佐藤慎一郎氏
これを以て他国の生存を懸けた謀を悪意と言い立てるものではない。歴史は国家の創生とともに複雑多岐に要因と、情緒的には陋であるが民族夫々に涵養された精霊の存在なくしては語れない。
しかも座標の定まらない放埓した言論は、切り口の異なる奇論や高邁にも人格とは何ら関わりの無い附属製価値を金屏風にして判例の如く、一過性と思われる定説?を作り出している。
近頃はオーラルヒストリーが流行りだが、それとて曖昧な言辞としてその手の言論界に布かれた掟を覆すことなく、発言者の肉体的体験証言を虚偽、錯覚の範疇に追いやっている。
辛亥革命の先輩山田純三郎と若き蒋介石
あの孫文の側近であり唯一宋夫人と臨終に立ち会った山田純三郎の言辞さえ、定説に添わないというだけで、歴史の章から外されている。
「孫先生があの時決断した理由は・・・」
山田の回顧は臨場感がある。
じつはこの資料は山田の甥である佐藤慎一郎氏から寄託されたものである。
「人々が落ち着きを取り戻し、真の日中善隣厚誼が図れるときこの資料は、『互いに難しい時期を一生懸命生きた』と、互いの反省と敬意を踏まえて語れるようになって欲しい。それが叔父や孫先生のアジア安寧に懸けた願いなんだ」
戦後の検証本は必ずといってよいほど、「コミュンテルンノ謀略で戦争に誘引された」と識者は云うが、その曖昧な表現は専門研究者ですら奥歯に物がはさまった章を重ね、因の根底にある問題を明確に表してはいない。
実はこの関係資料を古老元共産党員である兵本達吉氏に問うたが、解読不明。かつ氏は数多の研究本を紐解き検索したが、その記述は見当たらなかったという。
この兵本氏は代々木の旧共産党本部の建設時に委員をしていた。どう考えても資金は無いので不思議に思っていたら、袴田氏が三億円持ってきた。「どうしたんですか・・」と尋ねたら、「○○国の共産党から援助された」
そんな古い逸話を知っている除名共産党員である。
戦後検証と称して紙面に連載している新聞社、公共放送、あるいは新聞社から依嘱して貰った大学教授すら解読できなかった。
なぜなら人の吐息が感じられる臨場感があるため、資料として取り纏めされてないものについては西洋的整理、分類、検証には馴染まないため、異民族の性癖、習慣、などを加味しなければ読み取れない「謀の展開」が読み解けないのである。
なかには、吾が身の危険を感じて、安全定説に隠れる当世知識人の倣いもある。
ともあれ、このような資料は眺めることから、登場人物の臨場感を引き寄せることが必要となってくるが、始めから覗き、反論の具と考える向きは歴史活学、ひいては異民族との交流史にみる人間の行を、単なる文章化して、゛知の位゛を得るだけに堕してしまうだろう。
何よりも記録のために歴史は作動してはいないからだ。
・・・・・・一部抜粋
第二組 情報整理
そこで、わたしは王に提言する。
主任弁公室をつくり人事、経理、庶務をやることに提言する。
陳 適生(王のいとこ。学歴は無いが、口が堅く、頭がよい)
陳はわたしの言うことを聞く。その下に王の親戚を入れる。
第一組の洪はそのまま残したが、実権はなくなる。
そのため、わたしは一切の情報を見ることができた。
あとで日本は真珠湾攻撃をする。わたしらは 三 週 間 前から知っていた。 ☆
この情報は、上海満鉄調査所の 中西、犬養 → W(中国人)→□ 恩承(汪精衛の上海駐在のとき汪の立法委員をしていた)→顔高地(無電暗号で重慶によこした) Wは□とも王とも呼ばれているが、現在も不明。
わたしは戦闘の上から下までを知っていた。総司令、寺内など知っていた。
いつやるかは判らなかった。
いつやるのかと上海に聞いてやった。
10日ぐらい前に、12月8日やると返事。
日本軍の決定より先に知っていたのは今もって不思議である。
それで夜半わたしはこの情報を蒋介石委員長に届ける。
翌日、王は米駐在武官が、常徳会戦の戦跡を見たいといったとき、
王は、「芝居がすんだ舞台を見るより、面白い芝居上演がされるから暫くまて、と、今後の舞台は、もう中国ではない。君らのほうだ、と」
武官はこの話を真面目に取らなかった。
「王は日本の参謀総長でもないのに、日本軍の配備まで知っている」と、笑った。ところが、的中した。 それで王は世界的日本情報の権威者となってしまった。
日米開戦となり、国際的情報機関(米、英、中、合作の機関)をつくりたいからと計画される。
王は中国を代表して入ろうとしたとき、英はこの案を蹴飛ばしてしまう。
米と一緒にやっては、情報がバレてしまう。秘密が守れぬ国だと。
中米機関(成立したかどうか解らぬ)
中英機関(王とFindle andrews駐英大使館一等書記官)
中ソ機関(漢口時代から有った)1 フィトロフと楊 宣誠
2 〃 と張 冲 (死亡)
中英機関の正式名は、『 軍 事 委 員 会、 国 際 問 題 研 究 所 顧 問 室』
顧問室の下に、
第一処長 羅
