③事の理に反するとは・・・妄想親父の戯言ですよ。読んでくださる方・・・ほんとうにありがとうございます。
さて、事の理に反するとは。どんなことでしょう。簡単に書くならば、人は空を飛べません。それは重力が存在するからです。でも、この重力はいつの時代も同じであったかと云うと実はそうではないのです。
この辺りの事はまた別の機会で・・・。
今はどうでしょう。ハングライダーにヘリコプター。自由に空を飛べる技術を有しています。
これが、人の力。発明とも云いますね。角度を変えればこれが、事の理に反する力なのです。
また、医学の進歩もそうです。これは、もう書く必要も無いでしょうね。
水は高い所から低いところへ自然に流れます。その力を利用して水力発電は行なわれますが、その対価(表現は難しいのですが)として、ダムを作る必要が生まれ、自然が壊され、それでも多くの人の為になっている間はまだ良いのですが、やがて一部の人間は仕事の為の仕事を作り始めます。これが、事の理に反するのですよ・・・。
やがて、その反する力(技術)を他国へ売ろうと動き始めます。この辺りは何も書く必要もないでしょう。そのままの反射を受け初めています。
そして、自然界は大きく動きます。利用は利用で報いられるのです。そして、すべての人が文明という力を利用している間は、自然界からみれば皆同じなのです・・・。私も例外では決してありません。もしも、多少の違いがあれば、ほんの少し意識出来るか出来ないか・・・ただそれだけです。
これが、宇宙から見れば皆同じ・平等という事です。
人は一人では決して生きては行けません。自己完結できないのです。そのように設計されています。そこにこそ、唯一、事の理に反する行動が出来る存在として生まれて来ている理由があるようです。
誤解してはいけません。反する行動が、許されているわけでは無いのです。その行動の結果をどれだけ意識できるか・・・あるいは感じられるか・・・その動きを見られているのです。
体が弱く、気弱だった私はどれだけ神様に助けを願った事でしょう・・・。
でも、神様は助けては下さらない。助けたくとも助けられないのです。それは、それが事の理だからです。
その理がわかれば、神社への訪問の仕方も変わる事でしょう。樹齢何百年と云う樹に触れる心も変わるでしょう。パワースポットへ行く事の意義も変わる事でしょう。
近くの公園にたたずむ木々を見つめる心が変わるのです。
そこには、自分と自然しか存在しないのです。そして、気付くのです。
本当に求めるべき姿が感じられるのです。
それでも、わからない・・・それでも迷う。 なら、出来る事を静かにするしかない・・。
祈りという言葉は僕はあまり好きではありません。そこには無意識に結果を求めるからです。
その祈りが本物かどうか。自分では点検できないからです。ですから、感謝しかやはり無いと・・・。
あんたは病気がちだから、感謝が足りないんだよ!とよく言われました。子供の頃の話ですよ・・・今でも、きっと足りないのでしょうね・・・。単純なすりキズでも普通の人の倍以上は治るのに時間がかかり、おまけにすぐに膿んでしまいます・・・。そんな体質を今では受け入れているのであまり苦にはなりませんけどね・・・差ほど子供の頃と変わってはいません。気にしないようにしているだけのことです。探せば痛いところだらけです。
ここまでこられた事も・・・感謝です。それしかありません。
この先は、旨く書けないのでここまでにします。 なんだか支離滅裂に成ってきた・・・。
さて、事の理に反するとは。どんなことでしょう。簡単に書くならば、人は空を飛べません。それは重力が存在するからです。でも、この重力はいつの時代も同じであったかと云うと実はそうではないのです。
この辺りの事はまた別の機会で・・・。
今はどうでしょう。ハングライダーにヘリコプター。自由に空を飛べる技術を有しています。
これが、人の力。発明とも云いますね。角度を変えればこれが、事の理に反する力なのです。
また、医学の進歩もそうです。これは、もう書く必要も無いでしょうね。
水は高い所から低いところへ自然に流れます。その力を利用して水力発電は行なわれますが、その対価(表現は難しいのですが)として、ダムを作る必要が生まれ、自然が壊され、それでも多くの人の為になっている間はまだ良いのですが、やがて一部の人間は仕事の為の仕事を作り始めます。これが、事の理に反するのですよ・・・。
やがて、その反する力(技術)を他国へ売ろうと動き始めます。この辺りは何も書く必要もないでしょう。そのままの反射を受け初めています。
そして、自然界は大きく動きます。利用は利用で報いられるのです。そして、すべての人が文明という力を利用している間は、自然界からみれば皆同じなのです・・・。私も例外では決してありません。もしも、多少の違いがあれば、ほんの少し意識出来るか出来ないか・・・ただそれだけです。
これが、宇宙から見れば皆同じ・平等という事です。
人は一人では決して生きては行けません。自己完結できないのです。そのように設計されています。そこにこそ、唯一、事の理に反する行動が出来る存在として生まれて来ている理由があるようです。
誤解してはいけません。反する行動が、許されているわけでは無いのです。その行動の結果をどれだけ意識できるか・・・あるいは感じられるか・・・その動きを見られているのです。
体が弱く、気弱だった私はどれだけ神様に助けを願った事でしょう・・・。
でも、神様は助けては下さらない。助けたくとも助けられないのです。それは、それが事の理だからです。
その理がわかれば、神社への訪問の仕方も変わる事でしょう。樹齢何百年と云う樹に触れる心も変わるでしょう。パワースポットへ行く事の意義も変わる事でしょう。
近くの公園にたたずむ木々を見つめる心が変わるのです。
そこには、自分と自然しか存在しないのです。そして、気付くのです。
本当に求めるべき姿が感じられるのです。
それでも、わからない・・・それでも迷う。 なら、出来る事を静かにするしかない・・。
祈りという言葉は僕はあまり好きではありません。そこには無意識に結果を求めるからです。
その祈りが本物かどうか。自分では点検できないからです。ですから、感謝しかやはり無いと・・・。
あんたは病気がちだから、感謝が足りないんだよ!とよく言われました。子供の頃の話ですよ・・・今でも、きっと足りないのでしょうね・・・。単純なすりキズでも普通の人の倍以上は治るのに時間がかかり、おまけにすぐに膿んでしまいます・・・。そんな体質を今では受け入れているのであまり苦にはなりませんけどね・・・差ほど子供の頃と変わってはいません。気にしないようにしているだけのことです。探せば痛いところだらけです。
ここまでこられた事も・・・感謝です。それしかありません。
この先は、旨く書けないのでここまでにします。 なんだか支離滅裂に成ってきた・・・。