まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

逍遥備忘録  北進から南進の転換過程をみる  其の一

2014-09-17 10:50:18 | Weblog
秩父の彼岸花


日頃 心に抱いている不思議感や疑問点、もしくは近現代史に活躍したり、書き物に遺された人物たちの縁故を俯瞰すると、ふとしたことで関連する事象がヒントとなり、とぎれとぎれの歴史の出来事が生き生きと関係性を明らかにして結び付き、それも自ずから(自然に・作為なしに)眼前に現れ広がる面白さがある。
ウロウロと齢を重ねるなかで鳥モチの付いた棒を振り回しているようなもので、国内外を問わず色々な来歴を持つ人物が縁というモチについてくる。それは研究者やブン屋といわれる新聞記者や物書きのような食い扶持餌漁りでないためか、ことに実直な体験が堰を切ったように語られた。とくに耳から入って口に出るような口耳四寸の学ではなく、肉体に浸透されたものが滲み出るような、薫り醸(かも)されるような深さがある。

聴きたいことを懇請し喋らせる、つまり、゛喋らされた゛類でなく、想い出し,懐かしみ、口の乾くことも忘れて絞り出す応えである。それは聴いて答える、問答ではく自ずから(自然に)語る内容でもある。舌が言うと書いて話なら、吾を言う「語り」は聴くものを驚愕させる。
その中に、人情の為せる結果が、時に効果を発揮し、ときに錯誤したり、騙されたかのような内容もあった。だからと言って錯誤の指摘、順序の整理、などの煩わしさはない、ときに酔譚であり、ご夫婦を交えての想いで話に涙したり破顔談笑になったりもした。

とくに世代に異なる歴史現場の体験者との誘いこまれるような奇縁の逍遥は、既成の官製学検証では到底理解の淵にも届かないような史実の発見があった。
当初は歴史知識の集積も薄く、かつ、さほど興味も乏しかった内容が語り手の歯唇から洩れ、その真剣さや何気なくつぶやく内容を聴いたり、応じたりしていると、彼らでさえ若僧の逍遥に重ねられた聴取内容の関連性から、より糸をほぐす様に新たな歴史認識が生まれ、若い学徒のように興味を示した。

対立関係だった満鉄自治指導部と関東軍、侠客(ヤクザ)と治安機関、統制派の軍官吏と皇道派、宮家関係者や終戦指導部と陸軍、など、当時は憎しみ合い競っていた人たちが、ときに呉越同船で歓談する人や、いまでも許せないと断絶している人物もいる。
あの終戦時に横浜国大の学生らと決起した佐々木隊の責任者が大山と名を変えて語るには、逃げて隠れたところがGHQの地下(グランドか第一生命かは不明)だったとい逸話もあった。
「なに!」「やっぱり、そうだろう・・」と応えは様々だが、酒席ではそんなことだ。
ひと時、満州関係者との縁に、まるで転がされ、じゃれあうような雰囲気があった。
多くの法事ごとに誘われた。書は東(日本)に渡ったと中国書界から謳われた宮島大八(詠士)氏が主宰した鎮海観音会にも参加した。この法事は世田谷豪徳寺の代々住職の言い伝えで施行料(読経等)は不用と聞く。物故された高級軍人、政治家などの名が読み上げられるが、「何々御霊」と長時間に及ぶ。戦前は宮島の威もあったのか多数参加したという。なにより四人であげる観音経の重厚さは今でも耳に残る感動だ。






満洲大同学院同窓 
中華民国立法院院長 一人おいて  実業家 丘氏



よく物書きが「日本を牛耳る満州人脈」と称して新橋の国際善隣協会に集う人たちを書いていた。岸信介が率いた満州統制経済を試行した経済官僚、関東軍を中心とした旧軍人関係、児玉誉士夫氏を囲む交風倶楽部の面々、大同学院、建国大学の学閥、石原莞爾主宰の東亜連盟など、たしかにこの頃の人たちは近代史の書き物によく登場した。

しかし、売文の多くは歴史記述のなぞりと想像だった。戦後生まれは筆者くらいで彼らも孫のように扱った。珍しい品や秘録扱いの資料も寄託された。花見に誘われたり、当時総理を終えた岸氏とも相伴したが、同郷の友人、終戦時の内務大臣安倍源基氏もその縁で厚誼にあずかった。二・二六時の特高課長ゆえ動乱の真相を聴いた。後に著作となった「昭和動乱の真相」だが、自宅で聴いた真相は除かれていた。岸氏はトマトジュースに焼酎をいれて「これは身体に良い」と杯を重ねていたが、今流行りの嗜好を先取りする健康感覚があった。

児玉氏は面白かった。学歴インテリではないが独特な直感と切り口は的を得ていた。
神兵隊事件の中村武彦氏や北星会の岡村吾一氏も同様な薫りもしたが、自己完結の覚悟は共通していた。また、連なり囲い、慕う人脈も共通していたが、もとより利害得失もない筆者には多くのスキを見せた。女、金、人物観などは彼らの人を観る重要な部分だが、本人たちも,敢えて明け透けに見せることで、他人は茫洋な背景を勝手に忖度して、自らの腰を引いていた。
しかも、その容貌と来歴を拡大し、知古を利用して己の虚飾にするものも出てきた。なかには在日外国人もいたが、街宣車で日の丸を掲げ軍歌を広宣する不思議さもあった。

終生の師となった佐藤慎一郎氏,親交させていただいた安岡正篤氏も当初はそこからの起縁だ。佐藤氏は老子・道教的、安岡氏は孔子・儒教的だとの印象があるが、知的教養の師というより、明治の風韻を浸透学として学ばせていただいた。ときに、キャッチボールをされて、あえて困惑、混迷に若僧を困らせ、その後の変化を愉しまれた。
どこか面白がられ、突き放す、そんな諭し方もあったようだが、学舎の縁では味わえない人物からの倣いができた。加えて満州人脈にある無頼な突破力、官制知学を超えた直観力、異民族社会での許容量と寛容、事象の見方など、それらは日頃の世間感覚と異なる意識をいつの間にか浸透させてくれた。

それは、自由闊達で居心地の良い世界だった。くわえて、今は二度と還ることのない人たちの世界だった。だだ、野暮で古臭い世界ではない。まして懐古趣味でもなく、主観固執の体験至上でもない。かれらには柔軟性と童のような夢とアイデァが溢れていた。
新幹線を主導した十河信二氏も満鉄の夢を成果とした。しかも完成を前に逝去したが、後任の国鉄総裁には、名言「粗にして野にして卑ならず」と生きざまを語る石田礼二氏を充てている。統制経済の資本集中は高度経済を可能にした。異民族の地で明確になった日本人の正邪の行為と考え方は、経済を基とした経国の座標となり戦後日本の国柄を色づけた。

彼らが深慮したのは、外部触発に群盲群止する日本人の癖だった。それは迎合心、過度の恐怖心、ときに夜郎自大になる愚連の官吏と軍の姿への慎重なる態度にもみえた。
安岡氏はその様態を「劫火同然、塵余払ってシンプン(忌まわしい雰囲気)の絶するをみる」と空襲下に漢詩を詠んでいる。
猛火に焼き尽くされ、制御の利かなくなった国家の暗雲が払われ新しい社会が訪れる、と意を漢詩に表わしている。
それは、新国家の体制を経済の発展と国利の分配、また蓄えとして、目的転換を考えた人心覚醒の座標であり、満州で試行した日本人資質の特徴を前提とした人物の活用法でもあった。


つづく
コメント
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