A Challenge To Fate

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【1ヶ月遅れの追悼】2021年6月28日フリージャズ・ピアニストの草分け、バートン・グリーンが84歳で死去(勝手に翻訳)

2021年08月13日 02時09分59秒 | 素晴らしき変態音楽


今朝アメリカから届いたKickstarterのメールの末尾に「Rest in peace Burton Greene and Sonny Simmons.」と書いてあるのを見て一瞬心臓が止まりそうになった。4月にサックス奏者のソニー・シモンズが亡くなったことは知っていたが、ピアニストのバートン・グリーンとは???Twitterで検索すると、6月28日にアムステルダムでグリーンが死去したことを報じるツイートを見つけた。ほとんどが海外のもので、日本語のツイートは少ない。当然Yahooやナタリーが取り上げるはずはないが、JazzTokyoをはじめジャズや即興系のメディアの発表も見つけられなかった。同じころ(奇しくも3人とも6月26日)に作曲家のフレデリック・ジェフスキーと、トランぺッターのジョン・ハッセル、サックス奏者土岐英史が亡くなったことは報道やフォロワ―の投稿で知っていたが。。。全くの不覚であった。

昨年5月末に筆者は『私的バートン・グリーン論』を執筆しようと思い立ち、6月初旬に第1章を書いたものの、その後中断したまま1年以上が過ぎてしまった。その間バートン・グリーン本人とFacebookを通じて何度かやり取りをしたのだが、年が明けてからは連絡するのを忘れていたまま、気が付けば彼は地球を旅立ってしまった。果ての見えない後悔の念に駆られながら、まとめて置いた彼のレコードに針を下ろす。俯き加減に一音一音思案しながら指を下ろすピアノ弦の振動の中から、君の言葉を聴かせてくれ、という呟きが聴こえてくる。彼に伝えるには時すでに遅し、しかし気持ちは言葉にしなければ誰にも伝わらない。というわけで2年越しのグリーン論に着手しようと思案している次第である。
【私の地下ジャズ愛好癖】それはファグスとアイラ―から始まった~ESP DISKとの出会いと私的バートン・グリーン論への序章
【私の地下ジャズ愛好癖】偶想破壊ピアニスト、バートン・グリーンを論ずる~第1回:ESPの2作『Burton Greene Quartet』『On Tour』、そしてマイナスからのスタート。

とはいえ1年かかってもかけない本論に手を付けるには時間がかかる。まずはバートン・グリーン逝去の報をいち早く伝えた米国ニュージャージー州ニューワークの公共ラジオWBGOのサイトの追悼記事を勝手に翻訳するところから始めるとしよう。



【訃報】フリージャズピアニストの草分け、バートン・グリーンが84歳で死去。
WBGO|By Nate Chinen ネイト・チネン
https://www.wbgo.org/music/2021-06-29/burton-greene-pioneering-free-jazz-pianist-dies-at-84
1960年代にピアノによるフリー・インプロヴィゼーションの言語を確立し、後にクレズマー音楽にアヴァンギャルドな感覚をもたらしたバートン・グリーン氏が6月28日月曜日に亡くなった。享年84歳。

1966年の画期的なデビュー作『Burton Greene Quartet』をリリースしたESP-DiskがSNSで死去の報を発表した。死因は明らかにされていない。グリーンは50年以上アムステルダムに住み、主にハウスボートで生活していた。着実に新しい音楽を生み出していたが、アメリカにはたまにしか訪れなかった。

反抗精神と創造性を標榜するグリーンは、アーチー・シェップやマリオン・ブラウンなどの共演者と共に、初期のフリージャズ表現における重要人物だった。ベーシストのアラン・シルヴァとともに、60年代初頭にフリーフォーム・インプロビゼーション・アンサンブルを結成した。このプロジェクトの使命はグループ名に完全に表れている。「リスキーなやり方でした。」2003年に行われたダン・ウォーバートンとのインタビューで、グリーンは語っている。「暗中模索と言ってもいいでしょう。ヒットすればダイナマイト、そうでなければ手探りという具合に。上手くやるためには、本当に正しいムードでいなければなりませんでした」。

反体制的な風は正しい方向に吹いており、グリーンはいくつかの重なるシーンを航海することになった。1964年に、彼はトランペット奏者のビル・ディクソンが設立したジャズ・コンポーザー・ギルドに参加した。このギルドには、グリーンのピアノ仲間のセシル・テイラーやポール・ブレイをはじめ、シェップ、トロンボーン奏者のロズウェル・ラッド、作曲家でありバンドリーダーでもある鍵盤奏者のサン・ラやカーラ・ブレイなどが所属していた。

