≪宣誓式は総統府の大ホールで行われ、蔡氏は国父・孫文の肖像画を前に、右手を挙げて「憲法を順守し、職務に忠誠を尽くし、国家を守る」と宣誓した。≫ 毎日新聞
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孫文は大陸の中華人民共和国と中華民国台湾の双方が国父と讃えている人物である。
中国は共産党の毛沢東が天安門に掲げられているが、台湾は国民党の蒋介石が辛亥革命の領袖として国父記念館を創建し、対立する民主進歩党の蔡英文氏も総統就任の宣誓では孫文の掲額に向かって宣誓している。孫文は対立していた国民党の創設者ではあるが、民主進歩党に政権が変わっても従来通りの形式を維持している。ここで一つの中国論はおいて台湾が孫文の存在を維持継続する由縁について、一つの切り口をもって記してみたい。
台湾人の文筆家 黄文雄氏は日本において孫文の印象を「ペテン師」として批判した。自由な国、日本において様々に国の人たちが自国の権威もしくは権力者をあしざまに糾弾し、嘲る行動をすることがある。
日本人は「遠くにおいて思うもの・」と郷里を懐かしみ、過ぎ去った恩讐を自らの反省と共に心中に留めることを倣いとしている。
あえて言うなら「ペテン師」その通りである。加えれば「女好き」「浪費家」「策略家」「妄想家」も付け加えたい。
ならば「中傷家」「曲解家」「細事批評家」もしくは曲学阿世のモノ書きもいるだろう。それらは往々にして肉体的衝撃を回避する自由と民主の防護壁の内にある。
孫文がそんないい加減なペテン師なら、それに協力した頭山満・犬養・宮崎滔天・萱野・梅屋・後藤新平・秋山真之ら、国内外で讃えられる人物は、みな人を観る目もない愚か者だったのか。国内において、たとえそのペテン師の言に騙され、塗炭の苦しみを味わう人々に沿って、肉体的衝撃をものともせず侠気を発揮して自己完結ですら適わない走狗には、更新の魁の意志すらないだろう。国が乱れるのは知識人の堕落からはじまる。それは売文の輩と言論貴族の食い扶持に走る姿だ。
たとえ異なることに挑戦し罵詈雑言を受けても、異民族が連帯し、アジアの不特定多数の利福のための行為は歴史の一章に刻まれている。
今どきの浮俗とは趣の変わった明治日本人有志の共鳴と命がけの貢献によって成し遂げた隣国の近代化の魁は、西欧植民地主義の頚木からの開放だった。
歴史は自らの行為に悲哀と反省を与えてくれる。我国もそれが頚木となって現在も続いている。しかし、それは商業出版のセンセーショナルな標題や陳腐な内容に一喜一憂する人々を覆っている頚木を抜くことにはならない。却って鎮まりの中での思索や観照を妨げ、意志のない一群を増殖させてしまうだろう。
将来のアジアの連帯と世界の調和を逆賭するとき、物書きの走狗に入るような一過性の戯言は、香りのない無味乾燥とした情緒を作り出してしまう危惧がある。
山田の生地弘前に孫文選書 山田純三郎の顕彰碑
ブログ「請孫文再来」より (寳田時雄著)
◆天恵の潤い
孫文は呼称、革命家である以前に『天恵の潤い』でもあったのである。終始、孫文の側近として同行した山田がその人柄を述べている。
1924年 12月25日の深夜だった。神戸のオリエントホテルに頭山満さんたちと泊まった夜だった。夜中に廊下をウロウロしている不審な人物がいたので、だれかと思ったら孫さんだった。
「如何したのですか」と聞いてみたら
「頭山さんはベットに不慣れだろう。もしもベットから落ちて怪我でもしないだろうか。心配だ」と、人が寝静まった廊下を行ったり来りしていた。
しかも食事といえば、日本食が苦手な孫さんだが頭山さんに合わせて和食を共にしていた。あの孫文さんがだ。だから皆、孫さんには参ったのだ。
山田はお金にきれいな孫文についてもこう言っている。
日本に亡命して頭山さんの隣のカイヅマ邸に居を置いていたころだった。日本の警察が日常行動を監視していた。
孫さんの荷物は大きな柳行李がひとつあった。
あるとき開けて見ると本がぎっしり入っていた。中には金銭の出し入れをきちっと記録したノートもあった。しかも孫さんはお金には絶対触れることがなかった。地位が昇れば金(賄賂)を懐に入れる人間ばかりだが孫さんは決してそんなことをしなかった。革命資金は公(おおやけ)の為の資金ということが孫さんの考えだ。だから民族を越え世界中から革命資金が寄せられたのだ。
加えて笑い話のようにこう付け加えた。
孫文先生の亡くなった日のことだ。遺言を残さなくてはならないだろう、ということになり孫文先生の病室の隣で話し合うことになった
