<2025.08.23>
【第八回・・・・結びとして】
現在『生』をいただいて86年となり、色々持病を持ちながらも、表向きは元気にして居るとこです。
テーマでもある『門前の小僧習わぬ経を読む』の投稿きっかけとなったのは、第一回にも綴りましたが、この4・5年は毎夕父母や兄弟の『仏前(遺影)』と『観音像』の掛け軸の前で、『観音経』や『般若心経』を唱えているわけですが・・・・。
きっかけを想いおこせば子供心から見ていた、母親の信仰心から来た、観音様のご利益の話が(観音信仰)が心の隅にあり、そしてまた日々父母や兄たちの仏前に手を合わせる中で自然に読経に繋がっていった感じがします。
この『読経』は、今では音読ですが、初めの内は家内にも恥ずかしくて、黙読をしていましたが、今では『ろれつ』がはっきりとしている証として、大きな声?でを、意識した音読になっているわけです。
(少し付け加えるとするならば・・・・270文字ちょっとの『般若心経』は、空音読、文字数の多い『観音経』は、経本とにらめっこしながらですね)
今回でこのテーマは終わりとなりますが、縁あって『お寺』の中で生を受け18年間過ごした、この環境が「私の人生にどのように影響して来たのだろうか?」と、想いを馳せる中で振り返って見ました。
結論から言って、サラリーマンの現実生活が長く、あまり大きな影響はなかったようですが、一つ二つ揚げるとすれば、一つはやはり目に焼き付いている『山寺と周囲の環境』ですね・・・・これは『心の中のふるさと』の姿としても存在しています。
二つ目は、誰にでもある事ですが『人生観や生きがい』について色々考える時に、『仏教的』な切り口でのヒントが育った環境からか、やはり得易く役に立った様な感じがしているところです。
さいごに、テーマである『・・・・習わぬ経を読む』は、形としてこれからもずっと続くでしょうし、声が出る限り(元気で過ごしているバロメーターとしても)・・・・続けたいと思っているところです。
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今回Blogのテーマとして『門前の小僧習わぬ経を読む』を揚げたのは、17年間にわたりお世話になったこのBlogに、いつか自分の生かされて(生きて)来た過程を、文章にして投稿して見たいと思い、少しずつ原稿?を認めていました。
こうした中、本年の11月で、『サービス終了』と言う情報をいただきましたので、原稿に補足をしながら
8回に亘ってシリーズとして投稿させていただきました。
拙文をお読みいただきありがとうございました。
<「夕日輝く」・・・・久しぶりに運動公園を歩く>
<「折り鶴」・・・・老人会の月例会にて
・・・・先輩に教えて貰って何とか完成>