まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

逍遥備忘録  北進から南進への転換過程をみる 其の二

2014-09-18 19:43:46 | Weblog
桂林



しかし、国家の基軸である教育基本法は勝者に対するアジア的対応(柔軟吸収から同化)なのか、彼らの恣意的提供に唯々諾々と遵っている。その点、敗戦国ドイツは頑強に抵抗している。
疲弊から富の欲求の必要性もあった。また経済が優先された政策もあったが、基となる日本人の意識転換を、経済構造を含め彼らに順化した安易な選択は、いまその結果が現象として表れている。また、それはあの頃と同様に国家社会を覆う暗雲のようになっている。はたして他からの劫火でしか変わらないのか、もしくは自立自制を成し得るのか、成功価値(経済力、軍事力)の数値化では補えない為政者の煩悶でもあろう。
だだ、問題の抽出力と逆賭(将来起きることを想定して手を打つ)を為政者の至る格とするなら、その是正は数値を超えた深層の国力として国民の人心を落ち着かせることができるでしょう。

数多の逍遥談議では彼らが口ごもり、冥途に待ち去ったものもある。
これも面白い縁だが、近所の喫茶店で老文士と懇意になった。
元、上万一家の客分で志村クナイ氏を書いた自著をいただいた。
また、宮本利直氏とも交流があり、その宮本氏が偶然王梵生氏と義兄弟だということを聞いた。
あの産経の「蒋介石秘話」のことで蒋介石の了解を得たのも、「二○三高地」の映画を台湾で映写許可を懇請されたり、新竹で病院の相談も受けた、とは渋谷の東急アパートに住んでいた北京宮元公館の主宰者であり、北進を南進に企てたゾルゲあるいは英国情報部M16と連携した蒋介石下の軍事委員会国際問題研究所主任王梵生と義兄弟の宮元利直氏だ。氏は終戦後に重慶にいた蒋介石に始めて会った人物だ。もちろん王梵生の案内だ。
後に記すが軍事委員会国際問題研究所は国民党の従前の情報機関としてあった藍衣社を押しのけて蒋介石の信頼を得た情報謀略機関である。









よくマッチポンプとはいうが、ことのほか情報が的中するのは当然な事だ。また推測も的確ゆえに蒋介石は信用したが、張り巡らした組織構成員の多くは共産党員である。
ここからは多くの日本人では理解できない内容になる。蒋介石直下の組織が共産党員?、それが彼の国の面白さである。
アメリカでさえ王の情報を信頼した。米国から収集した情報はゾルゲを通じソ連に流れ、尾崎、青山和夫、野坂参三、あの張学良の軍事顧問で日本の要路にも通じた苗剣秋も日本駐在員として組織の枝に連なっている。

かといって宮元は王の謀略に直接加担したわけではない。尾崎秀美もそうだが彼らは肉体的衝撃を伴う兵士のような職分には馴染まなかった。王は国際問題研究所の所長の職務とは別に、故郷の湖南省を理想郷にしたいと思っていた。人の信頼を得る人物は透明感と理想がある。それに宮元も呼応した。
宮元の日本軍部の中国国内における横暴や大陸に群居する軍閥にたいする考えは、多くの常識人には理解できた。またそれに沿う考えを持つ人間は国内外を問わず連携する触角はあった。その宮元氏の自宅には安岡正篤氏の書簡が幾通もある。中華民国の安岡氏戦犯除外には宮元氏と王の功があったとも考えられる。

別の切り口では戦時中に宮中もしくは大東亜省(海軍)などでもっとも影響力ある人物として米国は安岡氏を筆頭に挙げている。(英文資料は安岡記念館にある)
しかし、裏から覗けば漢民族の知識人である苗や王との交流をみれば、漢籍知識に触れることに脇が甘かった(許容量ともいう)安岡氏の姿勢は、問わず語らずに種々の内情を無造作に語ったに違いない。つまり戦犯指名回避は情報源の継続として考えられたのではないかと推測する。つまり国民党の戦犯指名を出すことで宮元氏を仲介に回避を託し、その宮元氏から王を紹介されたと推測する。
ある講演では普段は現存する人物を、しかも名を挙げて褒めない安岡氏は王梵生(当時中華民国大使館参事官)を、「人物だ」と褒めている。確かに稀なる有能さを持った人物であり、漢族の知識人だ。まさに仁義礼智を体現できる人物ではあるが、身の置くところは蒋介石の特務機関を装う共産党の特務構成員である。

偶然、講演を聴いていた佐藤慎一郎氏は控室に安岡氏を訪ね、くつろいでいた氏に向かって「王は特務機関の責任者です」と伝えた。安岡氏は顔をこわばらせ沈黙していた。
その後、氏の著作には謀略について多くのページを割いている。


ときに強いものに添い戯れる行為は弱きものの倣いだが、ソ連の思惑に添い意図に随い協働することは衰退したとみる国家の方向を転換しつつ、一方では護ろうとする彼らの企てでもあった。だだ、そのことが歴史的な遠大な企ての一端を担ったことについては感知しなかった。日中の、いやアジアの煩悶の真の原因を複眼的視点は乏しかったと云ってよい。西洋の事情は複雑怪奇といって総辞職した総理もいたが、現地軍の三百代言になって陛下に叱責されて辞めた総理もいた時代である。