そのとき二通の遺言がつくられた。一つは「余は国民党を遺す…」といったもの。もう一つは家族に宛てたものだ。その中で「自宅を遺す…」と読み上げられた途端、皆から笑いがもれた。なかには涙顔で笑っているものもいた。皆はその上海の家がいくつもの抵当に入っていることを知っているので、そんなものを遺されてもしょうがない、というので孫さんらしい話だというのである。
そもそも遺言そのものは書ける状態ではなかった。残された記録では慶齢夫人が抱き起こして云々とはあるが、そんな状態ではない。
事実、そばにいた自分が知っている。 サイン(自署)はどうするか、ということになり長男の孫科が代筆することになった。孫科は「親父の字は癖があるからなぁ」と、幾度となく練習して“孫文”と署名している。
ところが翌日、新聞に発表された遺言は三通になっていた。その一通が『ソビエト革命同志諸君…』とあるものだ。
当時、コミンテルンの代表として国民党の顧問として第一次国共合作に重要な役割を果たしたミハイルMボロジンと深い交流があり影響下にあった汪精衛が出したものだ。
しかし、遺言は重要なものだし、だれがどんな意図で書かれたかは後の問題だ。その後の国共内戦を考えれば孫文の余命を計って練られたことは容易に推察できることだし事実だ。たとえ歴史がどのように評価し、あるいはそれが事実だとして定着しようが真実はひとつだ。裏の歴史ではない。真実の歴史だ。
支那の数千年の歴史の中で刮目すべきは、孫文先生は潔癖だったということだ。名利に恬淡だということだ。西洋列強を追い払い、アジアの再興を願った孫文先生は施政の方法論ではなく指導者のもつ理念を発したのだ。我田引水な忖度ではあるが、そのことについていえば国共両者の遺言の活用方法には意味はある。
大事なことはこの理念を忘れたことが今までのアジアの衰亡の原因でもあり、この精神を備えるものだけが再興を担える資格があるといっているんだ。
孫文思想といわれるものは、そう難しいものではない。 公、私の分別と、正しいことへの当たり前な勇気、そしてアジアの安定と世界の平和。そのために日中提携して行こう、ということだ。遺言のことは蒋介石も知っている
佐藤は伯父から聞いた話として、台湾の国民党重臣に遺言にかかわる真実を伝えている。山田は一人歩きをした遺言についてこう語っている。
「孫文の精神が民衆のために活かされているなら、だれが作ろうが問題ではない」
また、
「孫文の正統を掲げられなければ民衆をまとめられないのなら大いに活用すればいいし、死して尚、その存在を民衆が認めている証左であり、諸外国がみとめる中国の理想的指導者像である」とも語っている。
孫文の写真好きについても述べている。
上海に向かうデンバー号にて
「香港へ向かう船上でのことだった。“山田君、長い間日本を離れているとご両親は心配していることだろうから一緒に写真を撮って送ってさしあげよう”と、甲板に上がったら他に乗船している同志が集まって撮ったことがある。たしかデンバー号だった。みんないい顔をしている。」
そして…
「最後の船旅で揮毫をお願いした時のことだった。 『革命ならすぐにやれと言われればできるが字を書くのは苦手だなぁ』と、いいながら書いたものが、先生の絶筆になった『亜細亜復興会』だ。
そのとき孫さんは右手で『ストマックが痛い』と腹を押さえた。自分は “孫さんストマックは逆ですよ ”と言ったら『そうか…』といって黙っていた。孫さんは医者だが体を治す医者じゃない。天下を治す名医なんだ」
佐藤に語るときの山田は記憶をたどりながら孫文との思い出に浸っている。とき折、瞳は潤いを増し虚空をさまよっている。
それは猛々しい革命家の姿ではない。兄、良政と共に挺身した孫文への回顧とともに、師父に抱かれ育まれた志操の遠大さに、我が身をどのように兄と同様に無条件に靖献できるかを巡らしている弟、純三郎の姿である。
靖献(せいけん)
心安らかに身を捧げる
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【ミニ解説】 孫文の遺言
余、力を国民革命に致することおよそ40年、その目的は中国の自由平等を求むるにあった。40年の経験の結果、わかったことは、この目的を達するにはまず民衆を喚起し、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、共同して奮闘せねばならないということである。
現在、革命はなお未だ成功していない。わが同志は、余の著した『建国方略』「建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続いて努力し、その目的の貫徹に努めねばならぬ。最近われわれが主張している国民会議を開き、また不平等条約を廃除することは、できるだけ早い時期にその実現を期さねばならないことである。(要訳)