グリーンのエネルギッシュなアタックと全方位的な流れが十分に発揮されたのは、アルトサックスのマリオン・ブラウン、ベースのヘンリー・グライムス、ドラムのデイブ・グラントおよびトム・プライスが参加した『Burton Greene Quartet』だった。冒頭の「Cluster Quartet」では、ゆるいスイング調で始まるが、すぐに抽象的な表現を解放し、グリーンがリードしていく。2分後には、彼はピアノに手を伸ばして弦を擦ったり叩いたりしている。これは”ピアノ・ハープ”と呼ばれる拡張テクニックであり、彼がこのイディオムの先駆者となった。

Cluster Quartet


グリーンは、ヘンリー・カウエルやジョン・ケージが、プリペアード・ピアノや、ピアノ弦を手で鳴らす奏法について、すでに先例を作っていたことを認める。しかし、彼は躊躇することなく旗を揚げる。「フリージャズで、ピアノの内部奏法をしたのは私が初めてです」とウォーバートンに語っている。「完全にランダムで、自然発生的にプレイしたかったのです。ピアノの中にゴルフボールを入れたり、チューニングハンマーで弦を擦ったり。ヒューストン・ストリートのデリカテッセンの裏路地で見つけたゴミ箱の蓋を使ったりもしました」。

グリーンの "ピアノ・ハープ "の手法が見事に成果を上げた作品としては、ESP-Diskからリリースされたパティ・ウォーターズの1966年のアルバム『Sings』が挙げられる。フォーク・バラード「Black is the Color of My True Love's Hair」では、明らかにニーナ・シモンにインスパイアされたウォーターズが、取り憑かれたような脱構築を発揮しているが、それを扇動するのは、注意深い正確さを持つグリーンのプレイであり、まるで無邪気なコミュニケーションのようだった。

Patty Waters - Black is the Color of My True Love's Hair


当時「ニュー・シング」と呼ばれていたスタイルは、人種意識の高まりと共に生まれたものだったので、白人のミュージシャンであるグリーンは、少なくとも1人の大物から非難された。アミリ・バラカ(当時はリロイ・ジョーンズ)が「バートン・グリーン事件」と題したエッセイを書き、出世作となった著書『ブラック・ミュージック』に収録したのだ。

ニュージャージー州ニューアークで行われたファロア・サンダースとマリオン・ブラウンとの共演を舞台として、バラカはグリーンをジャズ界の権威から過大評価されている「白人の超ヒップな(MoDErN)ピアニスト」と皮肉り貶している。ブラウンやサンダースのスピリット・ミュージックを前にして、グリーンは「自分では使いこなせない、適切に同化できない力に押し潰されて」芝居がかったバカげたしぐさを展開したとバラカは論じている。

最高裁の判例のように、還元的に黒人音楽は黒人ミュージシャンでなければ真の演奏ができないという、拡大解釈を導く意図的な挑発行為として、「バートン・グリーン事件」は長く論争の絶えない遺産となっている。著名な文化理論家であるフレッド・モーテンは、その大規模な学術書『In the Break: The Aesthetics Of The Black Radical Tradition』(2003年刊)で、このエッセイを検証の対象とした。(『バートン・グリーン事件』は弁証法的で方言的などもりを生んでいる」とモーテンは指摘する。「それは人種による相違を安直に決めつけ分断するあからさまな表現である」。)

グリーンは批判に耐えていたが、それは彼がヨーロッパに渡ることを決意した理由のひとつに違いない。メジャーレーベルでの唯一のアルバムである『Presenting Burton Greene』は、アルト・サックスとトランペットにバイアード・ランカスター、ベースにスティーブ・ティントワイス、ドラムにシェリー・ラステンを迎え、ジョン・ハモンドがプロデュースし、コロンビア・レコードから1968年にリリースされた。同年に『ブラック・ミュージック』が出版されている。69年末には、グリーンは追放されるよう海外に移住していた。『Presenting Burton Greene』はレーベルに葬られ、現在も絶版となっている。(グリーンによれば、モーグ・シンセサイザーが初めて登場したジャズ・アルバムだという。グリーンは発明者であるロバート・モーグと63年に出会っている。)

Burton Greene - Slurp!