かといってコミンテルンの企てだけが当時の状況を作っていたのではない。フランス革命は形式的であれ国家の長(おさ)だった皇帝を消滅させ群行盲動する市民を発生させた。ロシア革命も帝政追放に群れとなった市民を使った。謳い文句は、搾取解消、自由、解放、平等、民主などだが、未だかってその謳い文句は到達した形跡はなく、その後の粛清や軋轢の惨禍は新たな檻の形成を助長させた。その思想はまるで統治実験のように用いられ、コスト的には民主、自由、平等、人権こそ民の連帯を破壊し、金という添加物によって精霊や神から人心を離反させ、取り付く島を無くした人々は自由と孤独、人権と反目、まとまりのない民主を背負って檻の中を浮浪している。
成功価値の偏重を唯一の価値として宣伝し、金を偶像視させて人を競わせ、争わせ、思索の許容量を減少させ真の自由を閉塞させ、よりコストの掛からない統治方法として自由と民主を、力を以て世界に喧伝した。詰まるところ人を統治するのは金と恣意的な情報であり、これを掌中にしたものは世界を統治する仕組みが出来上がった。



北進や南進、中国の侵攻が誘引されたように感じたことが、コミンテルンの謀略とすることは近視眼的構図を考察する導路のようにみる識者もいるが、閉塞的定点観測や学者間の垂直的関係にある定説踏襲による学説の背景では、決して踏み込めない説の世界である。彼らの食い扶持世界は売文や貴族的言論として第四権力を構成し、よりその戸惑いを深め亡羊な世界に大衆を誘い込んでいる。





山田と孫文




余談だが、いまの日本が超大国のアメリカに添うのもその思惑からだ。よりによってわざわざ隣国と刃を戦わせることは自然ではない。不自然だからこそ守られるものもあるが、その盾の代償は国民の変容にともなう成功価値や歴史観の錯誤と、情緒性の衰えだ。
あの明治の初頭にフランスにかぶれ教育制度を模倣し早速、啓蒙思想とやらを宣伝し明治天皇に憂慮された。憲法・陸軍はドイツ、海軍はイギリスとここでも統一感の政策、いや一過性の対策をとって可哀想なくらい模倣に勤しんでいる。迎合性と好奇心もいいが、外国への許容量と寛容、とくに欧米への傾倒は恥ずかしい限りだ。
明治の野暮な文相は、お喋りで新しもの好きの西洋かぶれ、あの山岡鉄舟からも一瞥さえされなかった。森有礼とかいう人物だ。それは民族の性癖のような好奇心と迎合心に自由・平等・民主を謳う啓蒙思想を添加したら今のような国になるという実験であったかのような出来事だった。それが爾来モニター民族と揶揄されている由縁だ。


標記の流れに戻るが、今でも解明されていない問題があった。当時対立した関東軍高級将校と満鉄自治指導部、終戦直前のソ連を仲介に考えていた近衛の連携者と遅延妨害を企てた国内外関係者の語り、あるいは騙したつもりが騙された各当事者の語りなど、いまでもなかなか整理が適わない継続した事情だ。

日本人には分かりづらいが、政権与党の実力者が敵対国のエージェトだったり、反共を唱える運動家が相手国の実力者のお遣いで我が国の為政者に会いに来たり、巧妙かつ卑しい偽愛国者の実情もあった。
また、ここで取り上げるソ連に対峙する北進論を南進に転化させることにより米英と衝突させる謀略が、巷間ではコミンテルンの仕業となっているが、その転進の企ての多くは国内、在満の日本人によって行われた事実、そして敗戦直前までソ連に仲介を考えていた当時の政権の見通しの甘さなど、権力負託者である軍、官吏、政治家の明治以降の立身出世に踊った高学歴選抜高官の無能力さも露呈した。
なによりも陸軍の武力威圧が、教養ある賢者でさえ戸惑い遅滞させた政治判断。恐れ、怯みの脆弱さは、教養、学歴、による明治官制学による選別方法の限界をみせた。それは満州崩壊時、敗戦決断において決定的な欠陥を露呈し、一部の軍は逃げ、官吏は隠れ、政治家は手も足も出ず固まる状態だった。それは様々な要因を含んだ大きな複合体として軍が構成され、いざ縮小するとなっても、官民問わず国内各部分の入り組んだ形状の解きほぐしには維新、革命に近い大きなエネルギーが必要だった。それくらい今の政府機構同様にコントロールがきかなくなっていた。

それは形式が整い、内部は腐り、問題は先送りする、つまり隠蔽体質と無責任を併せ持ち、封建、民主、自由、資本といった名目主義が替わろうが恒常的に帰着する民癖のようにもみえる。
だから事象の背景を読むこともなく、歴史を鑑とするわけでもなく、人を活かせず、易々と騙され、しかもそのことすら自覚しない、いや否定しなければ自らに類が及ぶとして事実を無きものにする卑小な狡猾さもがある。見た目は実直で温和で慇懃な礼をもっているだけに始末が悪い群れだ。

当時の軍および軍官吏への見方は、勝利の昂揚感もいいが、これ以上増長して議会を支配下に置き、統帥権干犯を盾に政治を専横し、問題があれば統帥権をもつ陛下に及ぶであろう憂慮を盾に議会を壟断した。
それは具体的責任云々ではなく、複雑に要因を以て構成されている国家の紐帯として、あるいは積層された歴史の連綿性を護持する機能まで毀損してしまうのではないかとの危機感だ。コミンテルンの指導に求める一群と、その関連する組織との連携をしても国内の患いを排除しようとする高貴な人たちを中心とした一群もあった。まさに同床異夢の状態だった。しかも、今と同様に「国益」が謳われ、昂揚した国民を取り込み、時運の赴くままに茫洋な流れに乗っていった。

つづく

コメント
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