まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

田の草の矜持  2015

2023-07-29 14:45:32 | Weblog




草でも根無し草ではない。

よく国会議員が選挙区を田や畑にたとえて、゛草刈゛だの、゛耕す゛と、あの世界の隠語のように交わせているが、さしずめ民草と呼ぶ選挙有権者の確保、あるいは後援会のてなづけと見るべきだろう。盆踊り、縁日、結婚式や葬儀には必ずといってよいほど顔を出す、つまり顔役である。

この時期になると米搗きバッタの競いだが、逆もある。ある東北の退任された知事だが、結婚式に呼ぶと最低数百万を車代、あるいは謝礼として知事に差し出すという。誕生日には各市町村の主だった有力者が知事の誕生日の宴を各所で開き、ここでも数百万。しかも公共工事を振り分ける際も協力金の提示額次第で、選挙となるとその地方の名を冠して○○選挙として勝ち負けの排他が烈しい選挙が繰り広げられ、負ければ任期中は完全に干されるか、もしくは勝ち組の下請けに甘んじる。

これは根の深い民草のハナシである。ただ表層に養分が無いときはより深いところまで根は伸びて広がる。氷山の一角のたとえはあるが、市町村、名誉職、あるいはPTAの役員まで全てがその調子で、勇ましいことを唱えるが大きな力である役所あるいは議員を面前にするとからきし弱い。「しかたがない・・」これが自己納得の最善の言葉だ。

しかし、それもコレもある特別な位置から観ると数多の特徴ある善男善女だ。国の中には夫々の名称をつけた人々が棲んでいる。地方に事情によって棲み別けられている。批判も怨嗟も有ろうがともかく人間がいる。







青森県弘前市の傑物、菊池九郎は明治初頭の混乱とおりしも襲った冷害に打ちひしがれた人々に向かって「人間がおるじゃないか」と喝破した。そして東奥義塾を創設し外人教師を招聘し、その際りんごの苗木を持ち込み、いまではりんごの郷と海外でも有名になっている。もちろん教え子は陸羯南、珍田捨巳、あるいは後藤新平も薫陶を受け、多くの逸材が海外へも雄飛している。確かに活躍する場としての津軽は充分ではないが世界を住処として青山を夢見た人間を数多輩出している。





菊池九郎



郷に留まって文句や諦めを放っているだけでは、生きる意味も無いだろう。だだ、留まって郷の存在を深層で堅持している人々がいたからこそ、その堅固なジャンプ台からの突破が可能だったとみることも出来る。しかも出て行ったら戻らないことが多い。これもこの地の人は、゛仕方が無い゛とはいうが、深層を堅持する人々が少なくなって役所の都会型模倣改変に呈する具申さえ上がってこなくなっている。そして全国類型のシャッター通りと遊戯店の乱立と駅前のサラ金の光景である。

この田を草取りや種まきという、ある種蔑視のような心もちで済まそうとしている群れがあるが、津軽に例えればあの頃のように山や田をリンゴ園に改変するような開拓意図も無く、単なる票田という選挙区に伏し貪官に媚びる群れの世界こそ、外来の民主草、自由草、平等草の蔓延を助長し、郷の営みの情緒まで融解させてしまった内なる賊の姿である。

民草の棲家は必然性がある。そして宿るものがある。
それは、精霊の存在でもあろう。賢人、熊楠の産土神の守護も鎮守の杜の保護もその意味だ。




                    

                  南方熊楠



よく語られる逸話だが、那須御静養から帰京の折、侍従の「雑草を刈り取りました」との報告に、「名も無い雑草とてそこで生きている。やたら刈り取らないように」と叱責され、或るときは「今年の夏は涼しくて過ごしやすいです」との侍従の言葉についての応えには、「東北は冷害で大変だろう」と発している。

その侍従のいう雑草だか、草を強くして根を張らせるには肥料は要らない。草に自尊心を擬すものではないが、花を愛でるものもいれば、芭蕉のように路傍のぺんぺん草で己を覚醒することもある。あるいは洛陽の牡丹の大きさを問うたとき、日本の牡丹は土壌を改良して肥料を沢山あげているが、洛陽は土地も固いし肥料も日本みたいにはあげない。だから此処の牡丹は大きく見事になる。苦難を経て大成する人間に似ている。

花か、雑草かは問うまいが、大地は共にある。
花は肥料も欲しがり、観賞してもらいたい。つまりそれが自尊である。しかし、草の自尊は風に飛ばされ、泥に汚れ、踏まれ、刈られ、焼かれるが、花と違った自尊がある。
他から貰えるものを意図しない。また盆栽のように針金に巻かれない。
また、草の自尊はたとえ踏まれようが、汚れようが、自在の活き方がある。つまり自由だ。

その自由を守る、人間で言えば尊厳であり国家構成上の要諦も人間の尊厳を護ることが第一義だ。経済も防衛も政治も、あるいは年金も給付金も尊厳を護り、維持することを目的としている。よく、゛生命と財産をまもる゛と政治家がいうが、生命と財産が有ることによって行なうべき行為は何か・・、゛やりたいこと゛ではない。






                




憲法でさえ、何条が問題と騒がしいが、憲法は人の尊厳を毀損するであろう権力を制御なり拘束することが本義である。ちなみに聖徳太子の十七条の大部分は役人の規律と民に対する姿勢が謳われている。今どきの権力は政治家、官吏、宗教家、教育者、金融家であろう。

いくら民が主人だというが、代弁者に田の種まき、雑草の刈り取りなどと揶揄される民草だが、故事に「天が落ちたら一番高いところに当たる」と構える呑気さがある。
天とは権力交代、高いところとは高官や名誉とは似て非なる虚飾地位のことだ。

本来はそれに拘らず、追わない存在を天という。
また、唯一津々浦々に棲む民草の真の自由を知る存在でもある。

田の草取り、種まきと揶揄する群れが、この天地の関係と意思の循環を妨げることがあれば柔和な民草は沈黙から解き放たれて動くだろう。
群れの施策に座標軸が無いとするなら、この部分だろう。
野暮で古臭い拙意とも思えるだろうが、近頃は天地が逆になって、天が地を支えているように思えてならない。

民草は茂って選定される立場でなく、賢く繁るべきだろう。

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