バートングリーンは1937年6月14日にシカゴで生まれた。美術アカデミーでオーストリア人のピアノ教師、イサドール・ブハルターにクラシック音楽を学んだ。後にピアニストの編曲家ディック・マークスと知り合い、ジャズのハーモニーと理論を学ぶ。

10代の頃、グリーンはビバップに夢中になり、バド・パウエルを真似ようと必死だった。しかしシカゴのシーンで演奏を始めたとき、そのままでは行き止まりであることに気づいた。「ライヴ現場で、特にシカゴの黒人ミュージシャンからの教訓は“自分らしくあれ、誰もコピーするな”というものでした」と2017年にナッシュビル・シーンとのインタビューで回想している。「彼らはとても怒りました。演奏した音符の数や、フォームの正確さなどを気にしませんでした。彼らはとにかく自分自身であることを望んだのです」。

その要望には、皮肉なことにグリーンをシカゴからニューヨークに追いやることとなった。1962年にNYに着いて6か月経たないうちにグリーンはシルヴァと出会った。彼らのフリーフォーム・インプロヴィゼーション・アンサンブルの唯一の公に手に入る録音は、1964年にジャドソン・ホールでのジャズ・コンポ―ザーズ・ギルドのコンサートでのものである。 90年代後半にケイデンスがCDでリリースするまで未発表だった。

グリーンは約100枚のアルバムをリリースしたが、その多くはほとんど知られていない。しかし彼は、ユダヤ人のクレズマーとフリージャズの自由を融合させたプロジェクトであるKlez-Edge(クレズエッジ)、別名Klezmokum(クレズモクム)で大きな支持を得た。彼は、この分野での彼の仕事が、フランク・ロンドン(クレズマティックス)とジョン・ゾーン(マサダ)といったより有名な試みに匹敵することを指摘するのが常だった。2008年、Klez-Edgeはジョン・ゾーンのTzadikレーベルからレギュラー・ゲストにクラリネット奏者ペリー・ロビンソンを迎えた『Ancestors, Mindreles, Nagila Monsters』をリリースした。

Yiddish Blues


グリーンは、40年以上にわたってインドの宗教教師スリ・スワミ・サッチダナンダの弟子としてナラダ・バートン・グリーンという宗教名を名乗り、生活でスピリチュアリティを実践してきた。

近年はドイツ生まれのシンガー、シルケ・レリグなどと幅広く活動していた。また、自分が生まれた国(アメリカ)へ何度か実りある帰還を果たしている。2017年のツアーでは、ニューヨーク州ニューバーグ(AtlasのElysium Furnace Worksコンサート)やマサチューセッツ州ケンブリッジ(Lily Pad)で公演した。Lily Padでは、ベースのデイモン・スミス、ドラムのラ・カラム・ボブ・モーゼスとのトリオ演奏でで、2年後にAstral Spiritsからアルバム『Life's Intense Mystery』としてリリースされた。

2019年のツアーでは、フィラデルフィアで開催された「October Revolution」フェスティバルで、パティ・ウォーターズ、ベーシストのアダム・レーン、ドラマーのイガル・フォニと共演した。グリーンとウォーターズの間の深い絆は、パフォーマンス全体を通して明らかだった。たとえ(あるいは特に)パフォーマンスのすべてが交渉の対象になっているようなときでも。

また、グリーンはこの1年間、隠遁生活のように制作活動を続けていた。「コロナの影響で孤立していた間、幸運なことに、アムステルダムのハウスボートでヤマハの高級グランドピアノでたくさんの新作を録音しました」とウェブサイトに記されている。

最新作は『For Burty - 10 Etudes』と題されたアルバムで、フルート奏者のティロ・バウムヘイアーとのデュオの3曲を除いて、すべてソロ・ピアノで演奏されている。また、10月にはコンサートDVD『Live at the Center for New Music』のリリースも予定されている。

https://www.klezmokum.com/burtongreene/
http://www.paristransatlantic.com/magazine/interviews/greene.html?fbclid=IwAR0XUor4HZ_Ot0msBRmkheAAm943bpUDUqxptGSil4L0LHCf45IlyEkiuNc
https://www.allaboutjazz.com/burton-greene-from-bomb-to-balm-burton-greene?pg=1

いつの日か
涅槃でピアノ
弾いてくれ

Burton Greene's MOLDAVIAN BLUES
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