第二処長 馬 天劉(現在、ワシントンの大使館にいるはず)
第一処内部機関
第一課長 平澤 蔭(不明、共にあらず)総務、秘書、人事、経理
外部に派遣および工作
第二課長 伊 華公(元 佛印領事)整理
第三課長 鐘 奇 (不明)研究
外 部 機 関
第一区 東北、華北
◎主任 顔 高地(どこに居るか判らない、中共にいるとおもわれる)
☆→ ここのみは、もともと王が直接、建設した組織である。ここの内部のことは 一切聞かないように命ぜられていた。
第二区 華東
◎主任 □ 侃曽(終戦後、唐山市長をやり国民党に殺される)
☆→ 始め第二区は徐 明誠の推薦で張 子羽(張 叔平のこと)終戦後 今井? と□ 江で会議した人。現在 香港にいる。父は清末の吏部尚書の張 伯煕 湖南人
第三区 華南
◎主任 徐 明誠がやり、国際…から、わたしが出てから徐と、張 子羽と一緒に第 一区をやる。
第四区 西南
◎主任 張 紹楚 共産党、現在不明
第五区 東南アジア
◎主任 陳 海平 華僑、現在不明
第二処 翻訳(英文に直す)処員 15名
顧問室事務長 越(蒙古の老人) 顧問室内の会計 庶務
副 〃 陳 鉄錚(元 代表団三組副組長 現 商人 東京)
第一区はもともと ゾ ル ゲ機関、ところがゾルゲが検挙されて、まもなく顔の上海電台も日本憲兵から手入れを受ける。 検挙しておいて、皆、放免する。
条件は『日本軍のつくった情報をそのまま重慶(国府軍)に打電せよ』
一例 “日本は何月何日、対ソ戦争を始める”世界にこの情報を流せ。
わたしは第一処を別に作る。(王に隠してやったが解った)
羅の上海主任 徐 明誠(兄)共 現在、香港の文□報の主筆(徐□成)は弟 わたしは周佛海の周辺から情報をとる
日本の河南作戦直前、ソ連のスターリングラード作戦中に、王はわたしを日本のスパイだと言い出した。
わたしは研究所におられなくなる。ところが英は承諾しない。
結局、英はわたしに個人的に組織し、経済的に援助するといってきた。
軍令部に伺いを立てたら、やってもいいというので、国際知識社という個人機関を作り、「国際知識」という雑誌を出した。
一方は軍令部(顧問)、もう一方は英と契約する。
経費は英より金条で、月百本 一本は100匁
軍令部から権威をもらい、英から経費をもらってやる。その組織は、第一処そのままである。
日本では和平工作のことを、中国では誘降工作(ユウコウ、友好と同音)といっていた。
蒋介石はすべて平和を口にするものは漢奸といっていた。
それで、日本の和平工作のことを重慶にいった人は誰も口には出せなかった。
中国共産党は、和平工作をできるだけ、反対、破壊をした。
中共のやりかたは自分の手でつかんで、破壊する工作。いわゆる、自分ですすんで和平工作をやって、結局、いよいよという時に、破壊するやり方をとった。
孔翔キ、張群、重慶の大公報 張李鸞の周辺はいつも共産党に取り巻かれていた。
なかでも張李鸞は直接、香港で交渉したので、日本も乗り気になっていた。
例えば
徐明誠は張李鸞工作に直接参加して、情報をわたしに持ってきた。
日本側は、近衛は天皇の意志を奉じて、各重臣の賛成を得て実川を奔走させている、と。
当時、青山和夫の意見は、天皇、廃止論
青山は、国際問題研究所に勤務していた。軍事委員会の正式な顧問団の一員として招聘されていた。 王が連れてきたもの。
集めた情報の判断を青山がしていた。頭は鋭い。鹿地よりずっと上席。
鹿地は騒ぐだけ、山師的。
青山は重慶の米軍と関係を持っていた。
国民党中央宣伝部に対敵工作委員会があり、天皇に対する最高政策はここで決めていた。この委員長は、宣伝部部長が兼ねてやった。部長は薫顕□、呉国権らがやっていた。
苗剣秋夫人 1988,12 台北 剣秋氏療養中
委員は、軍司令部第二庁々長 鄭介民、外交部亜東司令長 楊 雲竹
政治部第三庁々長 郭 沫 若 研究所 王 梵生(王を代表して出席していたのは謝 南光 軍令部顧問として羅 以上のようなメンバーである。
天皇廃止論は青山の意見に一致しかけた。
わたしは
「中国は、日本を滅ぼすつもりならそれでよい、でなかったら日本をまとめる力が 要る。天皇だ。天皇のために戦う日本兵である。天皇からやめろと言われればやめる。」
青山の主張は、
「日本の天皇は大きい専制力を持っていて、ロボットではない。総理大臣は元老の言によるが、天皇の意志に反して推薦はしない。
それに、天皇は三井、三菱より大財産を持っている。三井、三菱の中にも天皇の財産が入っている。天皇の特務機関は頭山である。 頭山は破壊をやっている。 司法当局も頭山の身辺には及ばない。身辺が危なくなると宅内者から逮捕してくる。うやむやに済ましてしまう。
天皇はロボットではない。将来、日本を民主国家にするのなら天皇を倒さねばならぬ。
結局、わたし(羅)の意見でまとまる。
それで、和平工作は天皇のやっていることは承諾される。?
