青森県 北方の鎮護 岩木山神社にて
全国津々浦々(各所)には数多の神をまつる社がある。
多くは観光名所や、流行りのパワースポットとして今風の信仰の対象になっている。
主となる御祭神がどこにあるかも解らないが、この場合は神社側の説明責任などは問うたところで始まらない。
神はあうい(葵)のあるところに降臨するとは京都上賀茂の上賀茂神社の別雷(ワケイカズチ)の神だが、それが神殿に鎮座しているとして木製構造物に首を垂れて祈る。
あるいは産土神として郷のいたる所に祀られた神もある。大木や大石(岩石)、海の龍神、山の大神もある。昔は各々の郷におびただしい数の産土神があった。またその周りは掃き清められ、樹木で囲んだ。
スギやクスノキなどは侵さざる神域ゆえ、空を突く大木になった。明治の合祀によって多くの官幣大社が建立され産土神への参道や囲い樹木が伐採された。雇われ神官や業者、狡猾な官吏が結託して巨木を切り倒してクスノキは樟脳にして輸出、杉は住宅材として転売された。
したがって人々は大社に参拝するようになり、敬神講などに括られて神札(かみふだ)を買わされ、各戸の神棚に並べられた。
それまでは近在の郷に行くまでに、しめ縄をはった大木、路傍の道祖神,切通の奇岩、遠目でみる山々に、その都度、頭を垂れ黙礼した。そこには家内安全、交通安全、商売繁盛、合格祈願、などの願目はなく、だだ、心を譲る礼、つまり自然界と一緒に暮らす調和と生かされているとする謝意があった。
ここでは頼ることでなく、任せて生き、生命を活かす、己の汚れなき良心の確認でもあった。
軍神 児玉源太郎を祀る江の島児玉神社 建立費の70%は台湾より献納された
翻って、人間界にも人造神がある。
宿命的な出自、運の作用で経た経歴、それを利の用とした地位や、財産の多寡、その手段としての官製学校の在籍履歴など、現世利益価値に包まれた成功価値をまとった憧れた人間像がある。
またスポーツ選手や芸能人もその類になり、その種にあこがれを抱く人びとにとっては、神のような存在である。神社の下げ札はないが、チケットや写真、CDなどが稀な品として神の物語を作り上げている。
学問の世界では、外来の賞状、とくに神の由来と同じく古い格式や伝統ある組織のお墨付きが幅を効かせている。
そのお墨付きは、箔つけにもなり金にもなる。ノーベル、ユネスコなどが代表的だが、学問や観光の功名神を造成している。
縁談(出会い)は出雲、縁きり榎の神もある。武運長久は鹿島立ち、受験は湯島大社、国運は伊勢神宮、なかには口や耳などの器官の治癒を願目にしている神もあるが、隣国の道教並だ。なかでも流行っているのが金儲けの守護神だ。財布の護符、ストラップ、ブレスレットなどがあるが、総じて原料は石と神と木材だ。そこに神が宿っているらしい。
西洋も似たり寄ったりだが、和芸も人間国宝がある。車でいえば形式認定のようなものだが、舞踊、茶道、剣道、柔道などの、道を掲げる世界にも神業(カミワザ)を駆使する巧者がいる。その道を内心や外部にどのように活かすかは人の問題だが、技巧だけでは神のような重き人物には成れない。
よく、知った、覚えた類の知力と有名人との交際で名声を博す人間がいる。人が集まり、金も集まるような営みをする売文の輩や言論貴族もいる。あるいは古典の無断拝借で口耳四寸の学を披歴する知識心もいるが、総じて床の間の石のごとく、座りのよい(安定性のよい)姿を装い、反知半解の学徒を下座に並べているものもいる。
原典主唱者である先哲からすれば忘恩の徒のような、古典解釈学徒でしかない。
それらが床の間の石でいられるのは、下座は下座なりの序列と、床の間に近い席順にあるようだ。
謦咳に接した、弟子、だと冠をつけた虚飾学だが、土壇場ではものにならないものが大多数だ。
小会 郷学研修会にて
佐藤慎一郎先生
よく、このブログで紹介するが・・・
「我、汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚かならず」
「物知りのバカは、無学の莫迦より始末が悪い」
これは日本人が異民族の地で試行した満州崩壊時の官製速成エリートの実像だ
そして現在も続く
「利は智を昏くする」
(名利を学に求めると、本来の智が衰える)
「小人の学、利にすすむ」
(小者の勉強は、すべて人格を代表しない附属性価値である地位や財に向かう)
「小人、利に集い、利薄ければ散ず」
(小者は、利のあるところに集まり、利が無くなると離れる)
郷の人々が産土神に祷った、邪心におかされない汚れなき良心(徳心)の守護などは見る影もない。
しかも、自らの立つ処、それは磐座であり、他所に探し、願うものではないとは考えない。
「随所廟堂」外部においては随所(あらゆるところ)に学ぶべき事柄があると先哲は云う。
神は、示すと申すと書く。示すは行動、申すは言葉、「モース」粋人は聖人モーゼがいると面白がる。モーゼは本来モーシェと言うらしい。
つまり、神は心の心宮にあり、己の立つ処は磐座であるとの意志を持てと諭された。
そして、現世に崇める床の間の石を、他山の石として善悪を照らしなさいと説く。
付け加えて先哲は「聖人にも欲情はある」と和らげる
清俗は共々に内在するゆえ心が忙しいことのようだ。それは喜怒哀楽との同衾だ
そういえば安岡正篤氏の手紙にも「清俗両忙に打ちすぎ・・・」とあった。
まだまだ、想い出で話にするには惜しい。
あの死せる諸葛(孔明)が生きる仲達を走らせた逸話もある。