まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

日本人との応答 08 再 あの頃も

2021-08-11 00:55:08 | Weblog

                 
                  春は枝頭から・・




一、勝負は勝とうと思うな。負けまいと心に定めよ。

一、我欲を抑え、波風を立てず、人を先に立てよ

一、差し出た振る舞い、物知り顔をするは、愚かなり

一、人間交際の要は、親しき仲にも隔てあり


出典は徒然草だそうです。


             



2008年03月14日 13:03 応答

なかなかですね ・・・

漢学(唐学)や洋学のごとき外来に影響されたとしても、成文無き(不文)情緒や、民族的直感から導かれるセキュリティー、つまり五感にある潜在した能力を、自然界に謙虚に表現する邦学(国学とも)を見直す期が来ている。

似て非なる民族の、それも彼の国では「ハナシ」の類を無条件に戴くことを鎮考しなければなりません。



             


異文化の導入として漢字を・・
ビジネスの導入として英語を・・・
古人は様々な技法を活用して文化を取り入れ、また意思を交換するために共通文字を使用しましたが、宦官、纏足、科挙は拒絶しました。

同化を拒絶することで融解するものを知っていたのです。 
それは深層の国力を表わす情緒性です。

本居もそれを知っていたようです。


                



今どきはそのセキュリティーの在処も知らず、同化しつつあるようです。

とくに財貨への欲望です。

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「天皇たちの和歌」への投稿 再

2021-08-11 00:46:03 | Weblog


時々の気の置くところを豊かな感性で詠む素晴らしさが拝観される。時節観は過去と将来の間としての現在観を、大自然には感謝と祷りを本として沿い随うべき心を、それは大自然の一粒としての自覚と下座観による万象への透徹した観察にある。

それが習慣化された人格の投影として詠み歌がある。それらはアカデミックな分類や科学的考証などのすべが怒涛ように押し寄せた時代に対して、詠み歌によって座標の蘇りを映す意志がある。

あの、帝大巡視のおり、元田侍従に諭した「聖諭記」にみる専門部分の学究に分化した教育の仕組みに、「相」となる人物の養成を妨げる欠陥を指摘した慧眼にみることができる。

それは何を座標として自然や人物を観るべきなのか、また座標の狂いが数値評価やそれを具とした立身出世主義という、人格とは何ら関係のない附属性価値の装飾に堕すような不良な習慣性の行く末を烈しく諭していることでも、特別な位置での、特別な観点と重い責任を感じさせる。

未だその習慣性と塵ともおもえる風潮が国家の暗雲として漂っているが、国家、国民と呼称が始まった明治創成期の起点を改めて想起させてくれる陛下の忠恕である。

はたして、人の織り成す社会は、政治は、人の成功価値観は、そして日本人の性癖は、あれからどのように転化したのだろうか。

貴書から読み取れるのは、事績を学ぶより、人物から倣うことを教えてくれる。

つねに帯同すべき良書である。



筆者投稿レビューより

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