<2025.07.05>
*80歳を過ぎたこの4~5年前より、家にある仏壇(後ろには観音様の掛け軸)を拝む時に『お経を』上げる習慣がついて毎晩10分ほど唱えている(観音経・般若心経)。
このような事から数回に亘って「門前の小僧習わぬ経を読む」をテーマにして綴って見たいと思う。
(であります調となっています)
・・・・・・・・・・プロローグ・・・・・・・・・・
私は、大分の田舎の禅寺の三男坊として生まれました。
以来86年間生きて現在に至っていますが、普通のいわゆる在家の子供としてではなく、寺の息子として、18歳まで過ごしてきました。
この寺で生まれ・育ったことが私の86年(今は在家)の生き方・考え方に何か影響があって現在があるのでは・・・・と、時々思うことがあります。
このような事からこのblogをお借りして、『寺に生まれた』という事に、焦点を当てて何回かに分けて綴って見たいと思います。
(現在は訳あって、親戚筋の者が住職となっており、私から見ての祖父(養子の由)・父・次兄と3代続いていた僧侶としての家系は途絶えています)
【第一回・・・・生い立ち】
私が生まれた寺は、田舎のより深い山麓にあるいわゆる『山寺』でありました。
寺としての建物は大きな『山門』(鐘撞堂)に普通の『本堂』それに『観音堂』、そして住んでいるいわゆる『庫裏』、こちらは藁葺きの大きな家でした。
環境の特徴としては、裏山の地下水から『岩清水』(私たちは滝と呼んでいた)が湧いており、その岩の上の方には、『乳観音』と言われていた石佛像がありました。
庫裏の炊事は、この石清水を樋で台所の溜め枡迄引いて、これを使っていましたし、風呂の水は、滝つぼに溜まった水を2つの『桶』に入れて天秤棒で風呂場までの約50mを担いで運んでました。
(現在は井戸があり水道と同じ扱いになっています)
一般に言うお寺ではありましたが、もう一つ近郷の方々から信仰を集めていたのは、
『観音様』と『岩清水』でした。
『観音様』は、木造りで背丈2m位の立像(寺の歴史書には1000年以上前と記載)で、信仰心の厚い人が『願』をかけてお参りに来たり、『九州西国三十三霊場』となっていたために、『観音霊場』をめぐる、お遍路さんたちも時々お参りに訪れていましたね。
この『観音様』は、夏と冬の年2回各1日のみ『御開帳』と言って、扉を開き直に『像』を拝むことが出来る習わしになっていました。
特に夏の『御開帳』の日の夕刻には、参詣者も多く境内には10軒ばかりの『出店』が出て縁日として賑わっていた記憶があります。(出店は私が長崎に出て行ったあとしばらくは続いていたようですが徐々にすたれたいった様であります)
また『岩清水』の方は、こちらの水を飲む(いただく)と、母親の乳が良く出るとかで、
『乳観音』のお札をいただきに、そして滝の水を汲んで持って帰る、妊婦とその母親の姿を
時々見かけてました。
<私はこの寺で生まれた・・・・最近の様子>