今一つの困難は、蒋介石の平和を言うものは漢奸とする問題である。
蒋介石の意志は、日本にだまされては困るというのが本意である。もう一つの問題はそのことによって、英米との援助関係が壊れては困ることである。
わたしは英と相談した
その当時、日本からヒデキをやっつけろという情報をしきりにあり。
わたしは、東条英機をやっつけろと解釈した。
結局、英米は日本和平工作に賛成をした。 わたしは徐に返事をした。
第一 天 皇 親 政
第二 満 州 事 変 以 来 お こ し た 、 責 任 者 を 日 本 の 手 で 逮 捕 す る
第三 天 皇 は 正 式 に 英 米 華 に た い し て 、 平 和 を 求 め る
この条件を日本が飲むかどうか、それによって次の返事をする、と。
日本は同意したが蒋介石の正式な返事を要求する。
日本が誠意を示すために、東条をやめさせるつもりであるが、後任として中国が希望するなら、推薦してくれ、といってくる。
東久邇内閣にすれば、蒋介石の正式書面を出すといってやる
軍令部の鄭介民らの主張であった。
・・・・
ブラジル入植者とその子供達の謁見だった
横田は言う
「それまでガヤガヤしていた子供たちだったが、陛下が入室すると皆引き締まって整列した。普段はそのような訓練など受けてはいない子供たちだったが、みな真剣な眼差しだった。」
横田は代表してこう述べた
「私達はブラジルに移住した日本人を代表して参りました」
陛下も皇太子のときに訪伯してカイザル大統領と面会している。そのとき大統領は皇太子に感謝の意を伝えている。
「不毛の大地といわれたセラードを豊饒の大地に転換させたのは日系ブラジル人のたゆまぬ努力によるものです。勤勉で忍耐強く、しかもその土地の人々に馴れ親しんで立派な成果を挙げブラジル農業に大きな貢献をしていただいた。その姿は畏敬の民として私達も誇りを持っています」
地球の裏側において異民族の信頼を集めたことへの大統領の感謝は、皇太子にヒトの大切さと、自然に習慣化された勤労と大地への真摯な取り組みを、異民族さへも普遍の精神として認め、自らの辿るスメラギの道にある忠恕心の同感具現とみたことだろう。
「私達はセラードから参りました」
陛下は意を得たように
「忠恕の心を念じています」
「忠恕」は自らの良心に問いかけて他(不特定多数)に思いを寄せる、つまり心遣いある優しさである。陛下は自らを律してそれを実践し不特定多数の公に奉じている。しかも誰も垣間見ることのない一隅において独り実践している。
横田はブラジル成功者として億万長者になった。一時は怠惰に暮らした。しかし、自らが見たセラードではみすぼらしい小屋に食料も乏しい人々が棲んでいた。
「何とかしなくては・・」
セラードは酸性の強く、まさに不毛の大地だった
横田は仲間とセラードにキャンプをつくり、土を手にしてモミ砕き、臭いを嗅ぎ、口に含み、そのようにして土の性質を感じ取り、゛これならできる゛と確信した。
誰も入らない熱帯サバンナの地である。
初期ブラジル入殖者
ブラジルへ渡るときのことを想いだした。
≪母は仏間に呼び寄せた。先祖に報告かと思ったら、母は仏壇の後ろから取り出した懐刀を横田に渡してこう伝えた。
「これは護身用ではない。もし日本人として恥ずかしい行いがあったら自らこの懐刀で己の胸を突きなさい。もし日本に帰りたくなったら海は広い。船から身を投げなさい」
セラードで数年苦労したことで緑に変わる大地が眩しかった。
訪問した田中総理の英断で大きな援助もあった。
セラードは日本の数倍、莫大な食料をまかなえた。
しかし、あるとき彼等はあの時と違い武器でなく札束を抱いて襲来した。米国の金融資本と結託した穀物企業だ。
取引銀行は恐れおののき運営費用も遮断された。
〈 大地から取り出した富は投機家を通じて我々の金庫に収まる・・〉
