温かな満足感というか、気持ちのいいほっこりとした空気が充満してきたように感じだしていたのである。
よかった、素直になって、最初に思ったように、声をかけられて、相手も応じてくれたし、喜んでくれたことが、本当に嬉しくたまらなく思えるようになっていて、大阪へのひとりのドライブの道中が、ひとりなのに本当にウキウキするくらい、心温まる思いで、よかったを繰り返していたようだ。
ささやかな体験だが、私たちの周りで、いろんな出会いがあって、みんなが気づいたら、自分のできる範囲でのお手伝いや親切を遠慮や気遣いを、あまりせずにし合えたら、どんなにか世の中からギスギスした空気が薄れて、何かすがすがしい温かな空気が充満するのではないかと思っている。
親切をしょう、ではなくて、町で職場で家庭で、誰もが「気づいたら」、自分の出来ることなら、ためらわずすることが、周りの人や相手にとって、とっても助かったり、感謝すべきことになるかもしれないし、素直に喜ばれると思ったら、してあげると、結局自分に、その喜びの二倍も三倍もの気持ちのいい空気が充満してくるものなのである。
ちょっとした小さな親切、手助けをすると、他人に感謝される以上に、自分が感動できるのだ。
全てが自分本位ではなく、相手の気持ち、立場に立って出来ることをする。ただそれだけで何と気持ちのいい感動を覚えることが出来るのだろうか。
素直な行為で喜ばれることをして、自ら感動しよう!