![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/11/cfb5f9c89312f8a31c734bbff86d5e64.jpg)
古池や蛙飛びこむ水の音
写真右の碑石を見て、最初何が書いてあるのか分からなかった。同伴者に「これは古池やでしょ」と教えられて、納得。蛙の置物まで案内に坐っているのに不覚である。―― 古今、俳句というと、大体、この一句になる。弟子のタカライ・キカク(宝井其角)は、上五を「山吹や」でいかがと言ったが、バショウは否(ノン)と答え、「古池や」と聞かなかった。『古今集』にある「かはづなく井手の山吹ちりにけり。花の盛りにあはましものを」は、散る山吹の向こうを張って、清流の幾箇所で華やかに鳴く蛙の群れの情景である。淀んだ古池の蛙は、あくまで静寂を破る単独犯でなければならない。蛙は、いわば、単騎のサムライである。その行為は、一つの音に帰結し、また何かが始まっている。
同伴者に、上記の作品に書いた説明を繰り返してから、芭蕉は最初に思いついた「古池」をくっつけただけだったかもしれないと考えた。創作とは、解釈ではない。ひらめきを手離さないことだ。
写真右の碑石を見て、最初何が書いてあるのか分からなかった。同伴者に「これは古池やでしょ」と教えられて、納得。蛙の置物まで案内に坐っているのに不覚である。―― 古今、俳句というと、大体、この一句になる。弟子のタカライ・キカク(宝井其角)は、上五を「山吹や」でいかがと言ったが、バショウは否(ノン)と答え、「古池や」と聞かなかった。『古今集』にある「かはづなく井手の山吹ちりにけり。花の盛りにあはましものを」は、散る山吹の向こうを張って、清流の幾箇所で華やかに鳴く蛙の群れの情景である。淀んだ古池の蛙は、あくまで静寂を破る単独犯でなければならない。蛙は、いわば、単騎のサムライである。その行為は、一つの音に帰結し、また何かが始まっている。
同伴者に、上記の作品に書いた説明を繰り返してから、芭蕉は最初に思いついた「古池」をくっつけただけだったかもしれないと考えた。創作とは、解釈ではない。ひらめきを手離さないことだ。