まさにその通りだった。
彼等は札束の力でブラジルの法律を捻じ曲げ、外国人にも広大な農地取得の権利を得た。
政府は農薬で塩化した農地に莫大な融資をしてセラードを買いあさった。
横田は日本の助力もなく指をくわえてみるしかなかった。
しかも彼等の農法にある遺伝子組み換えは、将来に禍根を残すことを横田は知っていた。
それは横田の見ている前でその葉を食べた昆虫が大地に落ちる姿だった。
あのベトナムの枯葉剤を大量に製造した会社の製品であることも知っていた。
横田は言う
「私達は単なる技術や知識でこれを解決したのではない。先に渡った多くの日本人の努力があってこそ成功したものだ。何を遺したのか。勤勉、忍耐、正直、清潔、そして現地の人々との心からの融和だ。国の政策で予算が出て大型機械が備わっていても、働く人々との連帯や調和がなければ成り立たない。
「清潔」さは川の側にキャンプを構え沐浴したが、マラリアで全滅したエリアもある。
「勤勉」は作物と語ることができても商売が下手だった。「正直」は異端視されもした。
だが、そもそも在るべき人間の姿を忍耐強く勤労に励んだことが異国の大地が応えてくれた成果だと思う。そしてブラジルの人たちが驚きをもって日本人という民族を倣いの対象にしてくれた。日本の生きる道は日本人が真の日本人に倣うとき、その向上は始まる。私はいま祖国日本に感謝している。そして恥ずかしいことをしたら自らを突け、と懐刀を持たされたあの母の本当の忠恕がよく解るようになった。
左2人目横田 右 麻生太郎議員(日本・ブラジル議員連盟会長)
「在任中(総理)、ブラジル大統領に同じ提案をしました」(モザンビークの農業計画)
陛下の仰る忠恕は、受けての甘えであってはならない。厳しく律した意志ある人々によってこそ理解されるものだ」
いま横田は同じ経度にあるアフリカのモザンビークの熱帯サバンナをブラジルのように豊饒の大地にしようと準備に取り組んでいる。その担い手は横田の子供たちブラジル農民の二世だ。
「国の背景や資金も重要だが、もっと大切なことはモザンビークに真の豊かさを作り上げることだ。人々が仲良く、健康で、意義ある仕事に取り組んでもらいたい。時おり権力は人々の営みを制約し収奪することがある。また他国の悪意ある侵食もあるだろう。我々は目の前の人々に収穫の方法を伝え、共に天を見上げ大地に頬ずりする。そして多くの友を作ることだ。戦火を味わったモザンビークの人たちならわかってくれる。
幸いブラジル同様、旧宗主国はポルトガルである。言語も共通している。日本の農民の矜持とブラジルの試行経験を余すところなく伝えたい。それには人間だ。研究者、科学者はできるだけ少なくてもいい。現地の彼らと寝食をともにできるヒトが成功の鍵を握っている。
いずれ成功すれば投資や投機の群れが札束を持って跋扈するだろう。
大地の恵みはそのような成功価値を一時は受け入れても、必ず罰をあたえる。
大豆も馬鈴薯も青菜も面白いことに「ヒト」をみる。
そんなときは、許しを請うてお願いするしかない。
世の中もそんなときが来ないとは限らない」
世界中で農地の買い漁りが進行中だ。ウクライナ、沿海州、ブラジル、みな投機だ。
農地が開発され対価をもらって働かなくなり享楽にふける人々も東京郊外に散見した。国の力加減で資産を置いたまま投げ出された満州もあった。作物値段の高低で効率化を描くために減反補償によって民情が功利的に変化したところもある。
豊穣の地には群れが集う。しかし荒涼としたサバンナの一粒の種と忠恕ある人間の営みに、彼等は虎視眈々と、しかも指をくわえていなければならない。
なぜなら彼等はサバンナに住み分けられた人々の吐息と幸せ感を無意味にしか感じていないからだ。
横田は言う。
「そこに 陛下が語った忠 恕の意味があるということを大地は教えてくれる」と。