まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

有と無をわたる夢想     07 11/19 あの頃

2020-12-20 15:47:32 | Weblog

一時、現代の科学を離れてみた。
それも、たかだか人間種の考察だが・・・
有無(うむ」とはいうが、あるいは有と無の間にあるものは何か。

無は暗黒なのか透明なのか、そんなことを想像させる宇宙の始まりと終末は人間の思考に何をもたらしたのであろうか。

視覚から伝達される色彩は真の色なのだろうか、それとも動物の目に映る色はどのようなものなのだろうか。

宇宙のなかで質的にも量的にも、あるいは他の惑星との補いある関連性、もしくは必須の存在意義が地球にはあるのだろうか。

大宇宙から観れば、芥子粒にたとえられる地球の存在のなかで方位が定められたのは、遠大な時間枠で構成されている地球歴史からすれば、つい最近のことである。

たかだか人の思考の範囲での出来事だか、さまざまな分類が異なるものを生じさせ、宇宙に浮かぶ不安定な自動を繰り返す球体の表面に張り付く、さまざまな集積の時と存在の考証という理由付けが始まった。

動物と人間も仮の分別であろう。

磁気と温度の比較から縦軸が構成され、包括された流動比較から東西(経)の文化が意義付けられたとはある。

そして人の織り成す人類史から発生した同種と異種の分別から、生存の糧としての経年循環から特異な思想が生まれ、宗教にみるような排除と受容の決まりごとである掟が必須なこととして発生し、その同種連鎖をつかさどる共同体ができた。

豊潤な大地に縁を持つものもいれば、極寒極暑の荒地に縁を持つものがいる。

あえて「縁」の作用としたのは、成文化された歴史の発生以前の茫洋とした大地に人間を仮置くことを、いま歴史から要求されているように観えるからである。それは禍福あざなう因と縁の相関を、あらためて感ずる機会になると思うからです。

 

    

 

インドの数学者ラマヌジャンも空想力が優れていた。いや、彼はもともと存在していたものを見つけただけだ、と。

彼は直感力が優れていた。安岡正篤氏も筆者に「真に頭の良いということは直感力が優れている人間のことだ」と、再三語った。

植民地の学校もいかず無学な若者は貧しいために紙も乏しいなか、石板に刻んで難解な公式を解いた。宗主国イギリスの学会では、その公式を証明しろと。

現代の学問は証明できないことを理由に論を忌避するが、神や精霊を証明できないからと、あるいはそれらから察する、感ずることはすべて無なのか。

ラマヌジャンは、その彼らのいう無、つまりゼロにこそ有があり、無に夢を想像することで有ある智慧が降り注ぐと云いたかったのだろう。

かれはそれを観える手段として、数字なるものを用いて、真の「有」を公式として見せてくれた。

では、ナニモノが有として存在せしめたのか。

それは、彼らの証明できない神や精霊からの言霊(メッセージ)なのだ。

それが気が付かないから「有」のみが有効性をもつものとして「無」を価値のないものとしている。

人間の軋轢や惨禍も、多くはそこから発生している。

老子は「無用の用」と説く。

苦労して証明せずとも、分かるものは解る。

それだから東も西も優劣を問うことなく必然とした存在なのだろう。

ついでに南北を加えれば、東西南北と天地で「六」となり、球体(円)となり、「六合にして成る」つまり地球であり現象だ。

分かっていることを、理屈や証明することで余計にわからなくなる。

そこに陥ちいる歴史の様相すら、 神や精霊は見とおしている。

ちなみに漢字のことだが、「」は、ヘンは示すと、つくりは申す

示すは行動、申すは言辞、そんな知恵を働かせれば、それができるのは己のことだ。

たかだかだが、誰でもが己に潜在していることだと思えば、遠回りせずにラマヌジャンの数学を察するのは簡単なことだ。

彼の、他と異なることを恐れない自己の確立、当然な境地だろう。

芥子粒のような人生の経過だが、「有無を言わず」よく聞く言葉だ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 錯覚した感動を生むアカデミ... | トップ | 3回目の追加策は73兆円 ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事